第39話 小宮山亮という男
「は?」
タイムリーな話題と、小宮山の思いがけない告白に、龍生は思わず耳を疑った。
茶柱も茶くずも、全てがもみくちゃになった緑茶の底を見つめて、小宮山が語る。
「ゼミの教授でな。時期的には日野ノートを作成し始めた頃だったと思う。明るくて快活で、面倒見の人だったよ。健康的な朝黒い肌に大柄で縦に長い体。いつもしゃれた眼鏡をかけいて、死んだと聞かされた時も笑った顔しか思い出せなかった」
自害したという情報から想像していた人物像とは、かなり異なるようだ。
根暗とまでは言わないが、少なくとも根明だとは思っていなかった。
「嘘花の中に感染源となる個体がいるという可能性は、当時から先生が持っていた見解だった。感染源というのは……あー、正しくは寄生源と言ってだな」
「分かります。論文を読みました」
思わず申告すると、小宮山が意外そうに顔を上げた。
「眉唾の論文をお前が読むとは思わなかったぞ」
「なんていうか……興味があって」
ふうん、と小宮山が胡散臭そうに目をすがめる。
「お前あれだな。忙しすぎてアルコールも入れられないからヤケになったな」
「──嫌だな。そんなわけないでしょ」
強く否定できないところが後ろ暗い。
鼻を鳴らして小宮山が先を続けた。
「先生が寄生源の存在を疑い始めたのは従姉の女性が嘘花になってからだと聞いている。彼は管理者で……多分、その人を慕っていた。いや、慕われていたのかな」
心の機微に疎い小宮山がそのあたりの事情を考察するのは難しいのだろう。
しばし空中を睨んでいたが、やがて諦めたように首を振った。
「とにかく俺は日野晃という人物を知っていた。やや大雑把なところはあるが、理性的な人で、わざわざ論文で大ぼらを吹くような人じゃない。先生が死んで、俺は特事課に回されて……その時初めて論文を見たんだ」
それまでは嘘花なんかに興味はなかったからな、と小宮山が加える。
「目にした論文は、かつて先生が主張していた説の集大成だった。俺は改めてその説を思い出して、それでも書かれていることを信じることはできなかった。……いや」
もぞもぞと体を動かして小宮山が自分の言葉を否定する。体のどこかで発芽のきざしを覚えたようだ。
「いや、違う。怖かったんだ。そうだ、怖かった。あの人がいい加減なことを書き残すはずはなかったが、それを信じたら俺はどうなる。特事課で、年に何十も嘘花を見るんだぞ。接触回数はその何十倍にもなる。万が一その中に寄生源が紛れていたら? そんな説、信じていたら気がおかしくなるだろう」
「異動願いは出さなかったんですか」
「出したよ、出した。何度もな。だけど特事課は万年人手不足だ。まだ壊れてもいない人材を他所にやるほど余裕もない。頼みの綱は勤務年数による自動異動だけだが、それだって何だかんだと理由をつけて伸ばされている。お前は知らないのかもしれないが、人事なんて恣意的で不公平なものだぞ」
言われてみれば思い当たることがあって、龍生は口をつぐんだ。
確かに課員が特事課を出る時はいつも決まって壊れた時か辞める時。
それを思うと、いつだったか伊織に勧め、葛野に説いた異動願いも、出したところで受理されたかどうかは怪しい。
「だからさ」
ざりざりと腕を芽ごとさすって小宮山が言う。
「俺は葛野君に寄り添うわけにはいかなかったんだ。感染を恐れるあいつの言葉をまともに聞いたら、こっちが潰れる。だから否定して否定して……あいつを殺してしまった」
はっとして、龍生は小宮山を凝視した。
彼の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、驚いたのだ。
罪を懺悔するように、小宮山が繰り返す。
「自分が怖いから、あいつを助けなかった。知っていることすら口にしないで見て見ぬふりを決め込んだ。叱って、罵倒して、あいつの弱さのせいにして。それは全部、自分のためだ」
ざり、ざり。ざり、ざり。
掻き毟る小宮山の腕から若芽がぱらぱらと床に落ちた。
「それを言ったら俺にも罪があります」
増えていく若芽の残骸を眺めながら、龍生は心内を明かした。
「葛野君の様子の変化には気づいていました。それでも何もしなかった。妻のことがあったとか、あんたの領分だからとか、そういうのは全部言い訳だ。要するに面倒だったんです。……ねえ、小宮山さん。俺たちはもう何度も、そうやっていなくなっていく課員を見送ってきました。別にしがみつくような場所でもない。別の場所を選ぶならそのほうがいい。心を寄せても、労力を割いても、どうせ彼らはいなくなるし、その方が彼らにとってもいいだろうって。そう思ったら葛野君をフォローする気にもなれなかったんですよ」
薄情な怠慢は、土壇場で言葉に重みを持たせなかった。
葛野の心を覆すほどの信頼も、信用もなく、そうして落ちていく彼を見逃したのだ。
「傷を舐め合うどころか抉って広げる関係だったな」
「だから会いたくなかったんですよ」
本当は返礼品も郵送しようと思っていた。
そうしなかったのは、受け取った時の紙袋の重さが葛野の命の重さを主張しているようだったからだ。
はー、と息を吐いて、小宮山がソファの上にだらしなく寝そべる。
「疲れた。お前、もう帰っていいぞ」
ひらひらと手だけで追い払う小宮山に苦笑して、龍生は素直に腰を上げた。
「もてなしやがれと言いたいところですが、俺も疲れました。帰ります」
別れの挨拶すらろくに交わさず玄関に向かう。その背中に、小宮山がついでのように声をかけた。
「そういえば日野先生は寄生源の研究をする一方で、寄生を回避する方法も模索していたな」
「え?」
足を止めて振り返った龍生を小宮山は見なかった。体を起こす気配もなく、独り言のように続ける。
「何の記録も論も残されていなかったから、結局その方法は見つからなかったんだろう。もしかしたら先生は、そのことに失望して死んだのかもしれん」
憶測だけどな、と再びひらひら手を振って、今度こそ小宮山は龍生を追い払った。
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