第8話 血と肉
「頑張ってください──」
そう言ったキリの顔はやはり美しかった。
「任せてよ」
そう言って僕は駆ける。
今更気づいたことだが、いつの間にか黒々しい両足と両手は存在していて、外傷も全て無くなっている。
死神の力、か。
しかし今はそんなことを考えている暇もない。
「死んで──!」
風の刃が僕の体を裂かんと向かってくる。
その速さは今までとは全く違っている。何倍も速い。
僕の首を断つようにして向かう風を、足に力を入れて飛んで躱す。
真下を突っ切って行った風は、空気を裂いて甲高い音を立てていた。
足をしっとりと地面に着けるように着地してリミエールを見る。
「……死神だからって、あまり調子にならないで」
刹那、周囲の空間が歪んだ。
……違う。これは──
「あぶない──っ」
大質量の風だ。
風で空気が歪んで光が捻れて見えるのだ。
手に持つキリの刀で目の前の空気だけを断裂させる。
バツン。と大きな音を立てて、空間の分け目が形成され、そこから歪みは治まる。
しかし──
右脚が腿から引きちぎれ、地面に倒れる。
……いつの間にか斬られた。
けど、この《熱》にはもう
自分の体そのものが人間のそれでは無くなっていくことが解る。
ぐじゅぐじゅ。
気色の悪い音と共に、腿の断面から黒い影が溢れ、また黒い脚が形成され、元に戻る。
リミエールは嫌な感情を露わにさせる。
当然だ。引きちぎれた脚が直ぐに治ったのだから。
「……リミエール。お前の攻撃はもう効かないみたいだ。痛くないんだよ、全然」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
風。風。風。風。
目に映ったのはどれだけの刃だったか。
薄く透き通るような緑の刃が僕に迫る。
前からも、横からも、後ろからも。上からも。
それは全て僕の体の肉を抉って、抉って、抉って、撒き散らした。
けれど、そんな攻撃も僕の体は全く痛くないようで、すぐに再生を始めた。
「なんなの。なんなの!!貴方はなんで死なないの!?」
初めてその天使の顔に恐怖の面が貼り付いた。
畏怖で引きつった唇は震え、美しく綺麗な羽さえも弱々しく靡く。
「ああああ、あああぁあ゛あ、あ、あ──!!」
異常。
その異常さが天使を突き動かした。
剣を構えて高速で僕に迫る。
いつの間にか、その『高速』さえも遅いと思ってしまった。
やがてはリミエールの剣はもう僕の目前まで迫っており、それを横に避ける。
そして、手に持つ刀でその腕を──
「あ───」
断つ。
湿った音を立てて地面に白い左腕が落ちる。
カラン。と翡翠の剣もやがては落ちた。
これでリミエールの腕はもうどちらも無い。
首を断つ──。
そのために横から振るった刀を、空に飛んで躱し、空中から、苦痛の色に顔を染めながら僕を見下ろす。
──しぶとい。
正直にそう感じた。
彼女だって僕達と同じように、何度も痛苦を味わっただろう。それなのにこうして未だに戦闘を続行する。
そこには尊敬の念も、畏怖の念も感じない。
ただ恨みがあった。
キリを傷つけた。
ただそれだけが僕を動かした。
その事実さえ無ければ彼女を攻めることを辞めていただろう。
そして、
もうとっくに僕の体は人間ではない。つまり人間のように、生物を哀れむ機能を持ち合わせていない。という
リミエールは分厚い風を何重にも重ねて、地上10メートルに浮かぶ自分の前に透明の壁を作り上げる。
その壁を壊し、それと同時にリミエールを殺せる方法を僕は1つしか考えられなかった。
刀を持ち替える。順手から逆手に。
その手を刃を前にして頭の横に構える。
腕に力を集中させる。
脚の筋肉を張らせる。
地面を力強く踏みしめて、コンクリートに足をめり込ませる。
それはまたしても投擲の体勢だった。
「いっ、けぇぇぇぇ──っ!!」
腕を思いきり突き出して手を離す。
そして白刃の刀はリミエールの前に届き、空気の壁を突く。
やがてそれは壁を砕き散らし、リミエールの胸に──
刺さらなかった。
それは、読めていた。
彼女が刀を避けることは。
だから僕は、
体を縮め、筋肉の繊維ひとつひとつをバネにするようにして、飛躍した。
ダン。頭に響く音とともに僕の体は弾け飛ぶ。
すぐにリミエールの目の前まで飛びついた。
そして、拳に力を込めて──
腹部を捻り殴る。
あばら骨が砕ける音が響いた瞬間、リミエールの体は地面に超高速で叩きつけられる。
「が──あぁっ──」
そんな風景を自由落下の状態で俯瞰した。
きっともう彼女は声を上げることも、体を動かすことも出来ないだろう。
そうなるように僕がした。
そう、僕は人間ではないのだから。
それを理解した瞬間、僕は僕では無くなって、視界は闇に包まれた。
❖❖❖
地面に叩きつけられたリミエールのすぐ側に、千寿さんがコンクリートの地面を砕いて着地する。
そこから先に私が見た光景は凄惨なものだった。
千寿さんは地面に叩きつけられたリミエールの顔面を殴った。その1度の行為だけで、彼女の顔面はぐちゃぐちゃで、もう顔とは言えないものになっていた。そしてその顔を次は両の手を組ませて、地面に叩きつけた。その瞬間、爆発音ともに、リミエールの頭は破裂し、脳髄を撒き散らした。
翡翠色の美しく、艶やかな髪の毛も、周りに撒き散って、宙を舞う。
「うっ……」
吐き気がした。その惨たらしい光景は、私が前に想像していた死神よりももっと残酷で、より人間味が無かった。
しかしそれはまだ続いた。
その
肉を撒き散らし、血潮を沸かす。
ボロボロに折れた骨を握り、他所へ投げ飛ばす。
その腹の中はぐちゃぐちゃになって、内臓なんていう概念はなくて、ただただそこにあるのは肉と血だ
け。
しかしその奥には、唯一生き残っている臓物があった。
それは、心臓だった。
死神はそれを、鮮血で赤く染まった手で握り、頭の上に持ち上げて、見つめた。
そして、大きく口を割き──
ごくり。
飲み飲んだ。
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