第32話 嘘花:向井紗良
はっとして、紗良が息を呑む。
衝動的に飛び降りてしまったらと思うと心がすくんだが、ここで踏み込まなくては紗良の心にはきっと届かない。
畳み掛けるように、龍生は言葉を紡ぎ続けた。
「ライアでの嘘を窘めた時、君は『どうせ嘘を回避できないなら同じこと』と言った。これは、ネット上ではなく日常的に会話をしている人の中に嘘をつかなくてはならない相手がいることを示している。ご両親は君と向き合うことを避けていたようだから、残るは紫乃君。ご両親と同じように、君もまた紫乃君を守るために彼に嘘をつき続けたんじゃないのか」
紗良の部屋の扉は外の会話をそのまま通す。
そのことは最初に向井家を訪れた際に声を聞きつけてドアを叩いた紗良の行動からも明らかだった。であれば扉越しの会話が成立するということだ。
伊織が問い、紗良が誤魔化した、「一体誰に」という問いの答えは、紫乃なのだ。
血の気の引いた紗良の体が細かく震えている。
ややあって、「そうよ」と答えた紗良の声は掠れてひどく小さかった。
「私があの部屋に閉じ込められるようになってから、紫乃は頻繁に声をかけてくるようになったわ。病気なのに、ひとりぼっちで寂しいだろうとでも思ったんでしょう。真夜中に両親の目を盗んで長いこと話すこともあった。私は、両親がついた嘘と同じ嘘を紫乃に語って……。だって、姉が化け物になるなんて言えないじゃない!」
吐き捨てるように言った紗良の瞳から涙がこぼれる。肩に置かれた敦の手に力が込められて白くなった。
「『病気、大丈夫?』って聞かれたら『大丈夫』って答える。『いつ治るの?』って聞かれたら『すぐに治るよ』って言ってあげたい。『心配しないで』『よくなってるから』『すぐに一緒に遊べるようになるから』『今年もキャンプに行こうね』。そうやって、たくさん、たくさん嘘をついた。なのに」
しゃくり上げて、紗良が龍生に訴える。
「この姿を見られたの! 皮膚病だなんてもう信じてない! 昨日、両親が寝静まってからずっと紫乃は私を質問責めにしたわ。『なんていう病気?』『本当に治るの?』『みんなで何を隠してるの?』。きっと近いうちに、嘘花に辿り着く。私が化け物になるって知られちゃうの! そしたらあの子は、化け物の弟よ!」
うう、と呻いて紗良がぼたぼた涙を流した。
「もうなんにもない……なんにもないの。いつもの学校も、いつもの家族も、守りたかった嘘も、全部ない。それならもう終わりにしたい……。あの部屋に戻って、寂しさに耐えながら化け物になっていくなんて、嫌」
死にたい、と呟いた紗良の背中を敦が包み込むように抱きしめる。
「俺が一緒に行くから。泣かないで、紗良」
「心中するつもりか」
龍生の問いかけに、敦が笑う。
「嘘花の逃亡幇助は死刑か終身刑。そう言ったのは御堂さんですよ。紗良を連れ出した時点で俺の腹は決まっていた。紗良は部屋から出してくれるだけでいいと言ったけど……一人ぼっちで死ぬのは寂しいから」
幇助の罪については初めて耳にしたのだろう。紗良の濡れた瞳が弾かれたように敦を見上げた。
「どうして……なんで、私のために……そこまで」
「なんでって」
何事か言いかけて、敦が一瞬空を仰ぐ。
少し考えてから口に出された言葉は、最後の時に紗良の気持ちをかき乱さぬよう厳選されたものだった。
「幼なじみだろ」
敦の物言いに感じるところがあったのか、紗良が大粒の涙をぼろりとこぼした。
──ああ、もういいのかもしれない。
目の前の光景に、龍生はふと思考の緊張が解けるような錯覚を覚えた。
二人が望むように、送り出してやるのが親切なのではないのか。
この世は美しくなんてない。人は裏切り、傷つけ、嘘をつく。
一瞬でも世界を美しいと感じられるうちに死ねたら、それは幸福とどう違う。
紗良に献身を捧げる敦は、掴み取れなかったもう一つの自分の人生だ。
もしかしたらこうであったかもしれない、という若い姿を羨望の思いで見つめた──その時。
「行かないで!」
甲高い声が空気を切り裂いて、三人は声の出所を無意識に探した。
龍生の背後、来た道から現れたのは、待っているように言い含めたはずの人影で。
「紫乃……!」
驚愕に見開かれた紗良の瞳が呼びかける。
敦も驚いたようにその小さな体軀を凝視していた。
