第35話 過去-1-
僕はこの日、僕の家に現れたやけに律儀な黒髪清潔スーツによると“歴史渡り”というモノに僕はなったらしい。何の契約書も口約束もなく気づいたらなってしまっていた。
もしかしたらこの不可解な出来事は全て僕の夢の中の出来事かもしれない。
夢だとしたら非現実的なことが起こっていても何の不思議はない。
むしろ夢だとしたら論理的に考えてはいけないだろう。
そんな風に思って特段気にすることなく、いつもの今日を過ごした。
次に目覚めてみると昨日から二日経っていた。
いやこの表現だと時空が歪んでしまうな。
だけどこんな風に僕の身体の感覚と実際に起こっていることとの間に齟齬があった。
世間では一週間がもう終わっているのだ。
この時になってやっと、あのスーツの話が自分の中で急速に現実味を帯び始めてきた。
僕はスマホを確認する。
通知が来ている。
昨日の午前中に彼女からラインが来ていたことに今更気がついた。
『久しぶりに会いたいな。午後からいつものカフェで会わない?』
春休みも半ばになってそろそろ僕も彼女が恋しくなってきていた頃だった。
『ごめん、今見た。今日の午後からでもいい?』
『よかった。いいよ。じゃあまた後でね』
僕が送信して数分後に既読の二文字がつき、すぐさま返信が返ってくる。
僕は果たしてこれからずっと二日おきの生活をすることになるのだろうか。
だとすれば彼女にこのことを伝えておくべきだろうか。
しかしあの黒髪清潔スーツはこのことを誰であろうと他言してはいけないと言っていた。
そもそも彼女はこんな風になってしまった僕を受け入れてくれるのだろうか。
そんな考えがひたすら頭の中をぐるぐると堂々巡りをしながら、僕は一足先に待ち合わせ場所のカフェに向かうことにした。
二日間寝ていたものだから、髪はボサボサで、体臭もあるかもしれない。
お風呂にゆっくり入り、お気に入りの一着に着替え、身なりを整えるのにはいつもの二倍以上の時間を費やした。
彼女とは何でもない他愛ない近況話をお互いに話し合って笑った。
僕はこれからについてどうなるのか分からないので、ひとまず“歴史渡り”については何も言わないでおくことにした。
彼女は最近お菓子作りにはまっているらしい。
今度会うときは手作りのベリーパイを持ってくると言っていた。
彼女と話していると僕も楽しかった。
幸せな時間だった。
気づけばいつしか春休みは終わっていて高校二年生としての新学期が始まっている。
春休みは短い長期休みなのだが、今回は特にあっという間だった。
僕は学校が始まってしばらくは、家庭の都合という理由で三日に二日学校を休んでいた。
しかし彼女は僕が何かを隠しているんじゃないかと疑っているようだった。
それも無理もない話だ。
だって僕が急に学校を休みがちになったものだから。
運良く今年も同じクラスになれた彼女は毎回一緒に帰るとき、僕の体調はどうかとか、家庭の事情は大丈夫かとか、最近何か辛いことはないかとか。
とにかく色々と僕のことを優しく心配してくれた。
学校を休みがちになって、僕を見る周りからの目が冷たくなっていたのは薄々感じていたが、彼女が僕に優しい気持ちを向けてくれるだけで僕は十分だった。
予定が合えば彼女とは休日にデートに行ったりもした。
日が経つのが早いと、髪が伸びたなとか、アクセやコーデを変えたなとか彼女の変化にはいち早く気づけた。
“歴史渡り”になってよかったことなんてほんとこのくらいしかなかった。
日本の過去を知る。
未来に記録を残す。
そんなことよりも僕はいつまでこの暖かな時間をくれるか分からない彼女との、今しかない二人だけの時間を大切にしたかった。
僕はある日、彼女に全てを話すことに決めた。
心配してくれる彼女に甘えたくなったのかもしれないし、単に秘密を隠しているのがしんどくなったのかもしれない。
何より彼女になら話してもいいんじゃないかとも思ったのだろう。
そんな客観視を僕は捨てるべきだったんだ。
僕は彼女の優しさにいつしか依存していた。
6月になって今年は少し早い梅雨が到来し、雨がひたすら降りしきる。
手持ち無沙汰な僕たちはなんとなくいつものように集まって映画を見た。
一度見ただけでは意味のよく分からないSFモノだった。
SFモノって二極端だから初めて見る側としてはほんとに困る。
まあ映画の内容なんて僕たちにはそこまで関係なかったんだと思う。
雨をしのげる空間で同じ時間を二人で過ごせれば別に良かった。
それからは二人で映画の愚痴を言い合いながら複合施設に併設させているカフェを見つけて二人で入った。
「やっぱり映画見るのに少しくらい下調べは必要だったかもな」
「あー、それは確かにね。私だけじゃなくて虎も分かってなかったなら安心。私だけ話に置いてかれちゃってたらやだもん」
×××は顔を綻ばせて安心したように笑う。
「それは大丈夫だって。僕は×××のこと絶対置いていかないからさ。むしろ僕が×××に置いて行かれないか心配なくらい。だって×××ってなんでもできるから」
