第31話 大切なもの
紗良と敦から出遅れること約一時間半。
タブレットの位置情報が示したのは山中のキャンプ場であった。
夏には避暑地としてさぞや賑わうスポットなのだろうが、初夏とはいえ梅雨入り前の平日ともなれば閑散としている。
キャンプ地といってもゲートがあるわけではなく、受付のあるロッジをスルーすれば誰にも見咎められず敷地内に入ることができそうだ。
目的のポイント付近に車を停めると、龍生は同乗者にここで待つよう言いおいて車を出た。
雑草だらけの獣道を分け入って、ようやく見えたのは山中のダムだ。
こぢんまりしたものだが高さは十分にあり、落ちたらまず助からないだろう。
天端にあたる通路前にちょこんと腰を下ろす二人の人影を見つけて、龍生はまず安堵の息を漏らした。
「夜を待っているんですか」
十分に近づいてから声をかけると、紗良が飛び上がって驚いた。その横で敦もゆっくり立ち上がる。
「ど、どうしてここが分かったの」
おののく紗良に微笑んで、龍生は借りてきたタブレットをひらひら掲げて見せた。
「敦君のお母さんにこれを借りて、スマホの位置を特定したんだよ。紗良さんのスマホは取り上げられていたから、携帯の位置情報については失念していたんだろうけど」
敦は違ったはずだ。
紗良より半歩引いた位置から探るような眼差しを向けている敦に向かって、龍生は肩を竦めてみせた。
「君は賢い子だ。何重にも保険をかけた。あの後紗良さんと連絡が取れなくなった君は、まずは穏便に状況を確認しようと紫乃君から合鍵を借り受けたんだね。紗良さんと接触して、問題がなさそうなら部屋に鍵をかけて合鍵を返せばいい。紗良さんのお母さんが買い物に出た隙に全てを行えば、大事になることもなかったはずだ」
しかし実際には、部屋にいた紗良は「問題がなさそう」な状態ではなかったのだろう。
「外に出してくれと言ったのは紗良さんだ。嘘花が逃亡することがどれだけリスクの高いことか、敦君は知っていた。それでも連れ出したなら、それは──」
一拍置いて、龍生は静香に断言した。
「彼女が死を望んだからだ」
気分転換に外をぶらついたのでも、逃げたのでもない。
龍生がそのことに思い至ったのは、敦が一緒にいると知ったからだ。
紗良の幸せを願った敦が、見つかったら即処分の逃亡を幇助したとなれば、未来を考える必要がなくなったと推察できる。
すなわち、捕まる前に死ぬつもりなのだと。
「それでも君は保険を残した。いや、賭けに出たのかな。紗良さんと失踪と敦君を真っ先に結びつけて考えるのは俺達特事課だろう。いずれ紫乃君が戻れば、合鍵の受け渡しから君に辿りつくのは時間の問題だが、それより早く、俺たちが気づくと思った。だからスマホの電源も切らずに、追跡させたんだね」
「裏切ったの」
愕然と紗良が敦を振り返る。
敦が短くそれを否定した。
「ここに来るなら、紗良の両親だと思っていた」
なるほど、と龍生は敦の言葉に合点する。
紗良を救えるとしたら、家族だけだ。
紗良のために両親が駆けつけたなら、あるいは死より良い未来をつくれると思ったのだろう。
しかし、やってきたのは特事課の人間一人。失望したように敦が少し笑った。
「紗良さんのご両親はご自宅で葬儀屋を引き止めているよ」
「通報したのね」
確認する紗良に、龍生は正直に答えた。
「義務だからね。でも今は少し違う考えでいると思う。君を葬儀屋より早く見つけて保護しようとしている」
「それでまたあの部屋に閉じ込めるの?」
勘弁して、と紗良が一歩、後退する。
踏み出して手を伸ばせば届いた距離から遠のいた。危機感を抑え込みながら、龍生は話題を切り替えた。
「このキャンプ地は、最後に家族旅行で訪れた場所だと聞いたけど」
虚を突かれた紗良が、一拍置いて慎重に頷く。
「そうよ。去年、紫乃がテントで寝てみたいって言い出したから、みんなで来たの。このダムは夜になると降るような星を見上げることができて、一番の思い出の場所」
一番の思い出の場所で、当時と同じ夜空を待っていたのか。
会話の主導権を奪うように、沙良が続けた。
「信じられないかもしれないけど、こうなる前は仲の良い家族だったの。別にベタベタした関係じゃなかったけど、誰かの誕生日には必ず揃ってお祝いしたし、家族旅行だってしたわ。そりゃ、言うこと聞くばかりのいい子じゃなかったかもしれないけど……でもそれって普通のことでしょ。関係が悪かったわけじゃないわ」
紗良の事情はかつて見た千世の状況とは異なる。
紗良は嘘花だから隔離され、嘘花だから切り離された。
元々家庭内差別があったのではなく、嘘花が差別の原因を作ったのだ。
「ご両親が君を家族の輪から隔離しようとしたのは、きっと苦しかったからだ。嘘花となった愛する者を管理し続けるのはとても辛いからね。思考を切り分けて、別の使命感を持つことで心を保とうとしたんだろう」
ただ、と龍生は静かに言う。
「それは大人側の都合だ。紫乃君を理由に簡単な方へ逃げた。君を閉じ込めて、傷つけていい理由にはならない」
「紫乃は」
首を振って、また一歩沙良が後退した。
「あの子は私より賢くて、素直で、可愛げがある。二年で死んでしまう私よりずっと長い人生を生きていくのよ。だから紫乃が優先されるのは当たり前で」
ゆるゆると紗良の指先から若木が伸びる。
気がついて、紗良が「違う、違う」と指先を隠した。
「嘘じゃない。ちゃんと分かってる。お父さんとお母さんが紫乃を選ぶのは当然なの。私だって、紫乃には苦しんで欲しくない」
どんどん後退していく紗良の肩を後ろから敦がそっと掴む。
その仕草が決して紗良を止めるものではないことを察して、龍生は湧き上がる焦燥感に耐えなければならなかった。
「そうだね、君は弟を大事に思っている」
意図的に柔らかい声を出して、龍生は話を進めた。
今は会話を重ねることだけが二人を繋ぎ止めるたった一つの手段なのだ。
「君が紫乃君と仲が良かったことは、敦君を見ていれば分かるよ。普通、幼なじみの兄弟でも、ここまで歳の離れた子どもと仲がいいというのはなかなかない。それは君たち三人がいつも一緒にいた名残だろう。紗良さんが紫乃君と一緒にいたから、敦君と紫乃君も自然と仲良くなったんだ」
枝が伸びたのは恐れたからだろう。
紫乃を大切に思う心が本当でも、どうして、と思う心はあったはずだ。
理不尽さに、悲しさに、未来が閉じていく恐怖の原因に、紫乃の顔がちらつかなかったはずがない。
伊織の言葉で言うなら、心のグラデーション。
混じり合う紫乃への思いが、紗良の言葉を嘘にしてしまったのだ。
「年頃になって三人の関わりは多少薄れたかもしれないけど、それぞれがお互いに向ける親愛は変わらなかったんだな。だからこそ」
核心に踏み込むために、龍生は一度言葉を切った。
「だから君は、嘘をつき続けた」
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