第36話 葛野司弦という男
終礼前に全員が集まって情報共有を行う報告会は、磯波が抜けてからの日課となっていた。
担当替えや業務内容の変更が著しかったため、引き継ぎやフォローを適宜行えるよう習慣化させたのだ。
「──と、いうわけで際立った変化はありませんが、このままいくと秋ごろには紗良さんの足留が行われることになると思います」
小さな声で機械のように報告し終えた紗良に、小宮山が頷いた。
「足留までは気を抜くなよ。その嘘花の周りには強い共感を抱く者が多い。逃亡未遂の前科もあるしな。嘘花だけでなく、周囲の人間にも不自然な変化がないか動向を観察しておくんだ」
「はい」
素直に了承した紗良が、それから、と龍生を見る。
「紗良さんが……その、御堂さんが来なくなってつまんない、と言っていました」
おそらく正確に再現したのであろう言葉を聞いて、龍生はちょっと笑った。
「次回、時間を合わせて志摩さんに同行しよう。こちらの都合で挨拶もできないまま、担当を降りてしまったしな」
「馴れ合うなよ」
小宮山に釘を刺されて肩を竦める。
「そんなわけないでしょ。俺は妻を処分した男ですよ」
同情はしても、そこまでだ。
自分はきっと、誰が嘘花になっても相手のために法を犯す勇気はないだろう。
嫌な話につながったなと顔をしかめて、小宮山が話題を変えた。
「増員についてだが、すぐにとはいかないようだ。職安を通じて採用情報を出してもらってはいるが、特事課指定の募集になるから希望者がどれだけ来るかは未知数だな。いずれにしろ現場入りまでは一、二ヶ月ほどかかる。その間俺たちだけで凌ぐことになるわけだが」
表情を曇らせて、小宮山が手元のタブレットに目を落とす。
「このところ俺たちの担当区域で嘘花の発見報告が増えている。……まあ、御堂君が特事課に臨時派遣されていた頃もこの程度の増加傾向はあったし、長い年月を遡れば誤差の範疇だけどな。とはいえうちは今動かせる駒が少ない。課長とも相談して、念のため臨時派遣の打診も行っていくこととなった。これにともなって、俺は正式に課長代理として承認されることになる。よもやまさか異論はないな」
「年功序列で妥当な線でしょ」
「一言多いんだよ、君は!」
ぎゃんぎゃん喚く小宮山に反して、二人の新人は不気味なほど静かだった。
もともと大人しい伊織はともかく、日に日に憔悴していく葛野は問題だ。
これは早晩だめになるかもしれないな、と龍生は内心ため息をついた。
「本当に……」
疲労感を漂わせていた葛野が、ぽつりと何か言う。
「本当に感染じゃないんですか。日野ノートにも、感染が起こっている時は特定の地区のみで嘘花が増えると書いてありました。今のこの状況は、もしかして」
「何度もしつこいぞ」
剣呑な声で小宮山が葛野を突き放した。
「日野ノートを作成した教授は自ら命を絶っている。精神を病んでいたんだ。そんな男がまともな論を組み立てられるわけがないだろう。あれはただの妄言だ」
瞬間、ざわりと悪寒が走る。
小宮山を凝視して、龍生は思わず呼吸を忘れた。
小宮山の顔、下唇のあたりからむくむくと青白い芽が吹き出したのだ。
違和感を覚えた小宮山が口元に触れる。指先にあたる異物を引き抜いて──その正体を目にするなり驚愕に打ち震えた。
「うわああああっ!」
悲鳴を上げたのは葛野だ。
がたがたと椅子を鳴らして立ち上がり、奇声を発しながら走り出す。
「葛野君!」
制止の呼びかけはしかし、葛野の足を止めることはできなかった。
小宮山と伊織は固まっている。
ひとまず葛野が優先だと、龍生は二人を残して課を飛び出した。
庁舎を駆け抜ける葛野は、怯えた野生動物のように、人を見るたび飛び退き、悲鳴を上げて逃げ続けた。
エレベーターではなく人気のない非常階段を駆け上がったのも、人を避けるためだろう。
もはや彼には全ての人間が嘘花を感染させる媒体に見えているらしかった。
ひい、ひい、と泣きじゃくりながら走る葛野を口から心臓を吐き出す思いで必死に追う。
