琉璃色の習作

下村アンダーソン

1

 ざらついたチャイムの音にアンディ・スターマーの歌声を遮られ、私は顔をあげた。真っ新なままの原稿用紙を視界から追いやり、軽く伸びをする。

 五時の合図だ。なんの成果もないまま、一時間半近くも過ごしてしまったことになる。これはなかなかに由々しき事態だ。

「皐月、皐月」

 本の山の向こうから倉嶌琉夏さんが呼びかけてきた。その先はよく聞き取れも、また唇の動きを読み取れもしなかった。机の上に置いた音楽プレーヤーを操作すると同時に、チャイムが鳴り終わる。

 私はイヤフォンを外して、「なんです?」

「いや、ずいぶん集中してたなって。どうなの、進捗のほうは」

「芳しくないです」応じてから、思いなおしてかぶりを振った。「正直なところ、一行も」

 琉夏さんは事もなげに、「まあ、そういう日もあるって」

「昨日もそうでした。一昨日も」

「いいんだよ、最終的にどうにかなれば」

「どうにもなりそうにないんですが。締切、十一日ですよ」

 卓上カレンダーを指差す。今日はもう九月五日だ。頼みの夏休みは、宿題に追われているだけであっさりと過ぎ去ってしまった。単純に執筆にかける時間だけを考慮しても、今日明日じゅうに書きはじめないと間に合わない。

 深刻な告白のつもりだったのだが、琉夏さんは薄く笑ってみせたのみだった。彼女は手許の本に視線を落としながら、

「帰る? 私はもう少し残るつもりだけど」

「最終下校時刻まで粘りますよ。せめて書き出しくらい、どうにかしたいですから」

「それ何時?」

「七時です。七時十五分には校門が施錠になります」

「へえ」と彼女は感心したように発した。「一年以上通ってて、初めて知った」

 四月に初めてこの部室を訪れたときのことが、ふと思い出された。琉夏さんは今と同じように窓際の席に腰掛け、ゆっくりと本の頁を繰っていた。一見すると物憂げなその横顔は、「文芸部の先輩」としての説得力を大いに有していたような気がする。今となってはただ、雰囲気に騙されたというほかないのだが。

「それより、部長のほうはどうなんですか」

「ぼちぼちだよ。昨日も一昨日も、たぶん明日も明後日も」

 私は大袈裟に溜息を聞かせた。「いちおうお尋ねしますけど、いま読んでるそれ、資料ですか」

 積み上げられているのは、漫画版のシャーロック・ホームズである。表紙に「石ノ森章太郎監修」とある。文芸部の蔵書ではなかろうから、おそらくは自身で持ち込んできたものだろう。

「いや、久しぶりに読み返したくなっただけ。小学生の頃、通ってた塾の図書コーナーで読んだんだよね」

「そうですか。部長はなにを書かれる予定でしたっけ?」

「評論。岡麻又郎論」

 聞いたことのない作家だ。「じゃあせめて、その岡麻又郎とやらを読んだらどうですか」

「絵本一冊しか出してない駆け出しだから、もう隅まで読み尽くした」

「なら執筆に入ればいいじゃないですか」

「去年書いたやつがあるから、そう焦る必要はないんだよ。少し書き足して、続・岡麻又郎論として発表する」

「百歩譲って今回はそれでいいとして、次は? 続々・岡麻又郎論ですか」

 琉夏さんは殊更に驚いた顔をして、「よく分かったね。その通り」

 これで部長だというから恐れ入る。この人は万事が万事、この調子だ。まだ数か月の付き合いとはいえ、毎日のように顔を突き合わせていれば厭でもある程度、人となりが見えてしまう。

 倉嶌琉夏さんは、私より一学年上の二年生だ。かつて廃部寸前だった文芸部をたったひとりで甦らせた手腕の持ち主ではあるのだが、甦ったところでこの体たらくではどうしようもない。横たわっているばかりの屍体が、徘徊するゾンビになった程度だ。

