第6話 足掻き

天使の笑み。リミエールのその顔は美しく、そして歪む。


背中の骨を削られるような寒気。

周囲の空気が凍てつくような冷気。

体が動かない錯覚に陥った。


このままじゃダメだ。そう思った。


たとえその錯覚の中でたった一つ、左腕の熱だけが頭を覚醒させる材料になった。


未だに耳に刀の鉄音が響く。


「──キリ!僕も戦う──!」


決意の表明。それを行うことで何かが決定的に変わる予感がした。


「キリ、一旦こっちに戻って欲しい!」


そうするとキリは少し驚きつつも、こちらに飛び退いてくれた。


「千寿さん!もう大丈夫なんですか!?」


「大丈夫、じゃないけど、とりあえずは我慢できる」


いつの間にか血は止まり、切断部が黒く染まっていた。きっとこれは死神の力だ。脳に刺さるような痛みもだんだん和らいできている。

しかし、皮肉なことにその痛みが僕の決断の背中を後押しした。


「キリ、僕が囮になる。後は任せた」


そう、僕が囮になるということ。

僕はキリのように刀や特別な力を使うことが出来ない。だからこそキリを守る盾にならなければいけない。


「ちょっと、千寿さん!!」


キリの声を振り切って足を進める。


歩く度に心臓が締め付けられる錯覚に襲われ、恐怖という感情がべっとりとこびりつく。


──あぁ!もうどうにでもなれ──!!


走る。足が軋んでも、恐怖という感情に飲まれそうになっても、その足だけは止めない。


「あっはは!!あなた面白いわ!」


天使の声さえ切り払って。ただただ走る。

ヤツの真下まで。

地上5m程に浮かぶ天使は、走り迫る死神を見下す。


疲れきった足を止めて天使の真下に立つ。

そして──


フッ。と、リミエールの右肩に線が刻まれる。

その線はやがて赤く染め上げられ、


右腕を落とした。


べしゃりと湿った音を立て、地面に潰れる。


「……あ、あぁぁぁ、ああぁぁ、、あああ!!」


それは咆哮か。それとも発狂か。

何が起きたの理解できない天使は翼を大きく広げ、鼓膜が機能しない程の音を響かせる。

その後ろには刀を振り下ろしたキリの姿があった。

そしてその体勢のまま、次はリミエールの心臓を目掛けて刀を振り上げる。


「──っ!!」


その刃を、リミエールは天高く飛び上がり、避ける。

高く。風を切ってなお高く。


そして、


「いたいいたいたいいたいいたいいたい!!」


狂気に歪んだその顔でそう叫ぶ。

腕から吹き出す鮮血は舞い落ちる花弁のよう。


「絶対に、許さない。許さない──!!」


その血は彼女の体にべっとりと滴って、彼女の肌の白さ故に、そのどす黒い赤が更に目立って、脳に刺さる。


ごくりと固唾を飲む。


「……とりあえずあなたは死んで」


やがては落ち着いた様子で、リミエールはキリを見下しながらそう放った。


瞬間。その時に起きたことの訳がわからなかった。いや、ただ信じれなかった。


「──!!」


キリの体中が引きちぎれるように裂けていく。いや、これも抉られていると言う方が正しい。


白い服が裂け、その下にある更に白い肌は抉られ、その肉は周囲に吹き飛ぶ。

それが何度も続いた。やがてはキリの羽は、その血で赤く染まった。


「あぁっ……!」


その苦痛に思わずキリは声をあげる。

彼女の顔が痛苦に染まることが許せなかった。でも自分には何も出来ない。それが悔しかった。


──しかしキリは挫けなかった。手には刀が握られている。


何度も痛みを体に与えられても、何度も血肉を飛ばしても、彼女は絶対にその刀を握る手の力を緩めなかった。


「はぁぁぁっ!!」


腕を捻らせるようにして、ただ敵を討つ。

その白刃はリミエールの軌道を捉え、確実に断ったと思われた。


だが、それはあまりにも無意味で、あまりにも滑稽な足掻きだった。

「……面倒よ、あなた」

風だった。鋭く圧力のあるソレは、キリの刀を防いだのだ。


「まだ、です…っ!」


キリは再びリミエールの丹田を裂くように、刀を弧を描かせるようにして振るう。


だがそれも呆気なく防がれた。

しかし、今回は風の刃ではない。リミエールの手に握られているのは、翡翠の剣だった。


僕はその剣から目を離すことが出来なかった。

今僕の目の前にあるのは完全な神秘だった。宝石のような眩い輝きを放つソレは、人間の手の届かない神造の類。美術など足元にも及ばない、圧倒的な奇跡、そして、圧倒的な魅力があった。

それはもう、至極に至り、伝説と成ったモノなのだろう。


「…………」


──。思考回路が止まっていた。


あぁ、こんなんじゃダメだ。再びそう確信した。

それはアイツに勝てないことにか。それとも自分の無力さに対してかは自分でも分からない。


「キリ──!」


「はぁっ!やァっ!」

そう彼女が力のこもった声を上げる度に鉄が弾ける音が響く。


「これが私の天器てんき。美しいでしょう──?」


右腕に翡翠の剣を持ち、キリの斬撃を薙ぐリミエールの顔はやはり歪んでいた。


キリでは勝てない。僕も、きっと彼女自身もそう思っただろう。そして──


轟音と共に白刀が僕の傍のコンクリートに突き刺さった。


「……え」


「千寿さん!!!お願いします!!!」


「は?」

リミエールはその意図が汲み取れず、間抜けな声を上げる。しかし僕にはその意味が理解出来た。


「……そういう、ことかっ──!」


すぐさま刀を抜き取り、そして握る。それは普通の順手持ちではななく、鍔を小指に付ける形をとった逆手持ちだった。

その体勢は斬るための姿勢ではない。の姿勢だった。


両足を強く地面に踏み込む。片腕が無いため、バランスが取りにくい。

しかし意地で体勢を整え、右肩に自分が持てる力全てを込める。


そして──、


思い切り投げ飛ばす。


白刃の刀は、音速とも言える速度で空気を裂いて突き進み、やがては。


天使の体を貫いた──。

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