第33話
以前に白一色のアナログ時計が一度反抗してからというもの、僕はスマホでも時間を確認するようにしていた。
河井さんからラインが来ており、“今日の九時に学校の最寄り駅に集合”とあった。
寝る前にスマホを充電させておくのを忘れていたので、すでに瀕死状態。
急いで充電させる。
時間には結構な余裕があったので、いつも通りの朝ご飯を済ませ、今日着る服をゆっくり選んだ。
それでもまだ時間があるので軽く部屋の掃除をする。
一切手を付けていない夏休み課題を見つけてしまった。
集合の十分前に着くとすでに河井さんがいた。
もっと早く家を出るべきだったか、と後悔した。
じゃあ、行こっか。と目的地を知らされないまま河井さんの言うとおりに電車に乗った。
全ての路線の起点となっている名古屋駅で乗り換える。
夏休みの平日とは言え、三大都市圏の一つに数えられる名古屋は人でごった返していて、人の波にのまれるようにして駅を出る。
昨日のブルーな気持ちを払おうとしてくれる太陽が眩しかった。
「名古屋来るとほんとに人増えるよね」
はぐれないよう河井さんは僕の肩に手を置きながら言う。
「まあ人が集まるところなんて限りあるしな。僕たちは今どこに向かってるの?」
「焼き肉にしようか迷ったけど、でも折角名古屋来たからにはもっと美味しい物食べたいなって」
夏の灼熱は今日も健在で僕たちはすぐさま名古屋の広い地下街道に逃げ込む。
道の両サイドに食べ物や衣服やアクセなど様々な店が限りなく現れ、少し覗いていきたい気持ちを抑えて僕たちは歩いた。
何度も分かれ道があり、頭の中で今どの辺りかを考えながら歩いていても、名古屋に無知な僕たちは名古屋の入り組んだ街並みのどこにいるのかすぐに分からなくなる。
そろそろかと思って地上に出るが、今どこにいるのかしばらく探すことになる。
なんだかいつかの進路指導の教室を二人で探した時みたいだね、と河井さんが言って笑う。
僕は同意して頷く。
あの時とはシチュエーションも僕たちの間柄のまるで違う。
でもわくわく感というやつはあのときと一緒で、それは二人で一緒に見知らぬ場所で協力しながら目的地を目指しているから湧き出してくる懐かしい感情だと思った。
どの通りも似たような風景で背の高い建物に押し込まれるように設置されている店の看板が強引に道行く人々の目を引こうと少しうっとうしいくらい存在感を示している。
結局あのときと同じで、先に現在地を見つけたのは河井さんだった。
多分こっちの方じゃないかなと河井さん流の道のチョイスで見つかったお目当ての店はひつまぶしだった。
ひつまぶしとあって、店に入る前から鰻の香ばしい匂いが道にあふれ出ていてとても食欲をそそられる。
中に入ってみると、いらっしゃいと元気のいい掛け声で迎えられた。
鰻とあって値段はどれも3000円は越えるメニューばかりだった。
「今日は私もちゃんとお金持ってきたから」
「そう? 僕が払えなくもないけど」
「いいの。自分のお金で食べる方が美味しさをより実感できそうだし、何なら今回は私が全部払うし」
河井さんは前から楽しみにしていたようで、美味しさを追求する河井さんを邪魔することはできない。
「じゃあ僕も自分のお金でおいしく食べる方がいい」
年下と割り勘は絶対どう考えても無理と言った朝倉の気持ちが分かったような気がしたが、今までのように奢りっぱなしというのもなんだか違う気はした。
河井さんの言うように美味しさだって変わってしまう。
僕たちが頼んだひつまぶしは店内の炭火で焼いてすぐ持ってきてくれたようで、柔らかそうな身が溢れるかとばかりに器に載せられている。
艶やかな身は目を奪い、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
「遅くなったけど、脚本完成おめでとーー」
河井さんの元気な掛け声で祝勝会が始まる。
「河井ほんとにお疲れ様。それで、えっ、これってどうやって食べるの?」
