第29話
気がつくといつもと変わらぬ天井が目に入る。馴染みのベッドからは早い朝を示す見慣れた時計の針。
上り始めた太陽の光が部屋に差し込み、目覚めの気分は悪くはなかった。
いつの間にか充電ケーブルの刺さっているスマートフォンを見つけ起動させる。
八月の第一水曜日、6:10。
夏祭りに行ってから二日が過ぎている。
岩屋さんから日曜の夕方にラインが来ていたことに気づく。
慌てて開くと『見に来てくれてありがと。県大会はもっと頑張る』というメッセージと、『ありがとわん』と書かれた可愛い犬のスタンプが一つ添えられている。
僕は自分が日曜の夜どうやってここまで戻ってきたのか必死に思い出そうとするが、目をつむったら一瞬で今だった。
ここまで瞬間移動したみたいに記憶が途切れている。
ただ誰かのーー恐らく河井さんの肩を借りたような、そんな感触があったような気がする。
それに激しく肩を揺らされ、名前を呼ばれていたような気もする。
家の中を荒らされた形跡もなく、机の上には家の鍵と財布が置いてあった。
中身を見てみたが入っているお金の額は変わっていない。
どうやって戻ってきたのか本当によく思い出せない。
学校はとっくに夏休み期間なのだが、劇の練習をするということでクラスはいつも通り集まることになっている。
僕はシャワーを浴びて朝食を済まし、身支度を調えるといつも通り学校に向かった。
家から出ると途端にうだるような暑さで僕の思考は快活さを失う。
劇の練習はいつも通りで、僕はただ見ていた。
たまに感想を求められたので、ここの言い方がよかった、演技がよかったなどただ褒めた。
逆に悪いところに気づけるのは劇経験者や上手な劇というものがなんなのか知っている人だけ。
僕はせいぜい能や狂言の知識があるだけだった。
そんな僕が気づけたことといえば、まだ河井さんと岩屋さんの仲が拗れたままであるということだった。
お互い意識はしているようだが、まだ直接話せてはいないみたい。
岩屋さんはこの前の大会が河井さんにちゃんと影響を与えられたのか不安に思っているらしく、何度も僕に目配せしてくる。
心配するな、と僕はその都度自信ある視線を返して頷く。
病室での河井さんの悔しそうな様子を見たからきっといい影響があったはずだと思う。
それとは別に僕自体も今日は河井さんと話せていない。
普段であれば演技や脚本の詳しい設定や疑問点、改善点が見つかったらその都度、河井さんの方から僕の元まで来て話し合ったりするのだが、今日はまだ一度もしていない。
疑問点も改善点もなくなったのなら僕としても喜ぶべきことだろうが、少し物足りなさはあった。
しかし見ていると今日の河井さんはいつもの切れがなくどこか上の空みたいだった。
「最近虎って河井さんと何かあったか?」
そう僕に訊ねてくる片山も同じようなことを思ったらしい。
主人公役をやることになった片山は忙しそうだったが、主人公の性格が片山の素と全然違うらしく物凄く楽しいと言っている。
ただここ最近の河井さんの様子が妙に落ち着きがなくて気になるし、また学校を急に来なくなられても困るから話を聞いた方がいい、と練習の合間にアドバイスをくれた。
僕は練習の後の反省会で理由を聞いてみることにする。
夏祭りの後、もしかしたら何かがあったのかもしれない。
劇の練習が終わると僕は先に教室から出て、いつものように校門の前で待っていた。
いつも河井さんは舞台設営や音響、道具のリーダーたちと打ち合わせをしてから来るからそれを待って、どこで反省会をするか決め、一緒に行動する。
しかし今日はいつもより来るのが遅く、今日は反省会が無しなのかな、と思って帰りかけたそのときに、ごめん遅くなった、といつもの明るいトーンの声で後ろから僕の背中を軽く叩かれた。
河井さんは僕のところまで走ってきたようで、少し息を切らしていた。
