第9話 嘘花:真木康平
「どうだ御堂、二年目の真相は。なかなかどうして愉快な話だろう? お前が付き合うずっと前から奥さんはあの男とデキてたんだ。苦労知らずの坊々が、派手な裏切りで搾取されてたなんて、こりゃ傑作だ! なァ!」
耳障りな笑い声が面会室に響き渡る。
アクリル板に叩きつけた平手を握りしめて、龍生はその嘲りに耐えた。
最初から。付き合う前から。自分が明日香を認識するよりずっと早く、中条と明日香には関係があったのだ。
真木が裏付けた真実は龍生が抱いた疑念の中で、最も嫌悪すべきものだった。
ひとしきり笑い終えた真木が、息を乱しながら付け加える。
「まあ、あまりにも可笑しくて吹き出したせいで侵入がバレちまったわけだが」
面白くもない結末だ、と真木が嘯いた。
「筋肉質のでかい男に追い回されて、俺はパニックになりながらキッチンに逃げ込んだ。キッチンはちょっとした武器庫だからな。退路を切り開こうと手に入れた包丁を振り回しながら俺は男の立ち塞がる玄関に押し進んだ。しかしあっちはあっちで自分の体格に過信があったんだろう。果敢にも襲いかかってきたからこちらも必死だ。気づいたら相手を刺していて、生き返っても嫌だから滅多刺しにした。女が見ていたのは知っていたが、腰を抜かしていたから構わず逃げた。今思えばあそこで殺しておかなかったのは失敗だったな。結局そこから足がついた。お前にとっても、殺されていた方が良かっただろう」
にたにた嗤う真木を睨んで、龍生はこぼした。
「……俺は信じただけだ」
人を信じただけだ。妻を信じただけだ。世界は美しく、優しく、人は善なるものだと。
例えそれが愚かな妄信だったとしても、信じたことはそんなに罪か。裏切られ、搾取され、嘲笑されるほど罪深いことか。
あの日からずっと腹の底で感じていた不満が身体中から吹き出しそうだった。
手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握っていると、笑みを消した真木の声が降ってきた。
「信じるという行為は、時に排他的だ。そうでないものに目もくれない。お前が美しいもの以外を見ずにすんだのはお前が恵まれていただけだ。人間は汚い。嘘をつき、傷つけ、奪って、簡単に捨てる。誰もが心に悪意を飼っているんだ。それに自覚的な者からしたら、お前の甘さは鼻につく。人によっては毒になる。お前の奥さんや、奥さんの間男は、その毒にやられたんだろうよ」
はらり、と視界の端でひとひらの花弁が舞い落ちる。真っ赤な色があの日見た血の色によく似ていた。
「俺の母親は俺を殴る人だった」
ふいに真木が話題を変える。
「俺も大概言うことを聞かねえガキだったからな。片親だったし、手を焼いたんだろう。躾だ何だというより日常をこなすための制圧だ。学のねえ母は身売りをして稼いだが、自分がいない間に俺が悪さしないよう、出勤時には必ず俺に首輪をつけて柱に繋いだ」
それは、と言いかけた龍生を真木が制した。
「それでも俺は母を好きだった」
そして母も俺を精一杯愛した、と続ける。
「殴る母は俺の一番の理解者だった。悪さと失敗を混同したりしない。自分の機嫌で怒ったりしない。その代わり悪事を見つけるとどこまでも追いかけてきて、殴って、叱った。時々力加減を誤って口を切ったり鼻血を出すこともあったが、俺は母が好きだった。不景気で、片親で、親は学もねえ。貧しくて安いボロアパートで電気代も払えずに、冬は凍える体を寄せ合って温めた。俺にとっては幸福な思い出だ」
葉擦れの音をさせながら、真木がどこか遠くを見つめた。
「六歳の頃、殴られた弾みで机の角に頭をぶつけた俺はそのまま失神した。慌てた母は救急車を呼んだが、救急隊が見たのは明らかに殴られた痕のある子どもと、放り出された首輪だった。すぐさま虐待を疑われ、病院は俺を保護し、やって来た児相は速やかに母子を引き離した。殴られる子どもを殴る母から守ったんだ。これは正義だ。正しいことだ。だから俺がどんなに泣いて喚いて母を求めようとも、母がどんなに俺を愛していようとも、奴らの決定は覆らなかった。たとえ」
一度言葉につまった真木が忌々しそうに言い直す。
「たとえ、失意の中母が自死しても」
はっとして、龍生は思わず真木を凝視した。
真木の体に変化はない。
新しく芽吹くことも、花を咲かせることも、実をつけることも。
つまり真木は真実を語っているのだ。
「俺を引き取ったのは見たこともない遠縁の男だった。常識的な男だったが子育ての経験はなく、問題ばかり起こす俺は手に余ったんだろう。十八の年に家を追い出された。息を吸うだけで金がかかるような世の中だ。まともな仕事じゃろくに稼げなくて、食いつなぐのは大変だった。生きにくさと不満に耐えきれず、わずかな金で酒を飲んでは人を殴った。問題を起こしてはクビになり、仕事を探す。それの繰り返しだ。いつまでも貧しくて、いつまでも生き難い。苛立ちばかりが募る日々だった」
最初に一つボタンをかけ違ってから、真木の人生は世の中から少しずつずれていったのだろう。
しかも最初のかけ違いは真木のせいではない。
殴る母も、貧困も、虐待に対応した児相が母子を引き離したのも、真木の手に選択肢はなかったのだ。
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