テーブルの端に置かれたメモ書きによるとひつまぶしは小皿に分けて、そのまま、薬味、だし汁と順に味を変えて楽しむらしい。
初めの一口はやや恐る恐る口に運んで噛み締めると、鰻の旨みという旨みが口いっぱいに広がってとても幸せに気分になった。
それは河井も同じようで、とても美味しそうに食べている。
そんな姿を見ていると僕は二度おいしさを味わったような気分で、河井が美味しそうに食べる姿をしばしば釘付けになって見ていた。
どうしたの? と純粋な疑問を持つ河井さんに返答ができなくて、僕は慌てて手を動かして鰻を口に運ぶ。
今度は僕がじっと見られた気がするが何も言えなかった。
河井がめっちゃ美味しいと言うので僕も心の奥底から同感で、本当にそうだね、と口に出して応える。
人は本当に満足すると言葉も出なくなる。
僕たちは食べ終わった後余韻を楽しむかのように席で幸せに浸っていた。
昼ご飯を少し早めに済ましたので、河井さんの予定的には少し時間があいてしまったらしい。
岩屋さんの大会に行けなかったこともあって、河井さんは時間に余裕を持って計画していたらしく、店を見つけるまでにもっと時間がかかると思っていたらしい。
一体僕たちはこれ以上どれだけ店を探し回っている予定だったんだと思って、僕は自然と笑みがこぼれてしまう。
幸い名古屋なんてウィンドウショッピングする場所はたくさんあるので、ゲートタワーモールや高島屋の物産展を二人で見て回った。
頃合いになると名古屋駅に戻り、今度は人の波に飲まれないようにしてお目当ての路線を目指す。
改札をくぐった後もホームがいくつかあって、二人して少し構内をさまよい歩いた。
午後からも灼熱の陽気だったが、車内は冷房が効いて快適だった。
また河井さんに目的地を知らされないまま初めての路線に乗った。
都会から田園風景、そして程なくして景色は海へと変わり始める。
電車の心地よい揺れのリズムに身を任せているといつのまにか瞼が落ちてしまいそうだ。
ことんと肩に軽い衝撃があって、気づけば河井さんは居眠りをしている。
広くゆったりと座っている二人がけの座席の中で僕の肩へとその頭を預けていた。
その黒髪はとても艶やかでシャンプーのいい香りがする。
視覚と嗅覚がともに僕の意識を刺激し、ついその寝顔に見とれてしまいそうになるのを、段々と海岸の景観へと変わりゆく景色へ意識を無理矢理移してどうにかこらえる。
岸辺に寄せては消えていく波は群青色で、その表面は決してなだらかではなく、凹凸の激しく点在するその陰影はその時々で形を変え、リアリティを持って人が立ち入れない海の世界を作っているようだった。
僕は目的地を知らされていないので、どのくらい電車に乗っていれば良いのか分からない。
途中、河井さんを起こそうかとも思ったが、景色が海に固定されてからは見える景色に大きな変化もなく、通り過ぎる駅は無人駅が続く。
このような場所に何か河井の目的があるとも思えなかった。
寝顔はとても気持ちが良さそうで、僕の肩にある軽い感触もどこか愛おしく感じる。
一人。
また一人と降りていき、気づけばこの車両には僕たちを含めて数人しか乗っていなくなる。
陽は昼間に比べると随分落ちてきているが、時節は夏ということもあり、日暮れにはまだまだほど遠い。
終点まであと二駅というところで河井さんは目を覚ます。
僕の肩に頭を預けていたという事実に気づいて少し気恥ずかしそうに、ごめん、と呟いた。
“このまま一緒に最後まで行こうね。”
彼女の言葉は終点の話をしていたが、人生の最後がほど遠い僕の心の普段届かないような深いところまで響いた気がした。
『一緒に最後まで』
僕はその言葉に馴染みが薄い。
最後まで取り残されるのはいつも僕だけで、いつかはその時が来るとしても、今は。
今だけは一緒にいられる。
だから僕は、この時間を大切にしなければならないのだろう。
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