第十七話「小心」

 現代では検索すれば、容易に情報を知ることができる。必要以上の情報が溢れており、中には取捨選択しなければならないことも多い。

 情報量にうんざりとしながら、それでも発信者側にいるのは、どうにも矛盾していると思う。

 しかし発信を止めないのは、しっかりとした情報を届ける責任にほかならないからである。



 小さな出版社の社長をしている。老舗とも言われる権威のあるビジネス雑誌を出版しながら、細々と続けている。

 もっと採算のとれるような付録主体の雑誌やタレントを起用して発行することはない。歴代受け継いできた情報の確かさで勝負しているからである。

 誰が読むのだろうか。時に悩みながら、今の情勢を詳細に書き綴り、論理の通った内容を吟味している。

 嘘は書きたくない。

 後にそれが間違った内容となろうとも発行時には、正しい情報でありたい。

 その信念を貫きながら、ここまで歩んできた。

「社長、お見えになりました」

「ありがとう」

 会議室でクライアントを待っていると秘書がドアから顔を出した。その表情は曇っていて、これから起きようとしていることに不安を抱いているようだった。目線を合わせ、軽くうなずくとドアを閉めて、来客の案内へと向かった。

 クライアントとの挨拶がすむと話の本題に入っていく。相手は引く様子はなく、私もまた引く気はなかった。

「今の時代、出版業界は不況でしょう。それならば一緒に手を取り合い、協力していきましょう」

「しかし御社は、趣向があまりにもかけ離れています。この条件では、飲むことはできない」

「大丈夫なんですか? ここ数年間の販売部数は右肩下がりではないですか」

「あなたに心配されることではないわ!」

「また来ます。次回は色好い返事をお待ちしています」

 ビジネスライクな返答をして、クライアントは帰っていった。

 あそこの社長とは、どうにも居心地が悪い。それは昔の関係がそうさせている。

 おそらく、彼女はこの出版社が危機的状況なことを把握している。だから好意的な買収をして、雑誌だけでも守ろうと動いている。

 それでも私は、決して彼女には頼りたくない事情があった。

「あそこまで熱意を持って悪くない条件を出してくれる場所は、ほかにはありませんよ」

「それでも彼女には頼りたくない」

「どうしてですか?」

「……昔、付き合っていたのよ。社会人になりたての頃に」

 秘書は納得した表情をしながら、後ろから軽く抱きついてくる。

 デスクチェアに座っている私は逃げられるはずもなく、振り払うこともしなかった。

「まだ未練があるんですか? それとも再燃しちゃったとか?」

「そんなことあるはずないじゃない。私にはあなたがいるでしょう」

「妬けちゃうなー……。あっちはこっちのことはお見通しな顔してさ」

「過去に嫉妬してどうするの」

 首を動かしながら、軽く口付けをする。アンニュイな心中をかき消すように秘書の首元に顔をうずめると赤いアザを刻印する。

 今はもう何も考えたくない。

 色欲に覚えながら、秘書の身体を抱きしめた。



 雑誌内の人気特集で、旬な社長を紹介するページがある。この取材時は特に至急の予定がなければ、極力同席するように心がけていた。

 老舗の高級カフェを運営する女性社長と対談した。白いスーツがよく似合い、知的で品があり、誰が見ても風格があり社長そのもだった。

 受け答えも非の打ち所はなく、格の違いを思い知らされる。

 何人もの社長と出会い、交流してきた。普段はあまり感じることがない何かが、彼女には確かに存在していた。数少ない本物の証である。

 社長室に戻るとデスクの引き出しにしまわれた書類を眺める。

 私も彼女のような本物になれたら、違ったのかもしれない。

 責任ある立場で、統率が取れ、見せ方も知っている。彼女のプライベートは知らないが、悪い噂を聞くことはない。むしろ彼女が引き継いでから、業績は伸びているらしい。

 どうして私にはできないのだろうか。

 このままいけば、この老舗の出版社は数年後、早ければ来年あたりには、経営が厳しくなっていくだろう。

 簡単に情報にアクセスできる時代は、情報の流れも早い。

 紙媒体を好む人もいるが、デジタル化が進んだ今では紙雑誌は下降の一方である。

 時代に合わせて電子書籍も発刊しているが、売上はいまいち伸びていない。

 どこで道を誤ったのだろう。

