第37話 日野ノート




 磯波が抜け、小宮山が抜け、龍生は課長代理へと押し上げられた。

 急遽増員された課員は三名。

 皆かつての自分のように別の課から一時的な出向として送られてきた者達である。

 雑務をこなし、自らも嘘花の聴取に向かい、新しい課員を指導する。

 多忙を極める毎日の中で、最も堪えたのは内外からひしひしと向けられる怯えであった。

 嘘花は感染するのか。

 特事課は呪われているのか。

 次は自分では。

 無言の不安はあの日の葛野を想起させ、同時にうまく立ち回れなかった龍生を苛んだ。

 小宮山とは、あの時依頼言葉を交わしていない。

 龍生から葛野の顛末を聞いた小宮山は、一言「可哀想にな」と呟くと、自ら保健所へ向かって行った。

 翌日には退職願が届けられ、それきりになっている。

 小宮山の住居は、龍生達特事課がカバーする地区を外れていたため、顔を見るには自宅に赴かなければならなかった。

 忙殺される日々を理由に未だ一度も足を運ばずにいるのは、やはり葛野のことを話題にするのが怖かったからかもしれない。

 指導係であった小宮山も、自殺の直前に会話した龍生も、どこかで相手を責めたい気持ちを抱えている。

 少なくとも龍生の方では何事もなかったように接するのは難しいと踏んでおり、要するに見て見ぬふりをしているのだ。

 日が落ちると薄暗くなる古い蛍光灯の下で、龍生はかちかちとデスクトップパソコンのマウスを動かしていた。

 画面に表示されているのは日野晃氏が書き残した論文、通称日野ノートである。

 公的機関からは眉唾ものと退けられているものの、日野氏は内容をネット上にも公開していたため、その気になれば誰にでも観覧は可能だ。

 人気のなくなったフロアの壁時計はすでに二十二時を指している。

 捌いても捌いても終わらない報告書の山を尻目に、現実逃避して眺めているのが日野ノートなのだから、そろそろ職業病を疑うべきだろう。

 アルコールを入れる暇もねえな。

 不本意な禁酒に追い込まれている現状に苦笑しながら論文を読み進め──やがて龍生はその内容に引き込まれて行った。


『寄生植物である嘘花はウィルスのように感染したりはしない。また、発芽に至る者、至らない者の条件も定かになってはいない。それぞれの嘘花は全く偶然に、ランダムに寄生されるというのが通説で、私を含め多くの研究者がこの論の確証を得ている。しかし一方で、自分は確かにある嘘花を中心に嘘花が増える事象を確認した。この一見疑わしい仮説を後世の研究者のために書き記しておく』


 俎上に上げることすら馬鹿馬鹿しいとされていた日野ノートの実態は、龍生が思うよりずっと冷静で中立的なものであった。

 従来の通説を否定せず、ただ特殊例があるかもしれないと可能性を説いている。

 感染云々についても、文中に使われた表現、「まるで感染するように」という言葉が一人歩きしたようで、彼自身は一言も「感染する」とは書いていなかった。

 日野は論文の中で、嘘花の中にはごく稀に感染源のようになる個体(便宜上寄生源と記されている)がいるのではないか、という旨の仮説を繰り返し説いていた。

 この個体の周辺では発見される嘘花が増え、局地化する。一見微差に見えるかもしれないが例えば同じコミュニティの中から複数嘘花が出るなど異例な事態が相次ぐ、との指摘もあった。

 まるで現状を予言するかのような日野の論に、龍生は嘘寒さを感じて腕をさすった。


──もし、今の状態が日野の仮説に当てはまるとすれば、近い場所に寄生源となる嘘花がいることになる。


 半信半疑のままタブレットを引き寄せると、この地区に登録されている嘘花の情報を呼び出した。

 向井沙良、磯波芳仁を含む名前が一覧となって表示される。

 この中の一体誰が、と考えて、龍生は自分の思考がすっかり日野ノートに振り回されていることを自覚した。

 焦るな。早急に結論を出すことじゃない。

 心の中で自分を宥めていると、ふいにパソコン画面の光を人の頭が遮った。


「うわ」


 声を上げてしまってから、形の良い後頭部が伊織のものであると気づく。


「びっくりした。志摩さんか」


 いつの間に近づいたのか音も立てずにディスプレイを覗き込んだ伊織が、はい、と龍生を振り返った。


「夜食を買いに出たら明かりがついてるのが見えたので」


 コンビニ袋を持ち上げて見せる伊織は庁舎から徒歩圏に住んでいる。

 確かによく見ればラフな私服姿だし、珍しく眼鏡をかけていた。


「日野ノートですか」


 言いながら、伊織がディスプレイに視線を戻す。

 風呂に入ったばかりなのか、手入れされた伊織の髪からいつもより強い香りが漂っている。

 対して自分はくたびれたワイシャツに包まれたままだ。

 何だか急にどっと疲労感が押し寄せて、龍生はそっと苦笑した。


「思っていたより信憑性が高くて驚いたよ。感染云々についても飛沫や空気感染を説いていたわけじゃなかったようだな。まあ、だとしても寄生を誘発する個体がいるというのは、少々ファンタジックだけど」


 たった今担当地区の嘘花の一覧を眺めていた自分を棚に上げて理性的な感想を述べる。

 そうだ。寄生を誘発する個体がいるなんて現実的じゃない。

 冷静になれ、と自重していると、少し考えてから伊織が言った。


「仲間を呼んでいるのかもしれませんね」


「え?」


 意図が掴めなくて聞き返す。

 再度思考するような間を開けてから、伊織が慎重に口を開いた。


「ですから、仲間を呼んでいるみたいだな、と。ここの環境は育ちやすいから発芽しろって促すみたいな」


「そんなことある?」


「いえ、分かりませんが」


 自信なさげに伊織が龍生から視線を逸らす。議論というよりは感想の一環だったようだ。


「虫なら様々な方法で仲間に情報を伝えるけどね。──いや、植物も近くの仲間に危険を伝えるための信号を送ると聞いたことがあるな。もしかしたら、呼んでいるというのもあながち間違いではないのかも」


 思考の海に落ちていく龍生を伊織がじっと眺めている。

 視界の端で嘘花の一覧を映し出しているタブレットが、やけに重々しく感じられた。

 ランダムではなく、意味があって発芽事例が一局に集中しているのなら。


 ──次は自分かもしれない。


 足元から這い上がる恐怖に、意に反して体が竦む。

 妻が寄生されてなお、嘘花は対岸の火事だと思っていた。それが突然、鼻先まで距離を縮めてきたのだ。

 龍生の気配の変化に気づいた伊織が、何でもないことのように言う。


「大丈夫ですよ。御堂さんは嘘花になったりしません」


 いい加減なことを言うな、と脳が葛野の声をリフレインする。

 同じことを思って伊織を見たが、あまりにも無垢な眼差がこちらに向けられていたので、なんだか気持ちが削がれてしまった。

 帰りましょう、と伊織がパソコンの主電源を落とす。

 真っ黒になったディスプレイに映る自分が、あの日怯えていた葛野の顔と重なって、龍生は大きくため息をついた。

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