 生ける屍状態の杠葉高校文芸部は、現在のところ部員二名。部長である琉夏さんと、私こと志島皐月のみである。名義上はあとふたりいると聞いたが、人数要件をクリアするために名前を借りているだけであって、活動の予定はないらしい。すなわち来年の四月までは、ふたりきりでやっていかなければならない公算が大きい。

 私はいい加減にペンを置き、

「オリジナルの創作を毎号必ず一作は載せるって、部長が勝手に風原先生と約束しちゃったんですよね? 間に合わなかったらどうすればいいんですか? 私、小説なんて書いたことないんですよ」

「習作でいいんだよ、習作で。初めから上手く書こうと気負っちゃ駄目。ともかく完成させることだけを意識するの」

「素敵なアドヴァイスですね。ついでに技術的な指導もお願いできませんか」

「できるわけないでしょう。私だって、小説なんか書いたことないんだから」

 ぴかぴかの、という形容がふさわしいかは措くとして、ともかく前途ある一年生である私が、こうもやる気を感じさせない人物と活動を共にしていていいのかは、大いに疑問だ。とはいえ今さら余所の部活に入りなおすのも気まずいし、とくべつ他にやりたいことがあるでもない。どうするべきかと思い悩みながらも、けっきょく律儀に部室に顔を出してしまっている――というのが、高校一年九月時点の私の現状である。

「にしても、皐月が来てくれてからもう半年近いんだね。光陰矢の如し。ずっと独りってのも気楽で悪くないけどさ、やっぱり後輩がいると嬉しいね」

 なにやら殊勝なことを言いはじめた。まさか私の内心を読み取ったのか。「どうしたんですか、急に」

「いや、ちょっと思い出して」

「なにを」

「こないだの英語の試験でさ、出たんだよ。『光陰矢の如し』を答えさせる問題が」

 そんなことだろうと思った。この人には基本的に、後輩を思いやろうとか喜ばせようとかいう意思はないのだ。私は呆れ気味に、「和訳? 英作文?」

「作文。知ってれば一発って感じの問題だよね。皐月、できる?」

「いちばんシンプルに解答するなら、Time flies. 合ってますか?」

 琉夏さんは唇を窄めてみせた。「やるじゃん。英語得意?」

「たまたま、そういうタイトルの曲を聴いたことがあっただけです。『覆水盆に返らず』だったら、Don't cry over spilt milk. 零れたミルクに泣かないで、ですね。これはジェリーフィッシュっていうバンドをきっかけに知りました。さっきも聴いてたんです」

 応じながら、イヤフォンを軽く持ち上げる。音楽由来の知識が試験に役立ったことは、これまでにも何度かあった。

「へえ。そのバンド、有名?」

「あんまり有名じゃないような。兄がロック好きなんですよ。バイト代、ほとんどCDに突っ込んでるみたいで」

「お兄さん、いくつ?」

「今年から大学生です」

 小さな頷きが返ってきた。「仲がいいんだね。私は一人っ子だから、ちょっと羨ましいよ。まだ杠葉にいるの?」

「いえ。進学を期に、宵宮市で独り暮らし」

「なるほど、残念。小説、身近な人のことを書くのもいいかなって思ったんだけど。だったらさ、私はどうかな?」

「モデルにですか? この活動を通して、劇的なことってなにかありましたっけ? 毎日ただ駄弁ってるだけのような」

「別に劇的じゃなくてもいいじゃん。些細なことでも、書き方によっては充分、小説になると思うよ」

 私は腕組みをしながら、琉夏さんを見やった。本当に毎日、本を読んだりお菓子を摘まんだり瞑想に耽ったりしているばかりで、これといった動きを見せたことはない。奇怪な言動を繰り返すタイプなら、まだ書きようもあるのだが――。

「あ」と思わず呟きが洩れた。「部長とはまったく関係ないですけど、先週の土曜、ちょっと不思議なものを見ました」

「不思議? UFOとかその類?」

「いえ、謎の行動を目撃したんです。なんであんなことをやってたのかって、少し気になって」

 琉夏さんは途端に笑顔になった。「面白そうじゃん。詳しく聞かせてよ」

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