第34話

終点の河和駅で降りると、そこでバスに乗り継いだ。


バスは30分ほど海が見える海岸線をひたすら進んでいく。

河井さんの目的地は羽豆岬という所だった。


愛知県はその形からよくカニに例えられる。

羽豆岬は名古屋に近い側にあるハサミを表す半島の先っぽにある。

電車が通っていなくて、人が住むにはギリギリの場所。

そこは時間の流れがいつも住んでいる場所より緩やかで、生き急ぐ様子はない。

とても和やかな感じがしていた。


陸地の南端まで向かおうと二人で車の通れる大きな道から外れ、遊歩道に入る。

赤い鳥居を越えると青に輝く海が見えた。

海のすぐ側には木々の生い茂る森みたいな場所とその奥へと通じる長い階段があった。

高校生として身体を動かすようになった僕はこの程度の階段で息切れすることもなくなったし、河井に気を遣われることもなくすいすいと登れるだろう。


僕が気合いを入れて上り始めると河井さんは、ゆっくり行こうよと言って笑った。

少し意外だったが、気づけば河井さんは僕の返事を待たずして先に上り始めている。

結局どっちなんだよと思いながら僕は彼女の隣まで急ぎ、二人並んでゆっくり登る。


木々は青々としていてまだ紅葉の気配すらない。

木陰に入ると急に涼しくなり、時折波の音が聞こえる。

しかし僕たちの火照った体温はなかなか下がる気がしないようだった。


階段を突き当たりまで上ると、右と左の分かれ道にさしかかる。旧展望台と神社が左に、木製の新展望台が右にあるようだった。

まずは古い方からに決める。


旧展望台はコンクリート製でがっちりとした安心感のある三階建ての建物だった。

その屋上は一歩でも足を踏み入れると急に周囲に見えるのは海だけとなり、こちらへと押し寄せる波の生命力のようなものを間近でひしひしと感じる。


海上には篠島と日間賀島の二つの島が見えた。

夕焼けを間近に迫った太陽に照らされて島の周囲の海はオレンジ色に輝き、二つの島とその上に空高くそびえる雲が逆光で薄黒く光り輝いている。

その二色が見事なくらい相まってどこか神々しい。

雲の隙間を縫って光の道が見て取れた。


そんな光景から逃れるかのように、半ば死守するかのように生き残る碧が二島のさらに周りに大きく広がっている。

それは深くもあり、淡くもあり、緑くもある。

真っ青でもあり、透明でもあり、見る時々によって色は混ざり合う。

表現をするのは困難に思えた。


壮大で息をのむ景色にしばし見とれた後、僕たちは少し引き返して羽豆神社に向かう。

そこではお参りをして、絵馬を書いた。

僕は学祭の劇の成功を書いたのだが、河井さんの絵馬は、私の願い事が叶いますように、と可愛らしい字で書いてある。


「これってお願いごと書くやつでしょ? どういうこと?」 


僕が笑いながら問いかけると


「だってここにお願いごと書いた後に私のお願い変わるかもしれないんだよ。それにお願い事の内容を文字にしてここに残しておきたくない。お願いって言うのは私の中にあるんだから。こんな所に置いておいて朽ち果てたりなんかしたら大変だよ」