僕たちが頼んだホットのココアは白い湯気が立ち上り、6月なのに気温は低いことを感じさせるとともに僕たちの周りだけは暖かな空間であることを物語るようだった。
ココアを一口飲むとその甘さが身体を包み込むようで、途端に身体の緊張というか力が抜けて、心の底から順番に暖かくなって全身が心地よくなる。
冷たいココアは大嫌いなのに、温かいココアは他の飲み物を差し置いてものすごく大好きだった。
「虎の家庭の事情ってやつ?は良くなってきてるの? 虎、この前の定期試験はよく赤点もなくて、むしろ私と同じくらいの点数まで出せたね。びっくりした。凄すぎるよ」
「うーんどうだろ。多分、現状維持って感じ。まあ勉強は学校行けてない分を自力で頑張ったからね」
僕は周りに後れを取らないように、×××についていけるように一人でも頑張ってきたから。
×××の嬉しそうな表情が見れて僕も嬉しかった。
「虎は大変だね。ねえ、そろそろ私に虎が抱えている問題について話してほしいかな。私、虎の力になるし」
「あー、でもこれって僕自身で解決しないといけない問題だと思うし」
「もうーー。すぐ虎はそう言う。私のために黙っているのだったらそれ、全然私は嬉しくないからね」
×××はココアと一緒に頼んでいたパウンドケーキをゆっくりと丁寧にフォークで分けてのせると、美味しそうに頬張る。
僕は目の前の茶色く濁ったココアをじっと見ていた。
「私、虎の悩みなら喜んで聞くよ。私、虎のこと色々分かっているつもりでいるんだからね」
それでも僕は少し踏み込んだ話をするかどうか意を決せずにいた。
「本当に僕の抱えている問題について聞きたい?」
×××がパウンドケーキを食べ終わるのを待って僕は静かにそう訊ねた。
×××は僕の真剣さを感じ取ったのか、少し居住まいを正した後、聞きたいと。
そう強くはっきりと。
しかしその口調は至極優しげだった。
だから僕は意を決する。
僕は少し考える。
何から話すべきか。
何を話せば×××を驚かせず、悲しい思いをさせずに伝えられるのか。
しかしそんなものはいくら考えたとしても分からなかった。
だって現実に起こっていることが全てだったから。
「僕、なんか宮内庁のある重要な役職に選ばれたみたいでね。その仕事をしないといけないから学校に行ける日は二日おきしかないみたい」
「何それ! 虎凄いじゃん。そのずっと、っていうのは高校生の間はずっとってこと?」
「……いや大人になっても、ってことみたい」
僕は彼女の目をしっかり見ながら遠慮がちに言う。
「えっっっっ。それって…………」
「うん、そういうことみたい」
「……じゃあ私も宮内庁入って同じ役職になれたりはしないかな」
「どうだろ。多分すぐには無理だと思う」
×××は不意を突かれたようで、少し考え込むように目をつむる。
そして状況が飲み込めたのか、続けて、とひどく落ち着いた声を放つ。
「その代わり僕は少し長生きできるようになったらしい」
「少しって言うと?」
「人の二倍より多いくらい」
×××はとても驚いたようで、僕に目で本当か、と訊ねてくる。
本当は三倍くらいなのだがなんとなく嘘をついた。
もうここで嘘をつく必要なんて無かったのに、本当のことを伝えるのが怖かった。
「…………。虎、これって別に冗談で言ってるわけじゃないんだよね。ねえどうなの」
「冗談じゃないよ。今年の四月から気づいたらこんな状態になっていた」
「気づいたらってどういうこと? ちゃんと私に説明してよ」
×××はココアのカップに手を伸ばそうとして、その手が触れる寸前で止める。
見ると手は少し震えていた。
「何でそんな急に変わっちゃったの? 私は虎のことが好きなのに。勝手に変わったりしないでよ」
×××は少し血の気が引いた顔で僕を真っ直ぐ見つめる。
僕はただ微笑み返すことしか出来なかった。
僕はこの後どうなるかが怖い。
まだ真実を伝える時ではなかったのかもしれない。
でも、僕は誠意をもって彼女に本当のことを伝えたいと思った。
信頼を伝えたかった。
信じてほしかった。
「僕の×××への気持ちは変わっていないよ。僕はやるべきことが増えただけ。それ以外、全く何も変わっていないから。×××が心配するようなことはないからさ、安心してよ」
自分でも安っぽい言葉だって分かってる。
だけど僕が思いつける言葉なんてこのくらいしかない。
自分の頼りなさに自分でも嫌気がさしてくる。
「その言葉、信じるから。……あと正直に話してくれてありがとう。虎が抱えてることについて私、ちょっと一人でゆっくり考えたいから。もう今日は解散でいい?」
「そうだね。聞いてくれてありがと。今日は本当にごめん」
×××は一人席を立って食器を片付けると、ゆっくりーーー行く手を見失ったかのように少しふらつきながら歩いて、店内から出て消えていった。
その別れ際、×××はこちらに振り返って微笑むと、僕たちはいつものように軽く手を上げてお互いに振り合った。
僕には脱力感だけが残っていた。
それがより一層、現実というモノを僕に理解させた。
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