第40話 足留め
大人の男の腕でひと抱えほどもある鉢の中に、用意した土を入れていく。
徐々に埋まっていくのは人の足だ。
張りの失われつつある生白い素足に黙々と土をかけていると、頭の上から声が降ってきた。
「すみませんね、御堂君」
目を上げると磯波が穏やかな表情でこちらを見下ろしていた。
床から生える鉄製の椅子に体を固定され、日当たりの良い場所で強制的に日光浴をさせられている現状は決して心地よいものではないはずだ。
それでも抵抗一つせずにこうして足留めをさせている磯波には、こちらを気遣う余裕があった。
「家族にさせるにはあまりにも酷なので……。とはいえ他に頼めるあてもなくて、君に頼んでしまいました。施設側に全てを任せるプランもあるのですが、高くつくので」
少しでも多く家族に金を残しておきたかったのだ、と恥ずかしそうに打ち明ける磯波に、龍生はつい余計な一言を口にする。
「それなら施設への入所をもっと後にすれば良かったのに」
嘘花を抱える家庭の事情は様々だ。
分かってはいるものの、何もこんな初期も初期、まだ引き抜けるほどの芽しか出ていない磯波が、望んで特別収容所に入るなんて理解の範疇を超えていた。
本来なら、普通に暮らせる最後の時間を過ごしているはずなのに。
しかも反対する家族を説得して、望んで入所したと言うのだからますますその心中は分からなかった。
「すみません、忘れてください」
他人の家の事情だ。踏み込むことではない。
自分から話題を取り下げて、龍生はぬるぬると汗ばむ背中を土のついた手で一度掻いた。
腐葉土を混ぜた土はどこか咲き誇る嘘花の香りと似ている。
真木を思い出し、妻を思い出し、これまで出会った数々の嘘花を思い出しながら丁寧に足を埋めていると、再び磯波の声が頭の上から落ちてきた。
「愛していたので、苦しめたくなかったんです」
返答までにずいぶん時間を要したのは、自分の心境を正しく表す言葉を探していたからだろう。
嘘花と会話する際は、質問の答えを急いで求めてはならない。
特事課の心得を今更思い出して、龍生はゆっくりと磯波を振り仰いだ。
「私は、家庭には恵まれたと思っています。生まれた家は貧しかったけれど、大学まで教育を受けることができましたし、公務員試験に受かってからは生活も安定しました。妻と出会い、娘もできて……反抗期には人並みの苦労もしましたが、いい人を見つけて一緒になった。今では家族ぐるみで助け合っています。みんな頼りない私を愛してくれる心優しい人たちです。でもだからこそ……こんな現実には、きっと耐えられない」
訥々と話す磯波の頬に、一瞬寂しげな笑みがよぎる。
「少しずつ化け物となっていって、処分されるまでには約二年あります。二年もです。その間、怯えて泣き言を言わないとも、苦しんで八つ当たりしないとも限りません。もしかしたら、書き換えられた脳が家族に犯罪者になれと唆すかも。そんなのは不幸です」
温かささえ感じる声を聞きながら、龍生は不意に泣きたくなった。
愛しているから、守るために離れるのか。そこにあった幸せを歪ませぬよう、化け物になるきざしすら実感できないうちに別れを告げて。
それはひどく悲しい選択で、だけど美しい思いやりに思えた。
「家族の面会は謝絶にしました。人間のままお別れを言えて、そのまま彼らの記憶に残れるなら本望です」
溢れてしまいそうな涙に耐えて、龍生は手元に視線を戻した。
よく分かった。もう何も言うことはない。
足首まである土を押しかためて、水をかける。
嘘花の根が伸びる速度は凄まじく、足が引き抜けなくなるほど根が張れば拘束は解かれるはずだった。
同時に根から養分を摂り始めるので、食事も排泄も必要なくなる。
植物になっていくのだな、と実感しながら龍生は作業を終えた。
「ありがとうございました」
タオルで顔を拭う龍生に磯波が労いの言葉をかける。そしてふとエレベーターのある方向を眺めて呟いた。
「本当は、志摩さんを連れてくるかと思っていました」
鉢を買って、土を運んで、磯波を植える。
大の大人とはいえ一人で作業するには肉体的にも精神的にも過重な労働に、手伝いを呼ぶと思ったらしい。
作業道具を片付けながら、龍生は応えた。
「志摩さんはお父上が嘘花でしたから。課長を植えるのはその頃を思い出した辛いかと思って、声をかけなかったんですよ」
「それは君も同じでしょう。改めて、悪いことをしましたね」
「いや俺は」
手を止めて、見慣れた施設の見慣れた風景を見渡す。
「俺は妻をすぐに収容所に入れてしまいましたから。時折義務感に苛まれて会いに行く程度で、金にものを言わせて何もかもここの人達にまかせていましたし。足留めをしたのも、これが初めてです」
そうですか、と磯波が一言相槌を打った。それ以上は無粋になると発言を控えたようだ。
代わりに別のことを龍生に言う。
「君には一度入れ込むな、と言った覚えがありますが……志摩さんのこと、気にかけてあげてください」
「何ですか、改まって」
ちょっと笑って、龍生は磯波を眺めた。
心境の変化は葛野のことがあったせいだろう。何もできなかった後悔は、何も龍生や小宮山だけに取り付いたものではないようだ。
しかし、龍生を見つめ返した磯波の眼差しにセンチメンタルな憂いは見当たらなかった。
「今から君に話すことは、志摩さんのプライベートな情報です。彼女が書いた論文については人事でも話題になったので、実は配属前に私が直接面談をすることになったのです。その時耳に入れたことなので、本当なら君に打ち明けるのはマナー違反でしょう」
それでも、とわずかにしか動かない上半身で、磯波が懸命に前のめりになりなる。
「そのことを知っている人間は、もう特事課からいなくなる。だからどうか、せめて君が知っておいてあげてください」
「……俺は大して役に立ちませんよ」
妻も葛野も、その心内を変えることはできなかった。
何かを託されても期待に応えられるとは思えない。そう言うと、磯波は自由になる首をはっきりと横に振った。
「御堂君。人は人と影響しあって生きているものです。そこに存在する以上、誰もが誰かに干渉している。関わりがないと思っている人間もそうです。その場にいて関わらなかった人間として、誰かに影響を及ぼしているのです。……君にばかり背負わせてしまって申し訳ありませんが、私はもう、何もできなくなるので」
「分かりました。分かりましたよ」
そこまで言われて固辞する理由はない。
好きなようにしたらいい、と龍生はその場に腰を下ろして聞く態勢を作った。
「ありがとうございます。君は真面目で、優しい人ですね」
居心地の悪い称賛を与えてから、磯波が居住まいを正して語り始めた。
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