第三話「憧憬」

 社長は私の憧れである。だからこそ、この会社の求人を見つけたとき、迷うことなく応募した。募集年齢としてはぎりぎりで、秘書の経験もなかった私が、なぜ採用されたのか分からない。

 日々、慣れない業務に追われながらも社長のそばで仕事できることは、なによりの歓楽だった。

「商談、お疲れ様でした」

「ありがとう。こちらこそ、あなたがいろいろとサポートしてくれているから、助かっているわ」

「恐縮です」

 一礼をしてから、社長室を退室した。

 社長は秘書を付けて外出することは滅多にない。だから私はお見送りとお迎えはするが、社外の社長の姿をほとんど見たことがない。

 年に数回、社長と出掛けることがあるが、そのときだけ偉大さを痛感する。

 こんなに煌びやかで存在感がある人だったのか。

 誰も社長の名前を呼び、また社長も相手の名前を覚えている。

 笑顔で会話をするとまた別の人へ挨拶へと行く。私もある程度顔と名前を覚えて来ているが、それでもごく一部の人

だった。

 この人がいるから会社が成り立っているのだ。

 感心するあまり、帰りのタクシーで言葉に出してしまった。興奮さながらの称賛にさも当然のように社長は答えた。

「私は潤滑油でありながら、客寄せパンダだから」

 役割を演じているだけ、と言っているようだった。

 確かにそうなのかもしれない。

 一人一人が役割をこなすことで、会社が回っている。

 懐と思慮深さを実感した瞬間だった。

 この人と仕事ができて、幸せである。



“人の上に立つ覚悟、人を信用する器量、逃げない姿勢。“

 昔、読んだ特集記事に書いてあったことである。

 たまたまネットサーフィンをしていたときだった。たった一つの記事がここまで人生を変えてしまうとは思ってもい

なかった。

 当時、恋人と別れ、仕事もうまくいっていなかった。さらに言えば、友人関係もぎくしゃくしており、八方塞がりだった。誰にも助けてもらえない状況は、憔悴しきっていた。

 かろうじて、仕事には出掛けていたものの、それ以外は引きこもることが多くなっていた。

 そんなとき、社長の特集記事に出会った。

 まだまだ女性が家庭に入ることが一般的な時代に起業した女性社長の写真は、凛々しくも品に溢れていた。老いではなく歳月を重ねたその姿は、私の求める姿でもあった。

 こんな人がいるのか。

 実際に話してみたい。

 そう思って、セミナーに参加した。

「起業を目指す女性」を対象としていたが、特に起業をするつもりもなかった。

悩んだ末に好奇心が優って応募をした。

 浮かれた理由でも大勢の中に紛れてしまえば分からないだろう。そう考えて高を括っていた。


 当日になるときっちりとスーツを着こなしている女性やハンドメイド作家、中には自分よりも年下も見受けられた。

 憧れの社長を目の前で見られる。

 そう軽い心持ちで、着席した。社長が登場すると一気に厳かな空気に支配された。

「このセミナーに来るということは、志が高い方達だと思います。皆さんは、何を目指して起業したいですか? 自分の成功、他者からの称賛、社会への貢献。今一度、考えてみてください。あなたが求めるものはなんですか?」

 周囲の人々は、食い入るように話に夢中になっていた。

 私一人が浮いているようで、思わずうつむいた。

 それに気付いたように社長は私を指名した。

「あなたの求める理想はなんですか?」

「社会に貢献すること…いえ、各々が生きやすくするためにサポートしたいです」

 なんとか取り繕って発言したものの、抽象的で具体性のない返答になってしまった。これでは中身が空っぽで、ただのミーハーと変わりない。

「素敵なコンセプトだと思います。ただし起業するならば、もう少し明確な指針が必要ですね」

 なんて度量のある人だと思った。あんなにしどろもどろで話したのにきちんとしたアドバイスをしてくれた。

 私には一生届かない境地にいる。歩んできた人生の重みが違い、卓抜している。

 来てよかった。爽快していく。

 同時に自分の不甲斐なさを痛嘆した。

 このままでは駄目だと。

 なんて狭い世界で物事を見ていたのだろう。

 このとき、新たな一歩を決意した。



 先日、商談に行った会社から電話の取り次ぎをした。

 なんとなく、いい色の返事ではないように思えた。

 案の定、予感は当たっていて、社長に呼び出された。

「やっぱり私は甘いのかもしれない」

「ただ今回は条件が悪かっただけではないでしょうか」

「そうかしら。こちらとしては、好条件を提案したのに相手は譲歩もしなかった」

「相手は冷淡で容赦ない“氷菓”と名高い方ですから。そもそも方針が違うのではないでしょうか」

「それもそうね。ありがとう、次こそものにする」

「微力ながらサポートします」

 社長は時々、弱音を溢す。それは秘書についてから分かったことである。

 それまで完璧な人だと思っていた。外からは欠点など見当たらず、一人でも問題解決して進んでいくように見えていた。

 ただ前だけを見据えている。そして躊躇いなく、新たな未来を築いていく。

 しかし世間の印象は当てにならない。実際の社長はたまに書類にお茶を溢すし、実に庶民的だった。

 

 一度だけ急用で社長のマンションに行ったことがある。そこは高層マンションではなく、主要駅からも遠かった。

 唯一、優れていると言えば、セキュリティが強固なくらいである。そうは言ってもコンシェルジュがいるわけでもなく、何重かのオートロックになっているだけである。

 少し無理をすれば私でも住めそうなくらいのマンションだった。

 休日だというのに社長は、嫌な顔一つしない。それが仕事だと割り切っているのか、もしくは大人としての嗜みか。

 たとえ後者だとしても私が犯したミスなので、叱責を受ける覚悟はあった。

 書類にサインをもらうと早々に立ち去ろうとした。

 しかし社長は「せっかく来たのだから、時間に余裕があればお茶でもいかが?」とたおやかな微笑みで迎い入れてくれた。

 そこには他意はなく、本心のように感じられた。

 テーブルの上には読みかけの本が置いてあり、プライベートな部分に立ち入っている緊張感が走る。

 白を基調とした部屋は、整えられているがどこか殺風景だった。

 生活感はあるものの、凝ったインテリアも高級な家具もない。

 寝室は別にあるようだが、さして広い部屋でもなかった。

 一般的な社長の部屋というには、簡素で質素である。

「事務所みたいでしょ?」

「いえ、そんなことは……」

「私、片付けが苦手なの。だから必要最低限しか物を置かないようにしているの」

「意外です。いつもデスクは綺麗にされていたので」

「そう言いつつ、ちゃんと気付いていたじゃない。重要な書類の前にはお茶は出さない」

 確かに気を付けていた部分ではあった。

 社内書類といっても社長まで上がる書類は、大きな事案であることが多い。汚されてしまっては、その後の処理には骨が折れる。

 やはり社長は人を見ている。

 そして自分の欠点を曝け出して、安心感を抱かせてくる。

 片付けが苦手な社長も弱音を吐露する社長も社長は私の憧れなのは変わらない。

 むしろ弱い部分を曝け出してくれていることが、人間らしさを助長し、愛おしくも思えた。

 この信頼の証は、私だけに与えられている物だと考えるだけで、興奮した。

 弱い部分を他の人に見せないで。

 もっと私だけに見せて。

 憧れから独占欲が見え隠れしている。

 どうか社長に見つからないで。

 そう願いつつも届いて欲しいと下心が芽生え始めている。

 確かに社長は憧れなのだ。しかし知れば知るほど沼に引きずり込まれていく。

 魔力を秘めたそれは、歳月を重ねているからこそ、美しい。



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