お願い事の内容をコロコロ変えて神様許してくれるかなあ。

まあ神様はやおよろずって言うからと自分の中で勝手に解釈した。


「ちゃんと私たちが書いたものを神様見てくれるかな。どこに飾ったらいいんだろ」


「でも神様がこの絵馬見ても、河井の願い事何か分かんないじゃん」


「しゃちめっちゃそこ突っ込むね。もしかして私のお願いがそんなに気になってるの?」


河井さんは僕の絵馬も一緒にひょいと取り上げると一番高い棚の真ん中に並べて飾った。


どうやらそこが神様の一番見つけやすいところらしい。

周りの年季の入ったものに比べると僕たちの真新しい絵馬は少し目立って見えたが、それも時間の問題かもしれない。


僕たちは再び階段の分かれ道の所まで戻ると、今度はまだ通っていない右手へと向かう。

新展望台への道は木の根っこやら長い木の枝やらで着くまでに少し苦戦するかと思ったが、僕たちの軽い身のこなしの前では何の障害にもならなかった。


新展望台は作られた年がまだ浅く、木製と言うこともあって階段から温かな雰囲気を感じられた。

実際太陽の熱を吸収していて生暖かかった。

木の生命力を感じさせる新鮮な匂いがした。


屋上にはちょうど人が二人座れるようなベンチが一つある。

今日の羽豆岬は僕たちの貸し切りのようでさざ波と海鳥と僕たちの話し声だけが溶け合うようにこの空間に満たされている。

ここまで登り歩いてきた疲れを癒すかのように僕たちはベンチに並んで腰掛けた。


時間はいつしか夕暮れ時になっており、海面にはもう一つの火球が見える。

その火球は水のさざめきによってゆらゆらと揺れている。

僕たちが無言の間、オレンジ色に染まった美しい静寂の世界は時を止めたかのようで、半永久的に続くとさえふと思えてしまう。


360度のパノラマは港の街並みが手に届くような実感があり、半島の先、さらには周囲を囲むように広がる海はどこまでも続いているようだった。

見回せばそれらは継ぎ目もなく一繋ぎで一枚の作品になる。

壮大な景色だった。


そんな景色を見ている河井さんの横顔はどこか夢見がちな、でもってすごく幸せそうな顔をしていた。


「ねえしゃち。私、今から言いたいことをただ言いたいだけ言ってもいい?」


その言葉が発せられた瞬間世界は再びゆっくり動き出したような感じがした。

そのオレンジ色はより一層深まり、太陽は藍色の海へと顔を沈め始める。

彼女は僕を真っ直ぐ見つめている。


僕は頷いた。


今更どんな胸の内を吐露されたところで僕は彼女の味方になるし、どんな問題だって一緒に解決していける気がしていた。

脚本が完成した祝いで今日こうしているわけだが、心配事は全て消えたわけではない。


劇のこと。学校祭のこと。人間関係のぎこちなさ。陸上部への復帰。

次から次へと心配事は現れるし、その度に河井さんは本当に吐露したいことを自分の内側にたくさん抱え込み、自分に原因を求める節がある。

僕が心配しているのはそんな河井さんのことだった。


「私ね、今欲しいものがあるんだ。今こんなことを言うべきじゃないかもしれないんだけど。でもやっぱりほしい。本当はこのままでも十分なのかもしれない。でも私思っちゃったんだ。そして私は気づいちゃった。このまま胸の内のとどめておくのは無理みたいだし、私は欲しいものが全部ほしい」 


河井さんはゆっくりと言葉を選んで話し始める。


「そのために僕の協力が必要ってこと?」


「あー、もう全然違う。しゃちが今まで私に何をしてきたのか分かって言ってるの? しゃち、そういう所あるからね。ほんとタチ悪いというか憎いというか、そこがしゃちらしいというか」


「なんで僕、急にディスられたの? 僕、そこまで河井に何かしたのかな」


僕が考え込むような仕草をすると、河井さんに軽く肩を小突かれた。

その握られた拳はいつしか力なく僕の肩にもたれかかるようにして触れている。


「私ね、多分しゃちのことが好きみたい。しゃちと一緒に脚本作れたこと。しゃちが私の個人的な問題に踏み込んできてくれたこと。今こうやって二人でこんなにも綺麗な景色を見ていること。私、全部嬉しいんだ。春の頃にはこんな私、全然想像できてなかった。あの頃は心のどこかでこのままでもいいやって思っていたんだと思う。だけどこんな嬉しいこと、しゃちと話しているとなんか居心地がいいなって感じることを知ってしまったら、私ね。これからも全部ほしい。今まではこんなに感情的な自分がいるなんて知らなかったけど、これが今の私なんだなって。私の欲しいものはこれなんだな、って思った。もちろん走ることも私にとってはかけがえのないくらい居心地がいい。だけどしゃちと一緒にいるときの居心地の良さは走るときとは違う。全く別物なんだなって。……なんか話してたら私、しゃちのこと多分以上に好きかも」 


そう言って河井さんは優しく微笑んだ。


その表情。

その感情。

夕暮れ時に見せる海辺の優しげな景色。


僕は以前似たようなものを見た覚えがある。

そしてこれから何が待ち受けているのか、ということも。

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