体力差に距離を縮められずにいると、やがて葛野が屋上に転がり出た。
「葛野君……! 葛野君、止まれ……っ、もういいだろう」
喉奥が千切れそうなほど痛い。慣れない全速力に息を切らせながら、龍生は屋上の最奥、手すりにしがみついた葛野に呼びかけた。
「嫌だ……! 嫌だ……! 俺は嘘花なんかになりたくない……!」
近づこうとする龍生を恐れて、葛野が涙を流しながら首を振る。
龍生は自分がとても危険な局面に居合わせていることを自覚しながら、焦る足をなんとか留まらせた。
「葛野君、しばらく休め。必要なら移動届も書くといい。俺が人事に話を通すよ。だからとにかく落ち着いて」
「無理だ……嫌だ……化け物になるのは……!」
押し潰されるような声で葛野が呻く。
「お、俺はね、御堂さん。嘘でできた男なんですよ……。親の期待通り、いい子でいるために愛想笑いを振りまいて、心にもない優しい言葉を吐いて……。先生からは誰とでも仲良くなれると期待されたから、こづかれてもからかわれてもにこにこしてた。高校では男友達、大学では女友達が多い方が尊敬されるから、好きでもないスポーツをやって、好きでもない子と付き合って、セックスの話をして、無理なノリで大騒ぎをした。就活では思ってもいない耳障りのいい言葉を作って、作って……。入庁してからは感じの良い好青年をやりました。ねえ俺は、ずっといい新人だったでしょう?」
龍生に語りかけているようで、その実独り言に近い。
こちらの反応など見もしないまま葛野が続けた。
「服も、髪型も、友達だって、自分の好みで選んだことなんてない。全部誰かの期待通り。全部嘘です。もう本当のことが何なのか、俺自身にも分かりません。今更嘘を避けて生きるなんて無理だ……! 俺は……俺は化け物になってしまう」
全身をがたがたと震わせて涙を散らす。
特事課は精神科ではない。このような窮状を打開する訓練などされてはいないのだ。
焦燥感に竦みそうになる心を叱咤して、龍生は懸命に語りかけた。
「葛野君。大丈夫だ。君は嘘花になったりしない。あれがどれだけ稀な寄生か、君だって最初の研修で学んだだろう。たまたま近い時期に、たまたま知り合いが二人寄生されたから動揺しているだけだ。落ち着いて考えれば分かる。君は嘘花にならない」
「いい加減なこと言わないでください!」
激昂して、葛野が唾を飛ばしながら訴える。
「これは感染だ。きっともう俺は寄生されている。だってここまで、何人もの嘘花に会ってしまいました。課長が発芽した時も、小宮山さんが発芽した時も、一番近くでそれを見たんです。小宮山さんにいたっては長い時間一緒にいました。絶対に感染っている」
あんただって同じだ、と葛野が龍生を指差した。
「志摩さんも、他の人も、きっと感染してる! 嘘をついたら発芽する! 嘘をついたら終わりだ! あんな気持ち悪い生き物になって、人間の尊厳を失って生きるくらいなら死んだ方がマシだ……!」
言うなりあっという間に葛野が手すりに乗り上げる。
「待て! 葛野君!」
駆け寄ろうとする龍生を振り返って、葛野が涙のまま微笑んだ。
「俺は人間のまま、死にたい」
それだけ残して、ぽい、と捨てるように身を投げた。
「葛野君!」
あっけなく消えた若い背中を追い求めるように、龍生はフェンスに身を乗り出して眼下を見下ろした。
ものすごい勢いで落ちていく葛野が、数秒の後、アスファルトに叩きつけられる。
通りがかった人が悲鳴を上げ、波及するようにざわめきが広がった。
「ああ……」
喪失感と絶望感が重く背中にのしかかって、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
もっと早くに休ませておけば。
せめて屋上に上がる前に捕まえられれば。
今となっては何もかもが遅い「もしも」をいくつも頭の中に思い浮かべて、龍生は地面に額を擦り付けるようにして少し泣いた。
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