第33話 束の間の平穏




 悪趣味じゃない? この仕事。


 紗良がそう言ったのは、逃亡事件からしばらく経った定期聴取の折であった。

 肌の色と植物の色が複雑に混じり合う紗良の腕の嘘花を観察していた龍生は、困った顔で彼女に視線を移した。


「俺も悪趣味な仕事だなとは思うけどね」


 もういいよ、と掴んでいた手を離す。

 伊織が差し出したタブレットを受け取ると、龍生は聴取内容を簡単に書き起こしていった。

 幸いにも葬儀屋より早く確保できた紗良は、自宅に辿り着くなり母親に泣きながら抱きつかれて戸惑っていた。

 連絡を受けてやってきた葬儀屋とは一悶着あったが、結局「逃げたというのは管理者の思い違い」という苦しい言い訳を飲み込んだのは瓜生である。

 事件に龍生が関わっていたこと、伊織から報告を受けた課長が特事課の名で両親の言い分を後押ししたことが決め手になったようだ。

 要するに、恩を売った、ということである。

 室鬼葬祭が脱法葬儀屋であると知る龍生の口を塞ぐ目的もあっただろう。

 いずれにしろ、紗良は事なきを得ることができた。

 敦が受け入れ、紫乃が繋ぎ止め、母が考えを改めた現在、紗良は少し生きやすそうだ。

 すでに【中期】段階に入ってしまった紗良が学校へ行くことは難しかったが、部屋に鍵がかけられることはなくなり、紫乃と敦が頻繁に出入りして彼女との穏やかな時間を積み上げている。

 父親はまだ複雑そうな表情をしていたが、それもおそらく近いうちに軟化すると龍生は踏んでいた。

 何故なら、嘘花は人間の脳を支配するからだ。

 本体の意識を塗り替え、周囲の人間の同情と共感を誘う。

 その意味では、敦の愛も、紫乃の執着も、母親の心変わりも……紗良自身の自死の撤回さえ、嘘花の影響を受けていないとは言えなかった。

 やがて父親もその輪の中へ入っていくだろう。

 そもそも彼らは龍生とは違い、嘘花との間に洗脳状態を拒否するようなしがらみはないのだから。

 願わくばそれが本当の逃走劇に繋がらなければいいな、と去り際抜かりなく名刺を出した瓜生の姿を思い返して龍生は思った。

 胸に巣食う不吉な予感を振り払っていると、ベッドの上で足をぶらぶらさせていた紗良が尋ねる。


「嫌じゃない? この仕事。正直嘘花にとっては煩わしい存在だし、嫌われることだってあるでしょ。嫌がられることをするのって、どうなの」


 口にしてから少し考えて、紗良が言い直す。


「えっと……別に嫌味じゃないから。私はその、御堂さんが担当で良かったな、と思うよ。お節介だけど、一応助けてもらったし、役所の人っぽくなくて話しやすいし」


「それは光栄」


 紗良の体に変化がないことをつい確認して、龍生は両眼を細めて言った。


「悪趣味な仕事だなとは思うけど嫌になったことはないよ。嘘花と話をするのは嫌いじゃないんだ。その言葉が嘘かどうか、悩んだり傷ついたりしなくていいからね」


 ぽかん、と口を開けた紗良が、ややあって可哀想なものを見る目で龍生を眺める。


「悪趣味な人ねぇ」


「お褒めに預かりどうもー」


 無駄口を叩いていると、玄関が騒々しく開く音が聞こえた。

 ばたばたと近づく足音が、紗良の部屋に躊躇いなく駆け込んでくる。


「お姉ちゃん聞いて! あっくんが新技覚えたって! もうお話終わり? ゲームできる?」


 堰を切って喋る紫乃の後ろから、一歩遅れて敦が顔を出した。

 最近は三人でオンラインゲームを楽しんでいるそうだ。

 小学生の紫乃にはゲームの利用時間が決められていたが、敦と紗良は毎晩夜遅くまでオンライン上でつながっているという。

 ネット上では自分らしさを隠してキャラクターを演じる者が多いが、紗良の場合は「無用な嘘や取り繕いをしなくてすむ場所」らしく、上手く活用できているようだ。

 プライベートを詮索しない暗黙のルールと、答えにくい質問ややり取りは間に敦が入るという安全機能が効いているのもあるだろう。

 相変わらず幼なじみの域を出ていない様子の二人だが、紗良は少しまるくなった。紫乃に優しい自分を隠さなくなったし、敦に対してはとても素直だ。

 優しい世界だ。少なくとも、今は。

 子どもたちの興味がゲームの話題へと移ったのを見て、龍生は立ち上がった。

 

「それじゃ、紗良さん。また後日」


 簡単な挨拶を交わして向井家を辞去する。

 移ろいやすい季節の空を見上げて、龍生はふと隣にいる伊織に尋ねた。


「ねえ、志摩さん。明日嘘花に寄生されるとして、そしたら最後にどんな嘘をつく?」


 嘘をつけない嘘花は嫌いじゃない。

 だけど彼らは嘘をつく自由を奪われている。

 言葉を選ばず、切り取らず、つき通すことのできる嘘を操れる人間は、きっと残酷で、とても自由だ。

 脈絡のない質問に眉を潜めつつも、伊織が真面目に頭を悩ませた。


「そうですね……」


 長考した末、伊織が口にしたのはまるで願いにも似た回答だった。


「どうせつくなら、美しい嘘を」


 美しい嘘。


「ずいぶんロマンチストだな」


 思ったことを言葉に乗せると、急に恥ずかしくなったのか伊織が歩みを速めて龍生を振り切ろうとする。


「ちょっと、ちょっと志摩さん。車のキー俺が持ってるから」


 先に行っても乗れないよ。そう続けると、伊織の足がピタリと止まった。

 小さく息を吐いてジト目で振り返る。その顔が真っ赤に染まっていて、そう言う顔もできるのかと龍生はひどく驚いた。

 時間が止まったようなひと時を無粋に破ったのは着信の音だ。

 龍生と伊織の携帯が同時に鳴り響き、不可解に思いながらもそれぞれ通話ボタンを押した。


『今どこにいる?』


 出るなり問いただす声は小宮山のものだ。何やら慌てているようで落ち着きがない。


「向井さんの聴取を終えて一度帰庁するところですが」


 答える龍生を遮るように小宮山が畳み掛ける。


『すぐに戻ってこい! 課長が嘘花になった』


 耳に飛び込んできたその言葉は、悪い冗談か……あるいは呪いの言葉に聞こえた。

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