獣道から出てきた紫乃が、転げるように駆けてくる。足場の悪さなど気にもせず、二人に駆け寄ろうとするその体を龍生はとっさに捕まえた。
「行かないで! 行かないで……! 二人ともいなくならないで!」
ばたばたと腕の中で暴れる紫乃は、敦の家の前に現れた人影の正体だ。
父親の通報により警察から連絡が行ったようで、紫乃は学校を早退させられていた。
姉の異変、家族の隠し事、突然の早退。
家の中で何か尋常でないことが起きていると察した紫乃は、団地の前に横付けされた黒塗りの車と、中から出てくる黒づくめの男たちを見て不吉な予感に襲われたという。
もしかすると、登校中合鍵を貸して欲しいと言ってきた敦は事情を知っているのかもしれない。
そう思って敦の家に向かったのは、家に戻ればまた誤魔化されてしまうと思ったからだ。
しかし、目的の家の前で見たのは、母親と龍生達が敦の母に迎え入れられる姿。
事情を隠したがっている母の姿を見て、ここでも本当のことを教えてもらえないかもしれないと、しばらくその場でうろうろ躊躇していたらしい。
そうこうしているうちにドアが開き、敦は意を決して出てきた人物の前に飛び出した。それが、龍生だったのだ。
この人は一度見たことがある。家に来ていた役所の人だ。
事情に通じていると読んだ紫乃は、急ぎ姉のことを尋ねた。
「何がどうなってるの」と問う紫乃に、「その人はお姉ちゃんを探しに行くんだから邪魔しないで」と失言したのは紗良の母親である。
連れて行って! 連れて行かないならここで大声出して人を呼ぶから! そう啖呵を切った紫乃の姿は、最初に龍生を試した紗良の姿にそっくりで……。
気がつくと龍生は紫乃を助手席に乗せて車を走らせていた。
「死ぬって何……! どうして二人とも僕を置いていこうとするの!」
車中、非常に理性的で大人びて見えた紫乃が嘘のように喚く。
「何で、何で……! 僕のためってみんな言う。僕に聞きもしないで勝手に決める。本当のことを一つも教えないで、大丈夫、心配しないでって、そんなの無理に決まってるよ! 僕が小さいから黙ってたの? 余計に傷つくから? だからお姉ちゃんを悲しませて、嘘をつかせて、僕はそれを知らないまま、それで幸せになれるって本当に思ってたの!」
馬鹿にすんなっ、と叫んだ紫乃の頬に涙が落ちた。
大事なものから切り離されたのは、何も紗良だけではなかったのだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、いなくならないで……! 嘘花が何か、僕ちゃんと教えてもらったから。だからちゃんとお姉ちゃんを守れる。あっくんと一緒にお姉ちゃんを守れる。お母さんとお父さんにもお願いするよ。もうあんな部屋に鍵なんかかけなくていいように。もし分かってもらえなくても、僕は家族だ。お母さんとお父さんが一番にしなくても、僕がお姉ちゃんを一番大事な家族にする。どんなお姉ちゃんになってもいつまでも一番大事な家族にする。だから……ねえ行かないで。一緒に生きて。本当のことの中で、家族をやり直そうよ。死にたいなんて言わないで……!」
わあああん、と紫乃が声を上げて泣いた。
彼にとっては、家族の配慮はただのエゴだ。
ひい、ひい、と泣きじゃくりながら、紫乃が懇願した。
「あっくん、お願い……! お姉ちゃんを連れて行かないで……」
刺されたような顔をして、敦が唇を噛み締める。
茫然と立ち尽くしていた紗良が、ぽつりと何か呟いた。
「私だって」
はらはらと涙を流して嗚咽する。
「私だって死にたくない……。死にたくない、死にたくない……生きていたい……!」
切望を吐露して、紗良がその場に崩れ落ちた。
支えようと敦も膝をつく。その裾にしがみついて、紗良が絞り出すように言った。
「ごめんね、敦」
それは逃亡を幇助させたことへの謝罪か、一緒に死ななかったことへの未練か。
いずれにしろ家に帰る気になったらしい紗良にほっとしたような……少し残念そうな微笑みを向けて、敦が「いいよ」とその背中を優しく撫ぜた。
一番星が輝き出した空の下で、むせび泣く姉弟の声がいつまでも響いていた。
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