今からはいつもと同じように河井さんの家、もしくは近場のカフェに向かうのかと思っていたが、夏祭りに行った日、僕を家まで送ったときに河井さんが僕の家に忘れ物をしたらしく、今から取りに行きたい、と申し訳なさそうに言った。
仕方なく二人で僕の家に向かうことになった。
僕の家を知られているとはいえ、僕のプライバシーに関わらせるのはよくないと本能が告げていたが、どうしても、と言うので、分かったと素直に従う。
「しゃちって一人暮らしなの?」
電車に乗るや否や、いつもと別方向の電車って少し新鮮かも、と河井さんが言った車内は冷房が効き、昼下がりの空席の多さは人の眼を気にすることのない開放感がある。
僕たちは二人がけの席に座って静かに揺られていた。
車窓から見える田園景色は太陽に色を盗られたかのようにやけに白色がかっていて、太陽に射されて熱いはずがまるで熱量を失ったかのように冷ややかに見えた。
目に留まるものが何もない殺風景。
そんな景色から目線はそらさないで河井さんは静かに僕に訊ねる。
「ああ、そうだよ」
「なんかすごいね」
それきり会話が途絶える。
河井さんは劇の練習の記録をつけているノートを取り出すと徐に膝の上に広げる。
どうやらここで反省会をするらしい。
大道具や背景、衣装など劇に重要なものが詳細に記されて続々と完成している。
劇そのものの完成が近いことはノートをのぞき見るだけで予見させられる。
「色々ありがとね。まだお礼を言うのは早いと思うんだけど、でも最近は劇も上手くいってるし。最初は私のせいでクラスの劇だめにしちゃうとこだった。だけど、しゃちがちゃんと弱い私と向き合う機会をくれて。やり直すチャンスをくれて。いつも辛いことも苦しいことも聞いてくれて私をそばで支えてくれた。本当にありがたかったし凄く嬉しかった」
河井さんは劇の練習が始まったばかりの頃の記録に戻って、少しずつページを捲って読み進めるのを僕も一緒になって眺める。
今は梅雨が遠い昔みたいだ。
言葉以上の感謝と暖かな気持ちが詰まっている。
まだ完成してもいないのに少し名残惜しくなってくる。
モノトーンな外界とは対照的に僕らの乗る車両はやけに優しく鮮彩だった。
「僕に出来ることなんてあのぐらいだし、ほんとに何もしてないんだけどな」
それを訊いて河井さんは少し可笑しそうに笑った。
電車を降りて僕の家に着くまで、河井さんは僕がいなかった日の面白おかしな出来事をひたすら教えてくれた。
委員長兼監督の藤城は正しいことには物凄く積極的で、計画的にクラスをまとめてくれること。
岩屋さんは人の感情が揺れ動く場面だと急に演技が下手になること。
それに片山が憎めないくらいいい演技をすること。
でも片山は少しいい加減な奴だから、何度か藤城にこっぴどく怒られたこともあるらしい。
でも藤城がそのくらい劇を大切に思ってくれてるってことだ。
サッカー部の部長としてクラスで騒がしい男子たちを上手く使っているらしい。
「何を僕の家に忘れたんだ? 言ってくれれば僕が探してくるよ」
「何言ってるの? ここまで来たんだから私も探すよ」
河井さんは堂々と胸を張っている。
僕の家の前まで来て、やっぱり河井さんを中に入れるべきじゃないのではと逡巡していると、じゃあ入るからね、と河井さんはポケットからおもむろに鍵を取り出して僕の家の施錠を外す。
返すの忘れていたから今返すね、と言って僕の片方の手を河井さんの両手が包み込むようにして開かせるとその上に鍵を乗せる。
そして何の躊躇もなくそのドアを開けた。
僕は今日の朝、いつものカギが見つからなくて予備のものを持ってきていたことを思い出す。
僕がようやく状況を飲み込めた頃には河井さんは家の中へと姿を消していた。
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