第32話

啓介は何度か煙草を深く吸ってその灰色の煙を美味しそうに味わう。


しばらくすると満足したように胸ポケットから小さなタンブラーを取り出して煙草の火を消す。

僕は正直に“歴史渡り”のことを訊ねようか迷ったが、啓介の質問の真意が分からずただ黙っていた。


「きっと、今日虎がここを訪れたことにも意味がある。なあ、虎。タイムスリップをした者が最後どうなるか知ってるか?」 


僕は啓介の目がオカルトや都市伝説を聞かせてくれた昔みたいに無邪気な笑みを浮かべながら、早く話したいとうずうずしているのが見えた。


「いや、知らないな」 


僕がそう答えるのを待っていたとばかりに目をキラキラさせて笑う。


「結局最後は自分の時代に戻るんだよ。そうじゃないと虎の時間が狂っちまうだろ。虎いなくなって元いた世界の秩序が崩れる。虎はもしかしたら今日俺と会ったことだってすぐに忘れてしまうのかもしれない。そのくらい今起きていることは特殊なことかもしれないからな」 


啓介は楽しそうで語り、俺の理論は間違っていないだろと得意げだった。あの頃と変わらない、キラキラ輝かせた顔していた。


「一つだけ俺から虎にお願いがある。別に願ったからと言って今の俺が変わるわけでもないけどな」 


「……分かった。聞いてあげるよ」

 

僕は今の啓介の状況の飲み込みの速さと異常なまでに明るい様子が少し怖くなる。


「虎が戻ったらその時代の俺に会ってほしい。それで早紀に今すぐにでも想いを伝えろって伝えてほしい。それに将来の虎に後れを取らないように英語も勉強しろ。留学にだって行けってな。何もしなくたって心残りはできる。やらない後悔よりやって後悔したい。だから今すぐにでも思っていることを行動しろって。それに、……絶対に夢は捨てるな、って叱咤してほしい。虎の方の俺には今の俺みたいになってほしくないから」


「……分かったよ」


それを聞いて啓介はほっとしたように相好を崩す。

疲れたような笑みを浮かべていた。


「けど。僕が今、目の前にしている啓介はこれからどうするつもりなんだ?」


「さあな。どうもしないさ。俺はどうしようもなく落ちぶれちゃったからな」


「…………。それなら僕は、僕の方の啓介には何も言わない」

 

啓介の顔に苦痛の色が浮かび、すうっと血の気が引いて青みさえも帯びていくのが見ていてわかる。


裏切られるとは思っていなかったのだろう。

僕の言葉にショックを受けたのが見てとれる。


勢いよく立ち上がると震えながら僕を睨みつけるように見下す。


「虎。お前がどういう俺の将来を望んでるのか。その意味を分かって言ってるのか?」

 

啓介は先ほどの余裕をすでに失い、怒りに震えて顔を真っ赤にしながら僕の胸倉を掴みかかってきた。

力んだ手は僕をひどく乱暴に扱い、その手の震えは僕にまで伝わってくる。


「ああ、分かってる。……………………だけどそうじゃない。僕は目の前にいる啓介にだって幸せになってもらいたい。もっと幸せになる努力をしてほしい。幸せになりたいと願ってほしい。それこそ今の啓介だってさらに未来の啓介から見ればタイムトラベラーなんだから…………うっっ」


啓介は僕の胸倉を掴んだまま拝殿の壁に押し付け、口を黙らせるために首元を軽く締めてきた。


僕は息が詰まってしばらく咽び返っていると、自然と涙が目に溜まって視界がぼやける。


「虎に俺の何が分かるんだよ。俺を置いて海外で楽しそうな人生送って、今更俺に説教か? 俺が幸せになる努力をしていないとでも言いたいか? 必死に勉強して大学に入った。大学でもよそ見することなく勉強してきたのに企業は平気で俺を落とす。やっと入れた有名企業は利益が絶対だった。俺だって幸せになろうとしてきた。転職だってしようとした。でもうまくいかなかった。今は間違いなく幸せじゃない。だからってこれからどうすればいいのか俺には分からないんだよ。これからどう頑張ったって俺の人生は後悔の中で終わる。もう疲れたんだよ。俺は虎とは違う。何が未来のタイムトラベラーだ。そんな言葉遊び、すごくむかつくんだよ」


肩を上下に揺らし、憤りで震えて張り上げた怒声は今まで秘めてきた激情を真っすぐ吐露する。


僕を掴む手に力がこもり、僕は突き飛ばされた。

僕は後ろ壁に強く背中を打って、激痛で体をゆがめる。


声にならない声が口から漏れて、視界が霞む。

痛みが治るのを待つように身体を縮こめるが一向に痛みは消えてくれない。


痛みを必死に耐えながら地面に手をつけてゆっくり立ち上がる。

僕はその間もずっと啓介を鋭くにらみ続ける。


それでも啓介はひるまない。


「虎、悪いな。でももう俺は誰も信じられないんだ。お前も俺をいいように使って、用が済んだらお構いなしに消える。俺の願いを断ったお前は、お前の世界にいる俺に対しても将来裏切るんだろ。一人で勝手に縁を切って、遠くに行って一人だけ楽しい人生を送る。そうゆうのがもう許せないんだよ」 


