第40話

見慣れた改札をくぐると素敵な女の子が僕の目の前にいつものようにいる。


彼女は僕の名前を呼ぶ。


僕はそれに応えて彼女の元へ急ぐ。


彼女は笑って僕が隣まで来るのを待っている。


学校までの道のりは短い。

でも彼女に話したいことはたくさんあった。


彼女と数言話すと学校の校門が見えてくる。


暖かな風が身をよぎり、校門をくぐるとすぐに昇降口に着いてしまう。


彼女は“じゃあまたね。”とだけ言って、僕とは違う階段を上りその先へ消えていった。



気づけば僕は朝の満員電車に乗っていた。


目的の駅が見えてくる。

人がたくさん降りる。

人に揉みくちゃにされるのが嫌で、人の激流が終わり、皆が降りるまで電車の中で待つ。


別に今日くらいここで降りなくでもいいんじゃないかとふと思ったが、僕を待ってくれる人のために今日も前に脚を踏み出す。


沢山の人が既に通り過ぎ、消えていった改札の先には今日もいつもの彼女がいる。


今日の彼女は私服だった。

垢抜けたような雰囲気を感じた。

恐らく彼女自体が少し大人っぽくなって綺麗になっていた。


“今日大学でプレゼンがあるから少し緊張するな”


そう言って彼女は恥ずかしそうに笑う。


そうだった。


僕たちは今、大学生になっていた。

背負う鞄が軽く感じるのはそのせいだろう。

大学生になって授業数が減り、自然と持ち物が少なくて肩が軽い。


河井ならきっと大丈夫だよ。


そう言うと彼女は少し緊張が取れたようで、肩のこわばりが取れたのを見せつけるかのように僕の肩を嬉しそうに小突く。

その仕草ですら可愛くて高校生だった頃の名残が感じられる。


“一時限目は違う授業を取ってたね。じゃあまた後でね。”


