第26話 愛の処分



 顔なじみの眼鏡でマッチ棒の職員が龍生を導いたのは、以前のようなサンルームではなかった。

 一階の入り口を入ってすぐ、エレベーターとは反対側に位置するそのドアの存在を、龍生はこの時初めて知った。


「搬出しやすく防音性も高いので、回収前の嘘花はここで待機するんです。あまり騒ぐと他の嘘花が不安定になりますからね」


 にこやかに説明しながらマッチ棒がドアを開く。

 途端に、中から明日香の泣き叫ぶ声がした。


「嫌よ! 触らないで! 人殺し!」


 先んじて乗り込んでいたらしい葬儀屋が明日香に梱包材を巻いている。

 嘘花を傷つけないようにというよりは、自分たちの霊柩車を傷つけないための処置だろう。

 龍生が面会に来ると分かっていたからか、顔の部分は剥き出しのままだった。


「あなた!」


 部屋に入ってきた龍生の顔を見るなり明日香が必死の形相で訴える。


「あなた、助けて! 殺される!」


 体を貫くような悲痛な叫びに、龍生は思わず足を止めた。

 後に続いた伊織が固まり、最後に入った瓜生がドアを閉める。

 見てください、とマッチ棒が嬉々として明日香の横に立った。


「満開でしょう。ほら、こっちなんか小さな実がなっているんです」


 一生懸命世話をした植物係が自分の成果を誇るように一つ一つの花を示す。


「最近お天気の日が続きましたからねぇ。肥料も良いものに変えましたし、会話も重ねました。ようやく出荷を迎えられて一安心です」


 にこにこと明日香を眺めるマッチ棒の目に曇りはない。

 純粋に、心の底から良いことをしたと誇っているのだ。


 ──狂っている。


 漠然としたうそ寒さを感じながら、だけどこの場にいる誰が本当に狂っているのか龍生には分からなかった。

 あなた、あなた、と呼ぶ明日香にゆっくり近づく。背後で瓜生が狐目を細めている気がした。


「あなた、助けて。怖いの……怖いのよ。死にたくない」


 ぎし、ぎし、と明日香が幹を軋ませて龍生に顔を近づける。

 大きな瞳から涙に似た樹液が流れていた。


「家に帰りたい……私たちの家に……! ねえ、覚えてる? あなたと一緒に庭を作る約束をしたこと」


「……覚えてるよ」


 ガーデニングをしたいと言ったのは明日香だ。

 そのために普通より広い庭を用意して、植木を植えて、花壇を作った。

 花壇に花が植えられなかったのは、その前に明日香の興味が尽きたからだ。


「あの花壇に花を植えましょう。あなたが好きなコスモスを植えて。種が芽を出して、花になるのを一緒に見るの」


 コスモスが好きなのは龍生ではない。

 秋生まれの自分に由来するその花が好きなのだと、そう公言していたのは中条だ。

 皮肉に笑う龍生を見て、言葉の選択を間違えたと悟ったのだろう。

 未来について語るのをやめると、明日香が別のことを言った。


「愛してるわ……愛してるわ……。お願い、私を殺さないで」


 がさ、がさ、と梱包材で封じられた枝が蠢く。まっすぐに龍生の瞳を見つめて、明日香が繰り返した。


「愛してる……本当よ。愛してるの」


 明日香の体に異変はない。つまりその言葉に嘘はないということだ。

 しかし──。


「はは」


 乾いた笑い声を上げて、龍生は口角を歪めた。

 そうして一歩、明日香に近づくと、その美しい顔に向かって囁く。


「もう、そんな言葉を俺に向かって吐かなくてもいいんだ」


 ぎょっとしたように、明日香が両眼を見開いた。

 そうか、やっぱり。それが答えか。

 失望にも似た確信が胸に広がって、龍生は言わなくていい一言を放った。


「君は俺を愛さなかったし、俺ももう、君を愛していない」


 明日香が恐ろしいものを見るように龍生を凝視する。


「嘘よ。あなたは私が好きだわ」


 応えず、龍生は明日香から離れた。話は終わったという意思表示だ。


「嘘よ! あなたは私を愛してる! 私だって……!」


「それじゃ、俺を好きだと言ってくれ」


 返した言葉に苦痛が滲む。

 これ以上は泥仕合だ。

 分かっているのに、優しくはできなかった。


「好きよ。愛してるわ。本当よ」


「違う、そうじゃない」


 首を振って、否定する。


「君が本当に愛しているのは誰だ。誰を思って愛していると言い続けた? 君が嘘花になってから、愛を語る言葉に俺の名が組み込まれることはなくなった。なるほど、『俺を』好きだと言わなければ嘘にならないからな。心の中で中条の名を切り取って、愛しているという部分だけ俺に聞かせれば、後はいいように解釈すると踏んだんだろう」


「ち……違う」


 するすると明日香のうなじから新しい枝葉が伸びる。

 それを確認して、龍生は葬儀屋に「行ってください」と回収を頼んだ。


「やめて! 嫌よ! あなた! あなた!」


 悲鳴を上げる明日香を勿体ぶりながら持ち上げるのは瓜生の指示だろう。

 三人がかりで鉢を運ぶ足取りは憎らしいほどに緩やかだった。


「嫌! 嫌! 死にたくない! 殺さないで! お願いよ! あなた……あなた! 約束したじゃない! 一緒に花壇をつくるって……!」


 わさ、わさ、と幹が揺れる。

 必死に抵抗しているのだろうが、顔以外は梱包材でしっかり固められているため大した動きは取れない。

 ドアをくぐるその瞬間、一際大きく明日香が悲鳴を上げた。


「嫌あああ! 殺さないでえええ! 私の子よ! 私の子! 花壇に種子を埋めるのよおおおお!」


 渾身の力で身をよじる明日香の体から一つ、二つ、実が落ちる。

 叫び声とともに遠ざかっていく足音を聞きながら、龍生は落とされた果実を凝視した。

 熟すと真っ赤になる実は今はまだ青い。だけどそこには確かに種子が詰まっていて、埋めたら発芽するかもしれなかった。


「いけませんよ」


 身をかがめて種子を手に取った龍生に、マッチ棒が釘を刺す。


「情に訴えるのは嘘花のやり方です。あなたもご存知のはずだ。さあ、その実を葬儀屋さんに渡してください」


 ドアの前では狐目を三日月型に細めた瓜生が龍生の出方を待っている。


 ──どのような文脈でも構いませんので、『後を頼む』と仰ってください。


 瓜生の声がぐるぐると脳内を巡った。

 殺さないで、と言った明日香の声が同時にリフレインする。


 殺さないで。私の子よ。どのような文脈でも。花壇に埋めるのよ。後を頼む、と。


「御堂さん」


 無言で種子を手渡されて、瓜生が確かめるように龍生を見た。

 吹き出す汗が体に重くのしかかる。

 人生の重さと、決断の重さと、明日香と子どもの命の重さと。あらゆるものが重力に従って、龍生を跪かせようとしているようだった。


「……行ってくれ」


 短く言って、瓜生を押しやる。

 何事か言いたげにこちらを眺めていた瓜生が、やがて諦めたようにため息をついた。


「それでは、速やかに焼却処分いたします」


 ことさらに明言したのは、龍生に対する当て付けだろう。

 何も知らないマッチ棒が、よろしくお願いします、とにこやかに瓜生を見送った。

 遠ざかる革靴の音が完全に消えてから、龍生は殺風景な部屋の床に胃の中のものを吐き出した。

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