第二話「嫉妬」
私は秘書が好きではない。誰にでも分け隔てなく接し、一気にその場の雰囲気を変えてしまうからである。私一人では難しい商談も彼女がいるから、丸く収まってしまう。
どうして私では無理なのか。そう何度考えたのか分からない。
この愚問を解決するには、目の付く場所に秘書を配置しなければいいだけで、部署異動を命じれば済む話なのである。しかしそれをしないのは、おそらく彼女が他の人に取られるのが嫌なのである。
矛盾している。
好きではない。しかし嫌いでもない。それなのに無関心ではいられない。
採用の面接をしたときから、彼女に縛られている。
十中八九彼女は覚えていないけれど、三ヶ月間だけ同級生だった。
小学生のとき、転勤が多い両親に連れられて、全国各地を転々としていた。
どうせすぐに転校するのだ。それならば深く付き合うこともない。
「転校してもまた遊ぼうね」が実現することは、一度だってなかった。数日が経てば同級生の記憶から薄れ、私なんていなかったことが当たり前の世界へと戻っていく。
記憶の希薄さを学んだ私は、誰も信頼することはなかった。それなのにひとつだけ、今も鮮明に覚えている出来事がある。
幾度かの転校を繰り返し、この生活にも慣れて来た頃だった。面倒なことに巻き込まれないよう、終始笑顔を絶やさないようにしていた。
クラスの中心人物に嫌われないように注意しながら、控えめで大人しい人を演じていた。
八方美人という言葉は知っていた。正に私はそれなのだと悟っていた。
どうせ自分をさらけ出して友人を作ったところで、傷付くのは自分だけだと分かっているからである。
それなのに彼女は、本心を見透かしたように言ったのである。
「なんでそんなに笑っていられるの?」
「どうして?」
「馬鹿にされても笑っているから、本心が分からなくて時々怖い」
見抜かれた。どう返答しようか模索しても過去に露呈したことなんて一度もなく、誤魔化す術も思い付かない。
完璧に武装できている。これはただの自負だったに違いない。
大きく見開かれた目は、こちらを真っすぐに見据えている。
正直に話すしかないだろうか。
もう十日もすれば私はいなくなる。彼女にバレたところで、全く影響はない。
口を開きかけたとき、遠くから彼女を呼ぶ声がする。
どうやらなにかの遊びに誘っているらしい。彼女は大きく手を振ると「今、行くー」と走り出して行ってしまった。
私はその場に置き去りにされ、本心を飲み込むことに必死になった。
バレなくてよかったではないか。
その方が残り少ないここでの生活も楽に過ごせるではないか。
それなのに鬱蒼とした心が騒ついて、今まで体感したことのない感情の波が押し寄せてくる。
彼女に特別な感情を抱いていたわけではない。
それならばなぜだろう。
考えても答えは出ず、ただ強く激しい感情の波が収まることを待つしかなかった。
「社長、お客様がお見えです」
「分かった、通して。……あとあなたも同席して」
「かしこまりました」
何度か面識のある人だった。挨拶してから座ると用件を話し始めた。
世間での私の印象は、決して良い方ではない。
大胆な発想で新たな顧客ニーズを獲得するが、冷淡で誰に対しても容赦ない。微笑を浮かべているが興味がないものは、迷うことなく切り捨てる。
一部では、”氷菓“とも呼ばれているらしい。これが私にどんな影響を与えているか計り知れないが、概ね間違っておらず、否定もしない。無闇に信頼して裏切られるくらいなら、私は最初から信じない。
商談が終わり、エレベーターまで客人を見送ると社長室へと戻った。
「今の話、どう思う?」
「と言いますと?」
「あなたの判断を聞いてみたい」
「そうですね。短期的に利益を求めるなら、受けても差し障りないといったところでしょうか」
「やっぱり、あなたは見る目あるのね」
「恐縮です」
紅茶を置くと一礼をして社長室から出ていった。背中を見送りながら、紅茶に口を付ける。
