6
家に帰りつき、夕食を済ませても、胸中にわだかまった靄は晴れなかった。早々に食卓を離脱し、二階の自室に引き上げる。ベッドに身を投げ出したまま、スマートフォンを弄んだ。
だらだらとSNSなど眺めてみたが、どうにも面白くない。本当はどうしたいのか、自分でよく分かっていた。
けっきょく三十分も経たないうちに音を上げた。教わってはいたものの一度も架けたことのなかった番号に架ける。呼び出し音。
「――はい」
思いがけず早いタイミングで応答があったので、私は慌てた。「志島です。部長、いま大丈夫ですか」
「大丈夫。というか、そろそろ架けてくるんじゃないかと思ってたんだよ」
「なぜ?」
「二番目の私の推理――一目惚れ説も、やっぱり気に入らなかったんでしょう? さっきお風呂で考えてたら、これにも見落としがあったって気付いちゃったんだよ。ユーレカって叫んで駆け出したよね、まあ体は拭いたけど」
「服を着てくださいよ」
琉夏さんは途端に声を潜め、「これは秘密だけど、私って寝るとき、服着ない派なんだよね」
「その情報はほんとに要らないです。本題に入ってもいいですか」
盛大な溜息が出てしまった。ところが彼女は笑い声を洩らして、
「私としては、もう入ってる気満々だったんだけど。つまりは服装の話」
「はい?」
「皐月、言ってたよね。Xは部屋からふらっと出てきたような恰好をしてたって。部屋着の時点でお洒落な人だって当然いるだろうけど、その言い方からするに、Xは違ったはず。でもさ、好きな相手の前に出て行くなら、多少なり気張った格好をするほうが自然じゃない?」
私は息を詰めた。確かにそうだ。自分で語ったのに、すっかり忘れていた。
「言われてみれば。部屋着丸出しを見られるとか、相手が好きな人じゃなくたって絶対厭ですし」
「なるほど、皐月的には厭なんだ」
「厭ですよ、恥ずかしい」
「まあいいや。これから本番の推理を披露しようと思ってるんだけど、その前にひとつ確認したい。皐月さ、私に嘘を吐いてたよね?」
いきなり頬を張られたように感じた。「嘘ってわけじゃ――」
「隠し事をしてた、のほうが正確かな。意図的に、私に話さなかったことがあった。そうだよね?」
「――部長の言う通りです」観念し、スマートフォンを持ったまま頭を下げた。いつ、そしてなぜ分かったのか。「言うべきことを伏せていました。すみませんでした」
「そうかそうか」
さすがに怒らせてしまったと覚悟していたのに、返ってきたのは妙に満足げな声だった。面食らった私はおずおずと、
「あの、怒ってないんですか」
「別に。推理の助けになったからね」
「仰る意味がよく分かりませんが」
「つまりね、皐月がなにをどう私に話したのかと同じくらい、なにをあえて話さなかったのかも重要だってこと。今日の現地調査での行動、私の言葉に対する反応なんかも加味すれば、いろんなことが見えてくる」
「えっと、私のことも観察してたってことですか」
「当たり前じゃん。観察する気がなかったら、この件についてどう思うかとかさ、わざわざ訊かないでしょ」
琉夏さんがわりあい頻繁に私の意見を求めていたのを思い出した。議論しながら推理を深めるためだと思い込んでいたのだが――目的は別にあったらしい。
「じゃあ私がなにを伏せていたのか、部長にはもう分かってるんですか」
ふふふ、と彼女は愉快そうに笑い、「それは最後のお楽しみ。先にXの謎の行動について話すね。けっきょく彼は本屋でなにをしていたのか。検索機を使った意味は。なぜ自販機でなく売店でジュースを買ったのか。その直後に慌てたのはなぜか。彼はどこに行ったのか」
私は息を吐き、「お願いします」
「ではでは本番。いきなり自分の推理を否定するようで申し訳ないけど、夕方のは練習だから許してね。Xが本屋にいた理由は暇潰し。そして検索機を使ったのは、欲しい本の在庫を調べるため」
これにはさすがに、素っ頓狂な声が出た。「へ?」
「だから、ごめんって。Xは暇潰しのために本屋に来て、なんとなくぶらぶらしていた。本が見つからなかったから検索した。皐月の言った通りだったわけ。大事なのはこの先。ここから掘り下げていくよ」
「はあ」言葉が見つからない。「とりあえず、続きをどうぞ」
「Xは本を探すのに、思いがけず時間を使ってしまった。小さな本屋だからすぐ見つかると踏んでいたのかもしれないし、たぶん散策自体を楽しんでもいたと思う。彼が本探しに時間を食った理由は、ふだん行ってる本屋と棚の並び順が違ったから」
「並び順って――あそこは作家名であいうえお順、でしたよね。それで困るんですか」
「人によっては。もう少し規模の大きい本屋だと、出版社ごと、文庫ごとのパターンがけっこうあるの。私もわりとそうだけど、ジャンルや傾向で纏まってるほうが探しやすいって人もいる。海外ミステリならこのへん、SFならこのへん、みたいにね」
分かるような気もする。「ジャンルごとに固まってれば、うっかり作者名なんかを忘れても探しやすいのかもしれませんね」
「そうそう。ともかくXは、本屋で想定以上に長い時間を過ごしちゃった。Time flies when you're having fun. 楽しい時間はあっという間」
やたら流麗な発音である。したり顔が浮かんでくるようだった。「ただの暇潰しだったってことは――本屋の謎とジュースの謎は無関係なんですか」
「ううん、めちゃくちゃ関係ある。むしろ本屋の話抜きじゃ、ジュースの謎は解けない」
「どういうことですか? 時間を費やしちゃったことに意味があるんですか?」
「そう。Xははっとして、時間を知りたくなった。でも腕時計もスマホも持ってない。それこそ部屋からふらっと出て来ちゃったから、だね。彼は時計を探して歩いた。きょろきょろしてたのはそのせい」
「駅ビルなんだから、時計くらいすぐに見つかりそうな気がしますけど」
「ぱっと断言できる? ましてXは、ふだんあのビルを利用しない人だよ。過去に来たことがあったとしても、いまは改装真っ最中。記憶とはまったく違った場所になってる」
言われてみれば、すぐには出てこない。たぶんあそこかな、といった程度だ。「でもそれと売店でジュースを買うことが、どう関係するんです?」
琉夏さんはやや間を開けてから、「欲しいのは蜜柑じゃなくて、皮だったってこと」
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