啓介は辛そうに憎しみに満ちた目で僕を見つめる。

実際に痛くて辛いのは僕の方だ。

僕を暴力で傷ついておいて、一人で勝手になに被害者面してるんだ、と霞んだ視界で焦点が定まらないままに睨みつける。


「お言葉だけど、啓介。僕も別にタイムトラベラーじゃないし、高校二年生じゃない。お前と同じこの世界の人だし、立派な大人だ。嘘をついて悪かったな」


僕の開き直った態度に啓介は困惑の表情を浮かべる。


「虎。お前その外見で何言ってんだよ。タイムスリップしてきた以外ありえねえだろ」

 

啓介はさらに感情を荒ぶらせ、僕にふざけるな、と怒声を浴びせてくる。


「いつまで僕の嘘を信じてるんだよ。僕は“歴史渡り”という日本の歴史を伝える者になった。昔、啓介が都市伝説として教えてくれたやつだよ。僕は老いなくなった。僕は海外で働いてはいない。あれも嘘だ。僕は啓介たちを驚かせたくなかった」


そんなわけないだろ、と啓介の表情は訴えかけるものの、絶句したまま口から何の言葉も出てこない。


怒りが発散する逃げ場を失い、その顔は怒りと困惑と失意の色が入り交ざっていた。


「じゃあ、虎の世界の俺なんていない、ということなのか。いつから俺に嘘をついていたんだ。そんな珍しい者になったのなら、真っ先に俺に伝えてくれてもよかったじゃねえか。俺がオカルト好きなこと、お前が一番よく知ってんだろ。なあ、なにふざけたこと言ってんだよ。都市伝説だなんててきとーな嘘でオレをだませると思っているのか? そんな昔と変わらない見た目をして、もう大人になったんだだと。虎は何にも変わってないじゃねえか。だからお前は高校生のままのはずだ。……だからちゃんと俺のお願いを聞いてくれよ」


 いつしか啓介からの視線は怯えるようなものに変わり、声は覇気をなくし、荒げたはずの声に嗚咽が混ざる。


僕が何を言っても、もう信じてくれないようだった。


僕の見込みは外れたらしい。

啓介とアクツには何の繋がりもなかった。

もう僕は啓介の記憶から消えた方がいい気がした。


「今日起きたことは、全部啓介の頭の中で起きた夢だ。深く考えるな。全部忘れてくれ」

 

あれほど仲が良かったのに。幼馴染三人でよく集まって色んなところに出かけて、たくさん笑いあって楽しかったのに。

そう思うと自然と涙が出てくる。


僕はどう頑張ってもその涙を止められないと思い、流れるままにしておいた。

困惑する啓介を置いて、僕は走り出す。

逃げ出した。


嗚咽が漏れる。

今まで積み上げてきた絆が。

壊さないように大切にしてきた関係がこうも簡単に崩れてしまう。


僕は久しぶりに悲しくてやるせない感情を知った。

まだ痛む背中や首元以上に、心が悲鳴を上げている。

もう啓介にも早紀にも会うことはないだろう。


僕もできることなら今日あったことを忘れたかった。

僕は苦しい思いの中、啓介から僕の記憶を消すよう、ヤマモトに電話を掛けた。

もう僕は昔の知りあいと会うべきではないし、誰にも“歴史渡り”である事実を伝えてはいけないと改めて悟った。



まっすぐ家に着くと夜になるまで何時間も放心状態のままだった。

昼ご飯を食べていないのにお腹はすいていない。

スマホに通知が来る。

見ると河井さんからラインが来ていた。


『今日ね、陸上の県大会、見に行ってきた。みんな早かったし私も走りたくなった。明日こそは岩屋さんと話をしようと思ってる』


僕は気持ちを落ち着けて、今まで通りを意識する。


『去年と同じ会場だったの? 岩屋さん優しいと思うから気楽に頑張ってね。それと大会見に行くなら僕も誘ってくれたら良かったのに』


すぐに既読がついて今度は写真と返信が来る。

どうやら客席からトラックを撮った写真のようだった。

快晴の青空がトラックの赤さを際立たせていた。


今日はこんなに快晴だったのかと驚く。


『ごめん。だけど一人で行けそうな気がしたから。客席から見える景色は去年見た景色とは違ってた。あんな格好良く見えてたんだね。なんかもう一回あのトラックで走りたくなった。そのぐらい熱かった』 


『河井ならそれもすぐにできそう。いつでも応援してる』


『ありがと。今度の火曜日は空いてる? 約束の祝勝会、私が計画立てておくから』


『火曜日が空いてるとよくご存じで(笑) 分かったよ』


ピロっと軽快な音が聞こえてスマホが軽く振動する。

河井さんから『まかせとけ』と添えられた可愛らしい猫のスタンプが送られてきた。


僕は手持ちの少ないスタンプから何を送ろうか少し真剣に悩んでいる自分に気づいて、笑みがこぼれる。


でもそれじゃだめなんだ。

僕はスマホを裏に向けて机の上に置いた。

まだ僕のブルーな気持ちは解消されそうにない。

お腹が空いていないので夕飯を作るのを辞め、それから風呂に入ってすぐに眠りにつく。


それまで一度もスマホを見ることはなかった。

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