やはり彼女の淹れるお茶は美味しい。秘書として申し分ない。
前任の秘書が退職の意向を出したとき、求人の応募をしてきたのが現在の秘書だった。
履歴書を見て驚いた。珍しい名字と名前ですぐにあの子だと思った。
あの情景は記憶の片隅で鮮明に今も残っている。
会えば答えが分かるかもしれない。
もしかしたら私を覚えているかもしれない。
淡い期待を抱いて、面接の連絡をいれた。
僅かに緊張しながら面接に挑んだが、話題に出ることはなかった。なぜか落胆している自分自身に衝撃を受けながら、彼女を採用した。
贔屓目からではない。応対や過去の職歴、資格からいって、彼女が群を抜いていたからである。
彼女以外を考えたが、やっぱり彼女以外、あり得なかった。
先日の商談に断りの連絡をした後、彼女のいれた紅茶を二人で飲んでいた。
「ねぇ、私の名前、覚えてる?」
「当たり前でしょう。その程度の人間ならば、解雇なさっているのではありませんか」
「そうね、仕事のできない人を側近にしておくほどお人好しじゃない」
「それならば、どうしてそんな質問を?」
「ひとつ、聞きたかったことがあるの」
穏やかなようで不吉な緊張が流れる。
どちらとも微笑を絶やさない。
息を吸い込むと言葉に乗せて、吐き出した。
「小学生のあなたを私は知っている。私を覚えていて、ここに応募したの?」
「覚えていて応募した訳ではないですが、クラスメイトだったことは認識しています」
「どういうこと?」
「入社してしばらくした後に同窓会がありまして。そのとき、同級生から聞きました」
「そう、それで私のこと思い出したの?」
「えぇ、そうですね。短い期間だったので覚えていないだろうと聞くこともしませんでした」
「どこまでも優秀ね。今夜、同級生として食事にいかない?」
「珍しいですね。あなたが仕事以外で私を誘うなんて」
「興味があるのよ」
「分かりました。店を予約しておきます」
「ありがとう」
ポットの中身がなくなり、お茶会は幕を下ろした。
彼女は私を知っていた。
この事実だけが、脳内で反芻していた。
カジュアルイタリアンの店に着くと予約席へと案内された。
少し離れた席では、綺麗に包装されたジュエリーボックスがテーブルの上に置かれていた。スーツ姿の女性二人は、深刻そうな表情をしていくつか言葉を交わしている。
仕事帰りだろうか。そう考え始めたが、詮索している自分が嫌になって、正面の彼女へと視線を向けた。
「ねぇ、小学生のとき放課後に私に言ったこと覚えてる?」
「なんのことでしょう」
「『なんでそんなに笑っていられるの?』」
「意図が読めません」
「あなたが私に言った言葉よ。覚えてないのね」
「あぁ、それはたぶん……」
話しかけたそのとき、彼女のスマートフォンが鳴った。
その着信音が電話であることは、長い付き合いから知っていた。
気にしてない振りを装いながら「どうぞ」と促すと「すみません」と彼女は席を立った。
彼氏だろうか。それとも家族や友人だろうか。
結果至上主義の会社で、プライベートはさほど気にならなかった。
それなのに。
どこかで感じたことのある激情が、小さな火種となって灯り始めている。それは遠い記憶の中に存在していた。
あぁ、あのときと同じだ。
大きな感情の波が押し寄せてくる。
ねぇ、なんで本心に踏み込もうとするとあなたは遠くへ離れていくの。
どうして期待させるのに留まってくれないの。
いつも話題の中心にいて、本質を見抜いてくる。それはどうあがいても私には、手に入ることはなかった。
私に興味がないことは分かっている。
“社長”だからいけないのか。
”氷菓“だからいけないのか。
どうすればあなたのプライベートに立ち入ることが許されるの。
もしこれが嫉妬とするならば。
もう手放せないほどの恋に落ちているのかもしれない。
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