 大きな失敗はない。ただ時代の変化についていけなかっただけのかもしれない。

 そう考えると滑稽だった。

 私達がしているこの仕事がもう時代遅れと揶揄しているようにも感じる。

 それならば、価値のあるうちに統合した方が良策でないだろうか。

 心は揺らぐものの、諦めたくない悔しさが、まだなにか策はあるはずと奮起させてくる。

 折れたくない。

 眺めていた書類をデスクにしまった。



 珍しい番号から電話があった。それはプライベートなスマートフォンで、一瞬応答することを躊躇した。

「久しぶり……というのは、おこがましいかしら」

「そうね、私には全く意図が読めないわ」

「ねえ、どうして買収をそんなに拒むの? 悪い話じゃないと思うわ」

「こっちにはこっちの事情があるの」

「そんなに意固地にならないでよ。私はただあなたを助けたいだけよ」

「そんな同情いらない」

「昔のよしみよ。必要と思ったから、声をかけているんじゃない」

「そういうところ、何も変わらないのね」

 買収相手である元恋人は、先日会ったときよりも砕けていた。

 当時のことを思い出し、懐かしさのあまり弱音を吐いてしまいそうになる。

 彼女と今でも上手く関係性が続いていたら、どうなっていただろう。

 そんな甘い幻想を抱きながら、心が揺らいでいることを悟る。

 あの頃は向こう見ずで怖いものなんてなかった。世間なんてどうでもよくて、二人だけでどうにかできると思っていた。

 彼女が世界の全てで、些細な日常ですらも楽しかった。

 いつからだろう。こんな重責を背負ってしまったのは。歳月とは不条理なものである。

 いつしか私もおそらく彼女もこうなりたかったわけではなかった。

 少なくても彼女との恋人関係だった頃には、必要なかったものだった。

 それが今では自分ひとりの力だけではどうにもならないくらい肥大し、押しつぶされそうになっている。

 どこか疲れている元恋人の声は、何かにすがりたいようにも聞こえてしまう。

 本音を話せる相手なんて、そうそういない。

 だからこそ、本来はよくないことと分かっていながら、あえてプライベートの電話番号にかけてきたのである。

 彼女は独りなのだろうか。

 そう思っても別れた歳月が、問いかけることを許さなかった。

「今度、食事でもいきましょう。友人として」

「そうね、楽しみにしているわ」

 通話が途切れ、エアコンのモーター音だけが部屋に響いている。

 私は何をしているのだろう。

 妙に人肌が恋しくて、秘書を呼んだ。幼い子供のように抱きつくと一瞬、驚いた表情をしたものの、微笑へと変わっていった。

 理由は聞いてこない。

 察しのいい彼女のことだから、おそらく気づいていることだろう。

 それでも口にしないのは、全てが終わった後、話すことを望んでいるからだ。

 それは優しさなのか、秘書としての義務なのか判断つかない。いや、ただ好きだからで構わないのかもしれない。理由なんて関係ない。

「ねぇ、どんな判断しても許してくれる?」

「それが悩んだ末に出した結論なら、私は構わない」

「ありがとう」

 彼女の温かさに重責が軽くなった。



 関係各所に根回しをしながら、一年後、大手出版社のビジネス部門となった。規模は小さくなったものの、雑誌は存続され、難を免れることができた。

 元恋人は、リーダーシップを遺憾なく発揮し、大規模な混乱は起きることはなかった。

 もしかしたら当時の彼女は、迷っていたのかもしれない。「私のため」と口にしながら、会社の弱い部分を補強しなければいけない現実に。それはもう今となっては知る由もない。

 社長という立場がなくなり、事実上、無職となった私は、元秘書と同棲をしながら清々しい空気をすっている。

 秘書は私とともに会社を去るつもりでいたが、私が半ば引き止めた。

「私と心中するのも悪くないけど自分で決断しなさい」

 これが社長としての最後の命令だった。

 彼女は悩んだ末に大手出版社に異動を決意した。これもまた彼女らしい決断だった。

「やり残したことがある」

 その決断を大いに喜び、背中を押した。

 これでいい。

 また新たな関係性を築いていけば、それでいい。

 社長と秘書では越えられない、新たな記憶を刻みながら、日々は続いていく。



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