そう言って彼女は学部棟に入っていく。

彼女が見えなくなるまでその凛とした後ろ姿をずっと見続けていた。



いつものように僕と彼女は同じ電車に乗っていた。


昇りたての朝日が車内を眩しいくらいに照らす。

早朝のはずなのにその車両に乗っているのは僕と彼女の二人だけだった。


白シャツに淡いピンクのスカンツ。

その装いにはしわ一つ見当たらず、清楚な雰囲気だ。

新卒OLとして会社に勤めている彼女はその大人っぽさの中にも、あの頃の無邪気で真っ直ぐで、活動的な子供っぽさは健在で、子供っぽく顔をほころばせる笑顔はその象徴だ。


両手で黒の鞄をぎゅっと握って嬉しそうに僕に何かを話しかけるが、不思議なことに僕には彼女から何の言葉も音も聞こえてこなかった。


彼女は降りるべき駅が着たのか僕に向かって何かを言い、軽くハグをするが、なんて言ったのか分からなかった。

そして嬉しそうな顔のまま元気に手を振って車両から降りていく。


僕は何か言うべきかと思ったが結局何の声も出ない。

ただ手を振るだけだった。


扉が閉まり電車は静かに進む。

絵の具一滴を綺麗な水面に垂らしたように、視界から彼女の姿が消え、駅名標が景色に溶けて見えなくなっていく。


僕はどこで降りればいいのだろうか。

降りる駅はおろか、今僕がどこにいるかすら分からなかった。


車両に一人っきり。

目的も知らず、ただ連れ去られるようにいけるところまでいけたらいいのになと思った。

ひたすら景色が目の前を通り過ぎていく。

僕はただずっと電車に乗っていた。

海が見えてくる。

波面がキラキラと反射して思わず目を閉じる。



今、僕はカフェにいた。

高校の頃に二人で行っていたような、人の会話が飛び交う賑やかなところとは真逆で、物静かな、ゆったりとジャズが聞こえてくるような心地よい雰囲気のカフェだった。


とても馴染み深いように感じた。


どうやら僕たちはここの常連客みたいだ。

僕の向かいには彼女が座っている。

僕に向かって何かを楽しそうに喋っている。


その左手の薬指には銀色に輝く指輪が見える。

不意に僕は自分の左手を見る。


そこには何も付いていなかった。


なんとなく右手を見てみると、僕の右手には彼女のしている指輪と同じような色をした指輪が薬指にはめられていた。

僕はその意味がよく思い出せない。


今回も彼女の声は聞こえない。

僕は上手く状況が飲み込めなくて、彼女の話を聞いているふりをしながら、僕は目の前に置かれたチョコレートケーキを食べていた。


それは重いくらいに凄く甘かったが、気づけば僕の口の中で溶けていつの間にか消えてしまっている。


二人の前の机の上に大きな紙が置かれている。


子供が欲しい。

花火を見たい。

海外旅行に行きたい。

夏のオリオン座を見たい。


彼女の可愛らしい字で大きく書いてある。

どうやら僕と彼女がこれからやりたいことを二人で出し合った後のようだった。


彼女は今も楽しそうにずっと僕に話しかけている。

そして一息つくと、一緒に長生きしたい、と一番大きく神に書き加えて満面の笑みを向けた。


次の瞬間また場面が変わり、誰の家だか分からない家に僕はいた。


さらに年齢を重ねて少しグラマラスになった彼女が僕の前で腕に顔を埋めて泣いている。

なんで泣いているのかその理由が分からない。


その家には子供が書いた落書きのような絵が飾ってある。

おもちゃだって置いてあった。


僕は彼女の肩に軽く手を載せて泣き止むのを待とうとした。


しかしその声は聞こえない。


僕がその肩に手を触れようとした瞬間、彼女は顔を上げた。


僕を見つけてその泣き顔をやめる。


その代わりに怒ったように僕を睨みつけた。


その瞳には哀しみの色が見える。

少し伸びた黒髪は協調を失ったかのように乱れていた。


僕に怒鳴りつけるように何かを叫んでいるが、その言葉は僕に届かない。

その可愛い顔に怒りの感情があることだけが見てとれる。


僕は不意に見えてしまった。

彼女は三十後半のような気がした。


それに比べて僕の外見は高校生のままだった。

壁にかかっている大きな鏡の中の僕を見て、僕は今この場で何が起こっているのか知った。


僕の秘密が今になってばれたのだろう。


広くて真新しい居間には僕と彼女の二人しかいない。


彼女の疲れたような表情。時折見せる哀しそうな怒りとも諦めとも見える視線。


僕はどうすることも出来ず、彼女の情感のこもった言葉が僕を透過しないように。

ちゃんと僕に届いてくれるように。


ただ彼女と向かい合って、彼女が発する言葉を受け止めようと細心を払って、願っていることしか出来なかった。



次は少し長めの暗転があった。

僕の意識だけはちゃんとあるのに辺りは暗くて何も見えない。

そんな時間だった。


そして気づいたときには僕は辺り一面が黄色に染まる鼓草の咲き乱れる草原にいた。

目の前には彼女がいて、座ってじっと鼓草の一つを見つめている。


彼女の髪は今や白髪に黒髪が混じっている状態で、表情はひどく穏やかだった。

しかしその瞳の奥には深い傷跡のように残り、彼女の今を痛み、疼き苦しめる哀しみがあった。


原因は僕にあるだろう。

僕が普通じゃなかったから。


彼女は僕の手を取って僕の顔を引き寄せる。

僕はかがみ込むような姿勢になった。

そして彼女は僕の耳に口を近づける。


“しゃちが私を騙していなければ、今こんな風にはなっていなかったのに。”


長い間、その声を聞いていなかった。


だから忘れているのかと思った。

でもそうじゃなかった。

すぐ分かった。

久しぶりに聞いた彼女の声は透き通っていてとても綺麗だった。


“私がしゃちにここまで惹かれていなかったら、今の私はこんな私にはなっていなかったのかな。”


その声には怒りすら感じられる。

しかしそんな声ですら聞こえた僕の心は、躍っているのを感じた。


彼女を突き放して、僕は二歩下がって顔を背ける。


気分が悪くなった。

彼女の表情は暗く、その発言は諦め以外の何物でもない。


僕はただ彼女の笑った顔が見たかった。

嬉しそうな笑い声が聞きたかった。


今の彼女は長い間笑っていないように見えた。

笑い方を忘れてしまったみたいだった。


もう一度彼女の笑った顔が見たい。

優しくて暖かくて僕の心をいとも簡単に鷲づかみにするあの心地よい笑顔でもう一度、僕を見つめてほしかった。


恐らく彼女はもう永くはないのだろう。

端から見たら僕たちはおばあちゃんと孫のように見えるだろう。

彼女に心細い思いをさせてしまった僕の責任だ。


再び場面が変わり今度は高校二年生だった頃の彼女が現れる。


今度の彼女はひどく純粋に見える。

 

今度は先程みたいなどうしようもない手遅れの前になんとかしなければならなかった。


僕が抱え込んでいる全てを今ここで話そうと思った。

そこから再び関係を始めればいい。

“歴史渡り”のことも。

年を取らない身体でいることも。

二日間眠ったままであることも。


彼女は僕の話を聞いて次第に顔が真っ青になっていく。

汗が滲み、脚が震えている。


僕の話を最後まで聞き終えると彼女は、“化け物だね”とそう言った。


“私の弱みにつけ込んで何がしたかったの? 私に関わってそんなに私の人生をダメにしたかった? 何で今まで普通の人のふりをしていたの? 私を騙していたんだ。最低だね。私、しゃちのことをもう普通の人だと思えなくなっちゃったから、もう金輪際私に喋りかけないで”


僕が予想できた展開だった。

でも少しだけ。

ほんの少しだけ心が痛くて悲しかった。


そう言って彼女は未練なく僕を背に走り出し、僕の視界からすぐに見えなくなる。


それから数秒経って何かがぶつかり合うような激しい音がした。


地震でも起こったかのような衝突音に悪寒が走る。

ちょうど彼女が見えなくなった方向だった。


僕は急いで音のした方向へ駆けていくと一台のワゴン車がフロント部分を大きくへこませた状態で横転している。

その先で一人の女性が血を流した状態で倒れているのが目に入った。


彼女はぴくりとも動かない。

僕はその瞬間怖くなった。

自分の身体に力が入らなくて、どこも思うように動かせない。

僕は必死になって瞼を下ろした。


世の中は見たくないものでいっぱいだ。

もう何も見たくない。

何も聞きたくないし、何も感じたくなかった。



僕は目を開けるとなじみ深い神社、僕の“歴史渡り”になった元凶の場所にいた。

鬱蒼な木々は、今はやけに静かだった。


誰かに見つめられているような気がした。

目の前に精気が抜けて虚ろな雰囲気を醸す、いかにもやる気のなさそうな男が立っている。


その男こそが、僕が憎むべき相手だった。

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