第2話 誘拐事件
クラスメイトの少女が話しかけて来た。
……が、だからと言って、そこらの男子みたいに喜び勇んで返答するような僕ではない。
美加限定だけど、こんなの日常茶飯事だし。
実加と僕のやり取りは、はたから見れば一見微笑ましい光景に見えるだろう。
けれど断じて硫黄。
これは違うのだ。
この生意気な少女は、上から目線で「どうせゲームばっかりやってて友達なんていないんだからお情けで仲間に入れてあげるわよ」、とそう言っているのだ。
自覚なんてしてないんだろう。実加はそういう事を平然とできるようには見えなかった。
おそらく、素だ。
気が付いてないで、素でやっている。
素で馬鹿にしている。
だからそんなの、なおさら歓迎できるわけないだろう。
それは僕にとっては非常に迷惑な事だった。
頼んでないのに、人の輪に入れないでほしいし。
向いてもいないのに、体力がいる遊びに巻き込まないでほしい。
見え透いた世話を焼きに来ないでほしかった。
だけど、そう直接言ったら角が立つだろう。
普段から寄ってくる人間、話しかけてくる人間には言葉を選ばない僕だけれど、実加にはあまりそれができない。
なぜか、彼女に刺々しい言葉を投げつけるのは気が引けたのだ。
「……」
「何よ、文句でもあるの?」
どう断ってやろうかと悩んでいると、実加はむっとした様子になってこちらを睨んできた。
態度を見て、紅蓮は悟る。
(断るなんて許さないとか言い出しそうだな。選択肢の存在しないシーンだこれ)
二つ選択肢があっても、物語上に都合の良い方をプレイヤーが選ぶまで延々と会話がループするという、何か昔やったゲームの一場面が頭に浮かんできた。
こらえきれなかったため息が出る。
「はぁ、……悪いけど」
すると、耳ざとく聞きつけた美加か口を尖らせた。
「はぁ? 今はぁって言った? 何よその態度は、せかっく誘ってあげてるのに、どうせ友達いないんでしょ、アンタ」
仁王立ちになって腰に手を当てるポーズ。
いや、ポーズをとっているという自覚はないのだろう。
これも素だからだ。
なんて分かりやすい奴なんだろう。
頭が空っぽそうな言葉を聞いて、慣れない気をつかおうとした事に脱力しそうになる。話してると調子が狂いそうだった。
実加はそんなこちらの心情のお構いなしに、文句をぶーたれてくる。
「いっつもいっつも、いーっつもアンタって授業が終わったら一人でさっさと帰っちゃうし、放課中も気がついたらふらっといなくなってるし、そんなにゲームが楽しいの?」
「お前みたいな頭すっからかんの奴と話してるよりは」
正直にいってみたら、どうなるかな。
と思ったら、やはり予想通りの大噴火だった。
「ひねくれてるわ!」
悪かったな。
指突きつけるな。
人を指さしちゃいけませんって、両親から教わらなかったのか?
