第17話 野菜、怖い。
向井家を辞した後、定時を確認してから向かったのは庁舎脇の大衆居酒屋だ。
遅ればせながら新人歓迎会を開くことになり、職務後に代わり映えしない面子とテーブルを囲んでいた。
歓迎会がこんな時期外れにずれ込んだのは、使用期間を超えて残る新人がいるか分からなかったからだ。
とにかく離職率の高い課なので、今年の新人が二人とも残っているのは奇跡と言っても過言ではなかった。
「なるほど、鍵が」
同じ職場の人間と飲めば、自然と話題は仕事の話になる。目の前に座った磯波のお猪口に日本酒を注ぎながら、龍生は肩を竦めた。
「まあ、身内から嘘花が出たとなれば神経質にもなるでしょう。ただ、姉弟の扱いの落差が気になったもので。──あ、それ俺の」
テーブルの上を彷徨っていたオレンジジュースを捕まえて、隣の伊織に押し付ける。
代わりに乾杯からちっとも減らないビールを取り上げると、自分のジョッキにどぼどぼ移した。
ほどほどにね、と磯波が龍生の手元を眺めて苦笑する。
「あんまり感情移入しない方が身のためですよ」
それは嘘花のことか。それともいつ去るともしれぬ新人のことか。分からないまま、龍生は曖昧に頷いた。
「何だお前、野菜が怖いのかっ」
大きな声で後輩に絡むのは小宮山だ。ぐらぐらと揺れる体と赤ら顔が早くも彼が酔っていることを示している。
小宮山の横でボウルのままサラダを突きつけられた葛野が、困ったように視線を彷徨わせた。
「その、野菜は苦手で」
「嘘をつけっ! 入社直後はむしろ、太りたくないとか言ってもりもり食ってただろう! 嘘ばかりついてるとなぁ、嘘花に喰われるぞ!」
ひくりと葛野の顔が強張る。青くなった葛野を見かねて、磯波が割って入った。
「まあまあ小宮山君。今日は新人二人の歓迎会ですから。ね」
「いや課長。こいつはねぇ、軟弱なんですよ。嘘花の寄生率がどれだけ低いか知ってるくせに野菜を怖がる。そんな精神で特事課が務まりますかっ」
うるせえな、と身を乗り出すと、龍生はトングでサラダを鷲掴みにして小宮山の口の中に突っ込んだ。
「自分の唾吐き散らしといて人に勧めるのはマナー違反ですよ。責任持って全部食べてくださいね」
「むが、むご、むごご」
小宮山が何やら抗議するが知らぬ顔で座り直す。
呆気にとられた視線が四方から注がれたが、ここで取り繕うような可愛気は持ち合わせていなかった。酒の席の無礼講である。
ジョッキのビールに口をつけていると、オレンジジュースを両手で抱えていた伊織がふと言った。
「嘘花の寄生率はとても低くて、十万人中八、九人が寄生される程度の割合です。東京都で言うなら年間千人ちょっと。千三百九十四万人の人口から考えれば、決して多い人数ではありません」
小宮山に比べてずいぶん小さいその声は、どうやら向かいの席の葛野に向けられたものらしい。
視線をグラスに落としたまま、伊織が続ける。
「一生のうちで、嘘花と縁なく過ごす人の方が多いくらいです。もしかしたら存在を知らない人だっているかも。だからみんな平気で植物性食物を口にすることができるんです」
励ましているのか非難しているのか分からない表情で、伊織が葛野に視線を向けた。
「忌避するのも、口にするのも個人の自由です。でも加工食品が安全という保証もないので、あまり気にしすぎるとビールもジュースも飲めなくなります」
そう言って、オレンジジュースをごくごく飲み込む。
励ましたつもりらしいが、葛野はかえって怯えたようだ。半分ほど飲み干した自分のビールを眺めて、気味悪そうに顔を引きつらせていた。
枝豆を口に放り込んだ磯波が、そうですねえ、と言葉を継ぐ。
「嘘花は食中毒ではないので、集団寄生もされませんしね。同じものを食べても同じように寄生されるわけじゃありません。それだけ寄生率も低くなる。現に御堂君の担当になった子も、寄生経路は友人達と行ったバーベキューが濃厚とのことですが、嘘花になってしまったのは彼女だけでした」
「そういや志摩君の家も寄生されたのは父親だけだったな」
四苦八苦しながら野菜を飲み込んだ小宮山が、会話に復帰するなり地雷を踏み抜いた。
「家族に嘘花が出るなんて最悪だ。しかも君、学生の身で年老いた嘘花の管理をしていたんだろう。それを機に論文を書いたとも聞いた。よっぽど悔しかったんだろうなぁ。若い美空で可哀想だ」
可哀想、は小宮山の口癖だ。高みから憐むようなその言葉が原因で当事者とトラブルになることもしばしばだったが、一向に学習する気配はない。
ぎょっとしたのは一同をよそに、当の伊織は一瞬考えるような間を空けた後、平然と肯首してみせた。
「はい。食事は私が作って全員が同じものを食べていましたが、寄生されたのは父だけでした。母は認知症で、用水路に落ちて亡くなったので嘘花とは関係ありません」
「認知症?」
思わず反応してしまったのは葛野だ。
やはり何でもない顔をして、伊織が説明を足した。
「四十歳から六十四歳までに発症する初老期認知症です」
「ごめん」
この話はもうやめよう、と葛野が懸命に微笑む。
相変わらず社交的で空気の読める好青年だ。
しかし溌剌としていた春に比べれば幾分輝きが落ちた気がして、龍生は隣のボンレスハムをため息まじりに眺めた。
その視線をどう勘違いしたのか、小宮山が片方の眉を器用に上げる。
「御堂のとこはレアーケースだな。五十年遡っても、同じものを口にして寄生されたのは御堂の奥方の件を含めて二件だけだ。お前、説明してやれよ」
見事に話題を蒸し返した小宮山に、龍生は思わず苦笑をこぼした。
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