第十八話「懐古」

 書棚の整理をしていると懐かしい写真が出てきた。栞代わりに挟まれていたそれは、当時の匂いをかぐわせた。

 あの頃は、向こう見ずで若さだけが存在していた。

 もう戻れない歳月は、年齢の重みを深々と感じさせた。


 同じ業界で働いているのだから、記念祝賀会などで顔を会わせても不思議ではない。

 それなのに今の今まで会うことがなかったのは、神様のいたずとらとしか言いようがない。

 久しぶりの再会は、買収を持ちかける話だった。

 本心は世間話も思い出話もしたかったけれどビジネスの場にはふさわしくない。

 さらに会うことなく過ぎ去った歳月は、どのような距離感で話せばいいのか彷徨わせ、必要以上に丁寧になってしまう。

 深い関係だったはずの相手の社長は、まるで初対面のように会話をする。

 こんなはずではなかった。

 ただ幾ばくもない寿命の出版社を助けたい一心で、ここにいる。

 その想いは、再三に渡っても届くことはない。

「社長、もう諦めたらいかがですか? 無理にこだわる必要などないでしょう」

「そうかもしれないわね」

 物憂げに微笑む私を見て、秘書が訝しげな表情をする。

「あの出版社……いえ社長と何かあるのですか?」

「昔の話よ。大学が一緒だったの」

「くれぐれも情に流されないでくださいね」

 秘書は釘を指した後、秘書室へと戻った。

 彼女は決して、私の心配をしているわけではない。ただ会社の行く末を気にしているだけである。

 付け加えるのならば、自分の出世だけを気にしている。

 結果至上主義で、私に興味すらを持っていない。それなのに秘書という仕事をしている。

 雑務以外の多くは社長業務の補佐で相応なスキルと知識を求められる。

 故に望むのであれば、経験した後、重要な管理職につくことも珍しくはない。

 矛盾しているようで最前線なここは、彼女には合理的である。

 彼女はこの話をまとめられる技量は持ち合わせているのだろうか。

 考えたところで、思考を止めた。

 それは彼女の仕事ではない。用意された代替案を眺めながら、大きく吐息した。


 出版社の社長だからといって、いちいち雑誌の撮影に顔出しすることはない。基本的に現場に任せで、視察を兼ねたとき以外は触れることは滅多にない。

 しかし今回は別格である。

 ファッション誌に世界的なデザイナーの特集を組むことが決まった。パリコレクションなどのファッションウィークに招待されるほどのブランドである。挨拶をしないわけにはいかない。

 それほど洋服に興味のない私でも知っているそこは、一流と呼ぶにはふさわしい。

 当日は何を着ればいいのかも分からず、専属のスタイリストに選別を頼んだ。

 おそらく、特集するブランドのフォーマルなものだろう。そこに私の好みも意思もも関係ない。

「先方の情報をまとめておいて。過去の特集記事もよろしく」

「すでに共有フォルダにはいっております。ご確認ください」

「さすが仕事が早いのね」

「ありがとうございます」

 タブレットを操作して、資料を読み始める。

 デザイナーの経歴から、ブランドの成り立ち、最新のコレクションまでまとめられている。

 モノトーンでユニセックスなデザインは関心を抱いたが、やはり私には理解できない奇抜さである。中には昔、流行っていたような服装もあり、頭を悩ませた。

 ファッション界ではこれが評価されているのか。

 流行が一定周期で繰り返されると知っているが、先進的なデザインよりも懐かしさが勝った。

 頭を悩ませていると秘書が口を開いた。

「ブランドコンセプトは”温故知新”。懐かしさや定番の中に斬新なデザインを入れることで、ブランド色を出しています。比較的、好みは分かれるデザインですが、ファッション業界では地位が確立している中堅ブランドです」

「あなたは、ここのデザイン、どう思う?」

「嫌いではない……ですかね」

「素直でいいわね」

 やはり秘書として有能である。たとえ苦手なものでもこれから関わる企業を悪いようには口にしない。その機転の早さがここまで最短で上り詰めた所以である。

 彼女はいつまで私の直属で働いてくれるだろう。

 そう思うと妙に寂しさがこみ上げてきて、人肌が恋しくなった。

 独りになった社長室で、プライベートのスマートフォンを取り出した。そこには歳月を経てもなお、消せない電話番号が登録されている。

 懐かしい。

 掛けてはいけない電話番号なはずなのに無意識にコール音が鳴り響いた。


 VIPの雑誌掲載は終わり、企業買収は無事に締結した。

 秘書は変わらず、私の元で働いてくれている。相変わらず、私のことは興味がない様子である。

 ここに来て四年を越えた。そろそろ内示が来てもおかしくはない。

 専務が半年後に定年を迎える。その際、専務から直属の部下の処遇を任されている。

 この会社のしきたりに沿えば、自動的に秘書は今までより上位の上司に付くことが慣例である。

 それは社長付になるということで、現在の秘書はそれなりの役職を与えられ、ここを去る。そうなれば、現在の秘書とも離れることになる。

 専ら昇進にしか興味がない彼女には、悪い話ではない。快く受け入れ、また一つ上の階層に近づいていくだろう。この昇進の話は、おそらく彼女は勘づいている。

 だからこそ、考えてしまう。他に道はないのだろうか、と。

 専務付の秘書が決して悪いわけではない。ただどこか悶々として、すっきりとしないのである。感情の落とし所が見つからない。


 しばらくして、秘書の異動が決まった。引き継ぎが行われ、私のもとを離れていく。

 寂しくもありながら、昇進を祝った。仕事なのだから当然である。

 それなのにどこか虚無感にかられているのは、割り切れていないのかもしれない。

「本日までお世話になりました」

 これで最後か。もちろん、社内には彼女がいて相応の役職ある立場に配属されるのだから、会うことはあるだろう。

 しかし今まで同じではいられない。いられないからこそ、歳月の重さがのしかかってくる。

 秘書が私に興味を持たなくてもよかった。むしろそこに居心地の良さを感じていた。そのことに気づいたとき、妙に腑に落ちた。

「よろしければ、こちらどうぞ」

「今までありがとう。異動先でも活躍を期待しているわ」

「恐縮です」

 一礼して秘書が去っていく。

 彼女が配属された当時、好物と伝えた焼き菓子がデスクの上に置かれている。餞別の品に選んだことに彼女らしさを覚える。パッケージを開けて、一口、頬張る。

 懐かしい。

 この味が好きだった。いつの間にかほとんど食べることはなくなった。店が存在することすら興味が薄れていた。

 そういえば、社会人になりたての頃は、店の近所に住んでいて、足繁く通っていた。

 懐かしい。

 一口、頬張るごとに記憶が呼び起こされる。苦しい記憶も楽しい記憶も当時の感情も。忘れているようで奥底に眠って、刻まれている。

 懐かしい。

 あの頃に戻れたなら、私は今、何をしているのだろう。

 数々の下してきた選択が、別の結果になっていたとしたら、もしかしたら今の立場ではなかったかもしれない。

 空になった箱を眺めながら、ふと甥の言葉を思い出す。

『”懐かしい”って、そんなにいいことなの?』

 そのときは軽く聞き流してしまったその言葉が、今となって突き刺さる。

 歳月を重ねたからこそ抱く感情は、四歳児には理解できない。理解できないからこそ、私達と違う価値観を感じ、動いている。

「失礼致します」

 ノックする音と共に新たに配属された秘書が入ってきた。

 ここからまた記憶が刻まれていく。

 そう想うとどこか、胸が高鳴った。


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