第39話
目を覚ますといつもの見慣れた天井に人工の星々がキラキラと輝いている。
スマホの電源を入れて開くと8月12日。
8月の第二金曜日だった。
今日は河井の県大会を見に行く日だ。
僕は出掛ける準備に取りかかる。
しかし寝る前に準備しておいたリュックも勉強していた三年生の教科書の数々もそこには置いてなくて、代わりに分厚い本だけが積まれていた。
何やら違和感を覚えた。
スマホの場所。
片付けられた食器の位置。
何も置かれていないまっさらな机。
何かが違う。
いや、何もかもが違う。
僕の記憶と違っている。
その違和感を辿っていくと、僕はある事実に行き着いて唖然とした。
8月9日、火曜日。
僕はこの日河井と劇の脚本完成の祝勝会をした。
あの遠い記憶がついこの前の出来事。
でもずっとずっと遠い出来事のように感じた。
確かに火曜日のことは鮮明に思い出せるが、二年生の冬も三年生の春も夏の思い出も頭の中に残っていて、問題だらけの日々を二人で悩んで頑張ったからこそ上手く解決してきた。
今日が目標にしてきた日であり、河井の陸上の集大成のはずだった。
この頭の中にある河井と三年生の夏まで続く長くて楽しい時間を過ごした確かなはずの記憶は存在しないとでもいうのだろうか。
僕は恐らく夢を見ていた。
それもまる二日間眠り通して見た夢だ。
僕は“歴史渡り”になってから現実と夢の混同を防ぐため一度も夢を見たことがなかった。
そういう身体になっていた。
だからこの記憶が夢であるはずがなかった。
でもそれは今と辻褄が合わないのだ。
あれが夢だと気づくのにとても時間がかかった。
一体どこから夢だったのか未だに理解が追いつかない。
たった二日間で見れるはずの内容じゃなかった。
その位長い時の中でいろいろなことが起こって、とても濃い日々を過ごしていた。
夢だと気づいて、僕はしばらく他に何も考えられなかった。
幾度と見た河井の笑顔が頭から離れない。
夢だと思いたくなかった。
放心状態のままで僕は仰向けのままずっと天井の星を見ていた。
夢の中で僕はとても幸せだった。
夢は夢中で浸っていられるほどのリアリティがあった。
これからの僕の行動次第であの夢は現実に出来る。
そう思えるくらい実感のある長い夢で、目覚めたときの失望は計り知れなかった。
けれどこれからの生活の疑似体験のようで、どうすれば上手くいくのかと希望が見えて最悪な気持ちは幾分救いがある。
いつまでもじっとしてはいられない。
今日もクラスで劇の練習がある。
僕は気持ちが落ち着くのを待って学校へ向かう。
予定の時間から二時間ほど遅れていたが、走ることはできず重い足取りのまま向かう。
駅の改札をくぐっても僕を待っている女の子はいなかった。
それで良かった。
それで良かったのだ。
でも心のどこかであの幸福感を求めている。
目を閉じれば優しく話しかけてくれる声すら聞こえる気がした。
あの幸福の残滓を探せと心はうるさく訴えかけてくる。
劇は最終仕上げの段階ということもあり、河井も藤城も前以上に頑張っているように見えた。
僕は演者ではないからクラスに迷惑をかけてないと思っていたが、僕が教室に入ると劇進行が1度と止まり、遅すぎる登校の僕を皆が心配の眼を向ける。
はやる気持ちがまだ整理の付かない心に加わって、どうしようもなく、静かにいつもの観覧席に向かった。
僕は劇の様子をただ眺めていた。
今日は一度も河井と話さなかった。
話せなかった。
僕は河井を振った手前、僕からはどうにも話しかけづらい。
それに僕は今朝の夢に囚われている節もある。
何をしゃべり出すか堪ったものじゃない。
今日は河井と接しなくてよかったとも思った。
河井も僕に振られたことを気にする素振りがあった。
どうやら少し僕を避けているみたいだった。
別に僕はそれでも構わない。
ただ河井がまた上の空になって劇の進行に支障が出ないように片山には、河井に何かありそうだったら今度は片山が相談にのってやってほしい、と伝えた。
日頃から河井のことが気になっている片山のことだ。
きっと上手くやってくれるだろう。
こういうときこそ一歩引いて自分を客観的に見ろ。
記録するべき歴史を探して気持ちを逸らせ。
自然に解決してくれる時間を待て。
もうこれ以上辛いことにならぬように、と僕の経験が口うるさく介入してくる。
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