第四話「悲哀」
彼女との出会いは、偶然だった。共通の趣味もないのにSNSでなぜか繋がり、気付けば生活様式も徐々に変化をもたらすくらい、影響力を及ぼした。
大学生のときに出会い、社会人になった今でも関係は続いている。精神的な繋がりだけでなく、肉体的な繋がりもそこにはあった。
私には彼女が全てで、彼女には私が必要だったと自負している。
アパートの隣人になり、合鍵を使って自由に行き来できるくらいには信頼していたし、プライベートを維持していた。
彼女がある日、私に言った。
「会社を立ち上げようと思う。もし良ければ手伝って欲しい」
彼女が女性起業家のセミナーに通っていたことも知っていたし、本棚には会社経営にまつわる書籍が増えていることにも気付いていた。
夢語りはしなかったけれどしっかりと現実を見据えていることは見て取れた。
そしていつかはこんな日が来るだろうと予測していた。
「分かった」
彼女が覚悟を決めたのなら、私も覚悟を決めるときだろう。そう考えて即答をした。
現在勤めている会社に給与以外の未練はなく、役職も付いていない。
本来ならば片方が収入の安定を担った方が賢いのかもしれないが、それ以上に彼女と仕事をしてみたかった。
だから私は与えられる仕事はなんでも行った。それがたとえ業務外だったとしても率先して動いた。
彼女は社長として、会社を軌道に乗せるため、必死で契約を取って来た。
いつ潰れるかも分からない。
従業員は私と彼女しかいない。
それでも楽しかった。
こんなにも夢中になれるものがあるのだと知った。
部屋こそ違うけれど同じアパートに住み四六時中行動を共にし、苦楽も乗り越えていった.
その甲斐あって、会社は軌道に乗り始めた。
そこから二人では手が足りなくなって、何人かアルバイトを雇った。
その頃から、私は秘書という肩書を持つこととなった。
いつの間にか彼女は私の部屋にやって来て、隣で本を読んでいる。
それに構わず映画を観る私は、何も違和感を覚えていない。
それくらいに当たり前で、日常なのである。
今では贔屓している映画監督は、最初は彼女から魅力を教えてもらった。マイナーではあるけれどそこがまた好奇心を掻き立てている。
「その映画、本当に好きなのね」
「無性に観たくなるときがあるんだよね」
「確かに中毒性はあるかも」
そう言って彼女は微笑んだ。
元々、彼女が勧めた作品である。だから彼女も何度も観ているし、隣で観ていても関心が薄い。
読んでいた本がひと段落したのか、彼女が私にもたれかかってくる。
その重さに愛情を感じながら、画面からは目を逸らすことはない。
それは彼女も同じで、寄りかかってくるものの、本は閉じられていない。
ページをめくる音がする。
分厚い専門書は、私には理解不能である。
一時、必要性を感じ勉強したが、専門外の学部を卒業している私には、表層すらも理解できなかった。
会社のために強いては彼女の力になりたくて始めたものの、すぐに挫折を味わった。
そのときの彼女は、バツの悪そうな表情をした私にこう言った。
「いいのよ、別に分かろうとしなくても。その代わり、私の至らない部分をサポートしてくれれば、それだけで充分助かる」
慈悲にも満ちたそれに救われ、罪悪感は消失した。
この人について行こう。
そう決めて、長い間、追いかけて来た。
歳の差は埋まらないけれど彼女のことは誰よりも熟知している。
首筋に柔らかな感触の熱を感じ、髪があたる歯痒さを覚える。
至近距離で彼女の薔薇のような甘い香りが鼻につく。
それからゆったりとした動きの舌先が撫でる。
唇が重ねられ、どうにも春情をかき立てられていく。
腰に手を回すと僅かに肉付いたそこには、歳月を感じられた。
「んっ……」
啄むように弄ばれると呼吸が浅くなっていく。
それでも愉悦を知ってしまった唇は、本能的に求め合う。
唾液が交差し、潤んだ瞳は視界を滲ませていく。
欲動は肉欲を満たしながら、深い微睡へと堕としていく。
いつの間にか本は閉じられ、映画の音声は耳には届かない。
どんな時でも彼女と一緒だった。
社長と秘書ではあったけれどそれ以上の繋がりがここにはあった。
世間的な背徳感も倫理観もここには関係ない。
ただここには上司と部下でも友愛でもなく、共依存だけが存在していた。
