第27話 背負った罪の名は……



 自販機で買ったばかりの冷たいミネラルウォーターを喉奥に流し込んでいると、運転席に伊織が乗り込んできた。


「まったく志摩さんに偉そうなこと言えねーなぁ。これで俺たちゲロ師弟だ」


 自虐を混ぜてふざける龍生に、伊織が無表情の目を向ける。


「課長から、今日は戻らなくていいと伝えるよう言われました」


「ああ、そう」


 気遣われたな、と苦笑する。

 汚れた床を掃除したのは収容所の職員だった。

 慣れた様子で指示を出したマッチ棒は、嫌な顔一つせずに龍生に向かって、ご苦労様でした、と微笑んだのだ。


 ──狂っている。


 その晴れやかな笑みに異常性を感じて、龍生は再び込み上げてくるものを嚥下しなければならなかった。

 開け放った窓から、まだ夏には少し早い涼やかな風が車内に入り込む。

 エンジンをかけた伊織が口を開いた。


「車は私が庁舎に戻しますので……どこにお送りすればいいですか」


 どこに。どこに。

 帰りたい場所など、二年前からどこにもない。

 明日香と過ごした新居に戻る気になれなかった龍生は、事件後すぐに別の場所にマンションを借りていた。

 ワンルームの賃貸で、生きるために必要なものしか揃っていないような質素な部屋だ。

 両親とは疎遠になっていた。

 妻が不貞を働き、嘘花となり、殺人事件にまで巻き込まれた息子をどう扱ってよいか分からなかったのだろう。

 その戸惑いに呼応するように、龍生も彼らと連絡を取らなくなっていた。


「近くの駅で降ろして。今住んでるマンションは、ここからだと庁舎と逆方向になるから」


「はい」


 承知した伊織はしかし、なかなか車を発進させなかった。

 沈黙の中、闇に抱かれていく夜空を眺める。

 ふと、言葉が口から滑り落ちた。


「志摩さん、ちょっと俺を呼んでみてくれる」


 戸惑うような気配とともに、伊織が一呼吸分の間を空ける。

 空気に溶けるような小さな声で、伊織が龍生の要求に応えた。


「……御堂さん」


「そうじゃなくて、名前の方」


 首を振る龍生に伊織が押し黙る。

 何を求められているのかと、探るような視線を感じた。


「ごめん、忘れて」


 自嘲とともに撤回する。

 妻が口にすることのなかった名前を代わりに呼んでみてくれ、などと。弱った自分を質に取った尊大なエゴだ。


「悪かった。君に失礼だった」


 再度謝った龍生に、静寂が返される。

 拒絶とは違う静けさに甘えて、龍生はひとりごちた。


「俺も昔は、ちゃんと妻を好きだったんだ」


 活発な明日香。美しい明日香。意志が強く、甘え上手な明日香。

 それは確かに、龍生が心惹かれた彼女の姿だ。


「だけど一度裏切られたら、世界が一変してしまって。彼女の口にする何もかもが信じられなくなった。今まで出会って来たあらゆる人も、自分のことも疑わしくなって……愛だと思っていたものが何なのかも分からなくなった」


 帰属しない明日香。誰の気でも引くことのできる明日香。自己中心的で我がままな明日香。そして、簡単に裏切ることのできる明日香。

 愛した女性の姿は、あの日百八十度印象を変えた。


「皮肉なことに、今では嘘花だけが、俺の信じられる唯一の存在だ」


 嘘に傷つけられた龍生は、嘘をつき通すことのできない嘘花の存在に安寧を見たのだ。


「だけど嘘花も嘘をつく。それとは分からないように言葉を切り取る。妻が都合の悪い部分を切り取って口にしないことには、もうずいぶん前から気がついていた」


 伊織が説明した嘘の回避方法で考えるなら、『すり替え』の範疇だろう。

 愛している、という言葉から本当の想い人の名前を切り取り、好きだと言ってくれ、と言った龍生の求めに、あなたは私を好きなはず、と論点を逸らす。

 相手が勝手に解釈することは嘘にはならないという抜け道を、明日香自覚的に利用していたのだ。


「愛したい。信じたい。そう願う気持ちは、妻が『愛してる』という度に叩き潰された。彼女が語る愛の言葉に俺の名が続くことはない。俺に向かって浮気相手の……中条への想いを訴え続けていたんだから」


 嘘花となっても、明日香は龍生に本心を見せようとはしなかった。

 打算と籠絡。

 それは生存本能であったのかもしれないが……。


「寂しかったよ」


 輝き出した一番星を見上げながら、龍生はぽつりと呟いた。

 悲しい。寂しい。虚しい。その思いはやがて龍生を廃退的な人物へと変えていった。


「だから……だから俺は、妻に仕返しをしたのかも。裏切り続ける妻を裏切りたくて、収容所に預けて生きながらえさせて、葬儀屋に回収されるのを黙って見送って……」


 苦しめたかったのではないだろうか。自分が苦しんだのと、同じように。

 だから助ける手段が目の前に提示されても、それを選べなかった。

 法に従ったのでも、懲罰を恐れたのでもなく、嫌だったのではないか。明日香の生きている世界に、生きているのが。

 だとしたら、なんて底意地の悪い復讐だろう。

 心の奥底に昏い悪意を見た気がして、龍生は両手で顔を覆った。


「妻を殺したのは、俺だ」


 愛されなくても、どんな姿になっても、紗良が好きだと言った敦とは大違いだ。


「明日香が子どもだと言った、種子を殺したのも俺だ」


 後を任せます。その一言を言わずに、自分の手で瓜生に渡した。

 合法違法を問わず選択肢が存在した以上、決断の罪は龍生が背負うべきものだった。

 うえ、と呻いて前のめりにうずくまる。

 命の手綱を自ら手放して、だけど後悔できない自分が一番気持ち悪かった。

 吐き気に耐える龍生の背中に、そっと誰かの手が触れる。

 そこでようやく、龍生は伊織の存在を思い出した。


「龍生さん」


 消え入るような小さな声に、はっとする。同時にぼろり、と涙がこぼれた。


「龍生さん、愛しています」


 強張った体を抱きしめるようにして、伊織が囁く。

 欲しくて、欲しくて、だけど最後まで与えられることのなかった言葉を、妻とは違う女性に言わせるなんて。

 後悔に打ち震えながらも、龍生は暴力的に体を支配していく充足感に抗えなかった。


──最低だな。


 涼やかな風が通り過ぎる。伊織の不器用な手が背中をさする。

 それを心地よく感じながら、龍生は涙の中で自嘲した。

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