第6話 美醜姉妹の暗躍
「いただきまーす」
「先に言っておくが、本当に全部自分で食えよ。俺は手伝わんからな」
「分かってますって」
「む、美味いなこれ」
常暁は、マルゲリータを気に入った様子だった。一緒に頼んだ野菜炒めより、減るペースが明らかに速い。
「お坊さんって、チーズや牛乳はいいんでしたっけ? 卵とかもそうだけど、動物由来ですよね」
灯が言うと、常暁は笑った。
「宗派によって禁じているところもあるが、俺は普通にとっている。そうでないと、下りてきた時の食事がままならんからな」
「そうなんだ……」
「そもそも釈迦が乳粥を食っていたんだから、なんの支障もないだろう」
常暁がすらすらと言った。下界のことはほとんど知らないくせに、こういうことになると実によくしゃべる。
「それに、精進料理だって肉が入っていることもあるんだぞ」
「え?」
さすがにそれは知らなかったため、灯は食べる手を止めた。
「食べる動物が殺されるところを直接見ておらず、自分のためにその動物を殺したと知っていなければ大丈夫。そういう考え方もあるんだ」
「うわあ……」
それは屁理屈と言わないだろうか。灯がそう思っていると、常暁が苦笑した。
「そうまでして、肉が食いたい誰かがいたんだろうな。俺はそこまで困ってない」
「ははは……」
灯はお坊さんたちに親近感を感じながら、残りの料理を平らげた。
「……本当に全部食うとは」
「当たり前じゃないですか」
引いている常暁をよそに、灯は隣のキッチンで食後の茶をいれる。それをすすりながら、事件のおさらいを始めた。
「外傷はそんなになかったって聞きましたけど、結局死因はなんだったんですか?」
「
「首を絞められたわけじゃなくても、窒息って起こるんですか?」
今日は、灯にとって聞いたことのない情報の連続だ。
「ああ。お前の好きな『みすてりー』とかにもたまにあるだろう。枕かなにかをかぶせて殺すという表現が」
「ああ、そう言われてみれば……」
年末などによくやっている長時間ドラマを思い浮かべながら、灯はうなずいた。
「でもあれは、鼻と口を塞いでるんだと思ってました」
「今回もその可能性がなくはないが。胸に大きな圧力が加わった場合、血管への圧力が上がって脳への循環が滞る。これが呼吸不全を起こすと考えられているんだ」
「なるほど……」
納得しながら写真に目を通していた灯は、ふと手を止めた。
「あれ? ここ、何かついてますね。やっぱり手で締められたんじゃないですか?」
死体の首のところに、わずかな出血がある。それを灯が指摘すると、常暁は首を横に振った。
「締めてなくても、呼吸困難でここに出血が出ることはある。今回は膵臓の出血もあるし、間違いないだろう」
常暁が言い切った。灯もそれ以上は追求せず、うなずく。
「そうなると、ある程度力のある人か……」
「子供相手だから、女性でも体格が良ければ可能だな。腕を怪我していたら無理だが、今まで会った中にそんな奴はいなかったしな」
常暁はそう言って資料をたたむ。今日はこれで終わり、ということだ。灯もうなずき、ベッドに潜り込む。
「ハラチホラタ、シャレイサンマンダ……」
しかし常暁は床の布団の上に座ったまま、何やらぶつぶつと唱え始めた。
「あの、僕は今から寝るんですけど……」
「サンマンダビダンマデイ、マタキャリャハラチ……」
「言って聞く人じゃありませんでしたね」
灯は諦めて布団をかぶった。常暁のつぶやきは、いつまでも部屋の中に低く響いている。
「……さて、奴は寝ましたか」
常暁はちらっと灯を見た。文言を唱え始めてから、三十分ほどが経過している。
常暁の横に、もうひとつ人影があった。同じように様子をうかがっていたその影は、灯の顔を見て安心したように微笑む。
部屋の中に増えていたのは、絶世の美女だった。すっとした切れ長の目に白い肌、腰まで伸びた漆黒の髪。ラクシュミーを前身とする福の神、
「お呼びだてして申し訳ない」
常暁は人間相手ならお構いなしだが、人ならざるものには敬意を払うため、吉祥天には丁寧に接していた。
「大丈夫よ。彼はよく眠っているわね」
常暁はそれを聞いてから、文言を少し変えて唱え始めた。すると壁の一部が歪み、子供の頭ほどの黒暗点が現れる。その中から、小さなものが体をよじりながら出てきた。
人間の形はしているが、もちろん人外の者だ。肌は灰色、意地悪そうに曲がった口と、何か不満がありそうにひそめられた眉。普通の人が想像する小人や妖精とは、似ても似つかない姿だ。
「お久しぶりです、
「儂を忘れずに呼ぶとは、良い心がけじゃ。相変わらず綺麗な顔をしておるの、常暁」
己の肩に這い上がってくる黒耳天を見ながら、常暁はため息をついた。
彼女は吉祥天の妹にあたる。姉と対をなす女神であるが、この神がもたらすのは福でなく災厄だ。ただし、彼女を抜きにして吉祥天のもたらす福を受け取ることはできないと言われる強い神である。
だから、常暁はしばらく黒耳天を好きにさせておいた。たとえ、髪をベロベロとなめ回されていようとも。
「……で、なんのために儂を呼んだんだい」
ようやく、黒耳天が顔を上げて言った。
「
「本気かい?」
黒耳天の顔がさらに歪んだ。
聖天とも呼ばれる歓喜天は、福を与える神である。しかしその力は、後世七代の福を一代で使ってしまうといわれるほど激烈だ。加えて、極めて気むずかしい。丁重に取り扱わないと、たちまち罰をあててくる。そのため、聖天信仰には手を出さないと公言している者もいるくらいだ。
常暁は以前、この歓喜天と遭遇したことがある。操られた人間を通じての邂逅だったが、すさまじい力だった。それを探れと言われたら、黒耳天が嫌な顔をするのは当然なのである。
「あんなもの、一部の物好きがありがたがっているくらいだろう。放っておけばいいのさ、人が触るもんじゃない」
「貴方の言う通りです。ただ、最近歓喜天の方から人間に寄ってきて玩具にしている。元々善悪の区別ができない神だったが、最近とみにたちが悪い」
「……ずっと山にひきこもってた奴が、何をそこまでムキになってるんだい」
「
常暁は低い声で言う。相棒の名を呼ぶのは久しぶりだった。
「俺にとって、本気になる理由はそれだけで十分です」
黒耳天はじっと常暁の顔を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「……バカだねえ、人間ってやつは。ま、いい男だから勘弁してやるさ」
黒耳天はそう言って身を翻すと、窓から飛び出して行く。あっという間に、彼女は夜の闇の中に消えていった。
「あの」
それを見つめていた吉祥天が、何か言いたげな顔をした。
「さすが姉妹。同じ心配をしてくださるのか?」
「いえ。周囲の気配が変わりました。……あなた、歓喜天に目をつけられていますね」
彼女が何を言いたいのか、常暁はすぐ理解した。
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