どちらか片方が欠けてしまえば、壊滅してしまう恐怖と強固でありながら脆い、砂上の楼閣が見え隠れしていた。
そうしなければ私と彼女は、生きていけなかった。
出会いこそ、大学生と社会人で格差はあったが、それすらも遠い記憶である。
知命を過ぎてもなお、覚めることはなく、激情の現実を目の当たりにしていた。
それはそれで悪くない。いや、むしろこれがいいのかもしれない。
誰にも咎められることなく、ただ二人だけで完結する世界は、ただそれだけで美しい。
そんなある日、彼女は帰って来なかった。
一緒の部屋に住んでいるわけではないので、もしかしたら帰って来ているのかもしれない。
それにしても不可思議だった。出張後は、私の部屋を訪れ、お土産を渡してくれることは慣例だった。
疲れている日でも立ち寄り、そっと抱きしめ合い、帰宅を喜んだ。
電話をしても繋がらず、メッセージを送っても返信はない。
時々、スマートフォンの充電器を忘れ、応答ができないことはあった。
それでも出張が長引けばホテルの電話からかけてくるだろうし、持ち運んでいるPCからメールを送ることもできる。
夜は更けている。
もし帰宅をしていたら、寝ている時間だろう。
それならば明日確かめに行った方が無難である。
違和感を覚えながら、私は浅い眠りについた。
翌日、合鍵で彼女の部屋へと入った。そこには別段、変わった様子はなく、帰宅した形跡もない。
もしかして、ともう一度電話を掛けてみるも呼び出し音が鳴るだけで、一向に繋がらない。
メッセージを送ってみても返信はなく、昨夜と全く状況は変わらなかった。
ホテルに問い合わせをしてみたが「個人情報は教えることはできない」とチェックインしたのかすら、分からない。
出張先で赴いている取引先に聞こうにも印象が悪くなりそうで聞くに聞けなかった。
どこに行ってしまったのだろう。仕事を投げ出して逃げるほど無責任ではない。
元々、今日は有給消化で休みを取得している。
それに合わせて、アルバイトもシフトを入れていない。
出勤は私だけなので、そっと私も休日出勤した代休に当てた。こんな焦燥に駆られた状態で業務をこなせるほどの強さは持ち合わせていない。
数日が経ち、警察に相談しようか迷っているときだった。
ぼんやりとしながら、窓の外を眺めていると着信音が鳴り響いた。
慌ててスマートフォンを覗き込むと見知らぬ電話番号が表示されていた。
仕事柄、重要な電話はこちらの電話番号に来ることもある。期待を削がれながら、そっと応答のタップをした。
「もっと早くにお知らせしなければならないと思いつつ、数日経ったことをお許しください」
落ち着いた女性の声色は、どこか疲れていて悲壮感が漂っていた。それでも感情を押し殺しながら、淡々と言葉を紡いでいく。
そこには知りたくない現実と向き合わなければいけない事実が存在していた。
信じ難くて、まだ夢の続きだと思っていたかったのに真実は、残酷だった。
電話が切れた後、虚空を見つめた。思考が混乱して、意識も混濁していく。
それなのに私は泣くことができない。まだたちの悪い冗談だとしか思えない。
だから意を決して、告げられた場所へと出向く決断をした。
集中治療室で呼吸器をつけた彼女が横たわっている。古典的に頬をつねってみるも痛みが伴うだけだった。
どうして教えてくれなかったのか。
彼女の母親と名乗る女性は、以前から脳腫瘍があることを知らされていた。
もう手術しても助からないと言われ、対処療法をしていたのだという。
なぜそんなに大切なことを教えてくれなかったのだろう。
そんなに信頼されていなかったのか。
私一人の思い込みだったのか。
そんなに体調が悪かったのなら、今回の出張だって行かなくてよかった。代わりに私が行くことだってできたのに、何故。
呆然として、ガラス越しの彼女を眺め続けた。
会社は私が引き継いだ。
彼女が私に遺した唯一のものを手放す気にもならず、潰すこともできなかった。
整理してしまえば楽なのにあえて向き合う選択をした。
これでよかったのだろうか。
数年経った今でも悶々としている。
そんな中でもただ一つ見つけたことがある。
彼女はいつも通りの日常を送りたかったに違いなかったと。
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