僕も教わってないけど。
憮然とした表情でいる実加は僕が何も言わないでいると、さらに機嫌を急降下させり。
「なによ! 何とか言いなさいよね。男の子でしょ!」
言い訳したら、「言い訳なんて恰好悪いわよ!」とか言うくせに。
偉そうに声をかけてきたり、訝しそうにしたり、憤慨したり、叫んだり。実加は、中々忙しそうな奴だな。こういうのを、百面相と言うのだろうか。
地団太を踏んだ実加はそれでも怒りが収まらなかったらしい。
目の前で、近くに立っていた交通標識の根本を蹴った。……あ、痛がってる。馬鹿だ。
「っっ――――!」
涙目になりながら交通標識からのダメージに必死に耐えているクラスメイトを眺めながら、考える。
今まで他の人間は、一人でいたがる紅蓮などには興味を示さないものだと思っていたのだが、そうじゃない人間もいたらしい。実加は……、なかなか変わった人間のようだ。
ふと、そんな風に珍奇な珍生物観察をしていると、景色に違和感を覚えた。
わざわざ説明する事でもないが、いま季節は冬だ。
木枯らしの音が響き、時折り空から雪がちらついたり、吐く息が白くなったりするあの冬。
けれど、実加の背後に見えたのだ。
この時期にはありえないもの。
寒く凍えた通学路に起きる、蜃気楼を。
「おい」
「何よ」
違和感を覚えて、ぶすむくれた顔をした不細工風女子に、背後を振り返る様に指さしてやる。
僕の不可解そうな表情に気が付いたのだろう。
実加は示される方へと視線を追っていって、振り向いたその先で見た景色に息を呑んだ。
「……っ、なにこれ」
一瞬後に先程までの勢いが嘘みたいな様子で、彼女の口からかすれた声が漏れ出る。
僕達の視線の先では、数メートル先にある景色が揺らいでいたからだ。
ゆらゆら、何て生易しい物じゃない。
いや、先程まではそうだった。
風に揺れる水面の様にゆっくり穏やかに揺らいでいた。
……だというのに、段々と激しさを増して、その向こうに見える景色をかき乱すが如く、ぐらりぐらりと揺れが強くなっている。
「なん、なのよ……」
声に不安を滲ませながら実加が後ずさって来る。そんな声も出せるのかと、場違いにも思った。いつも偉そうな声しか聞いてないから、それほど意外だったのかもしれない。
目の前、冬の季節に存在するにはあり得ない現象。
蜃気楼が問いの言葉を発した。
「少年、人を殺してみたくはないか?」
生物でもないそれが、はっきりと空気を震わせて男の声で、だ。
周囲に、僕達以外の人の気配はない。
不審者がどこかに隠れて声を発している、と言うわけでもなさそうだった。
そもそもその声の発生源は、どう考えても真正面……蜃気楼のある方向からしている。ありえないが、それが喋ったとしか思えなかった。
「人を、殺してみたくはないか……?」
再度同じ問い。
喉が渇く。
眩暈がしそうだ。
地面が揺れているような気さえしてくる。
意味が分からない。
見ている景色は本物?
これは本当に現実なのだろうか。
蜃気楼が、男の声で喋って人に語りかけるなど。
ありえていいのだろうか。
僕は自分の正気を疑った。橘紅蓮は今正常か、どうか。
幻覚を見たというのなら、睡眠不足の線はないか。頭を打って、おかしくなっているのではないか。夢を見ているのではないか。あるいは知らずに摂取した幻覚剤の作用がそれを見せているのではないのか。
考え付く限りのありとあらゆる可能性を考えた。
だがそれは、疑いようもなく、気のせいでは済まされないくらいの真実味を持って、確かにそこに存在していた。
ふるえる握り拳に爪が食い込んでいたい。
痛みがリアルだ。
「実加、おい実加」
時が止まってしまったかのように硬直しているクラスメイト……怯えている実加に向けて声をかける。
「っ、ぁ……」
だが、彼女はまともな反応を返せない。
恐怖のあまり声が出ないのか、すがる様な視線だけが返って来た。
「防犯ブザー持ってるか?」
泣きそうな顔でくしゃっと顔を歪められて、首を振られる。
それくらいで絶望したような顔をするなよ。
返ってきた反応を確かめた後、僕ははたして何と言おうとしたのか。
たぶん叫べ、とか走れとかそんな至極当たり前の、けれど異常事態に放り込まれた少女からしたらとっさに躊躇なく行動には移せないだろう、そんな指示だったと思う。
だができたとしても、それらの行動を起こす事は叶わなかっただろう。
なぜなら、
「――――っ!」
刹那。
瞬き程すら叶わないすら一瞬の間に……、
こちらへと延びてくる景色の歪み……蜃気楼の魔手に絡めとられて、意識を失ってしまったのだから。
意識の深みから声がかかる。
――――人を殺したいと思うかい?
深く考える事もなく僕は答えていた。
「そんなのいつも殺してるよ」
脳裏に浮かぶのは大勢の死体。
異形の化け物も、人間も、たくさん積み重なっている。
巨大な死体の、その山。
そして、僕達は悪夢の始まりの場所へと堕とされる。
どうしようもない遊戯の場に、命が何かを知らず、蟻を踏みつぶして遊ぶような……そんな、純粋な悪意に満ちている暗き迷宮の、入口へ――――。
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