第28話
藍一色だったもの悲しい病院服から可愛らしい私服に着替え終わると河井さんは急に元気になったように見えた。
夏祭りの喧噪を今捕まえに行かなければ後悔する気がした。
二人で音のする方へと歩いて行ってみる。
祭りの開催を知らなかった僕たちだったが段々と明かりが増え、人が増え、屋台が増えていく。
道には水溜まりが残り、ぬかるんでいる。
通り過ぎる人々は皆浴衣を着て、お互い離れないように手をつないで楽しそうに歩いている。
華やかな雰囲気に僕は少し気圧されたが、河井さんは少しでも暗い気持ちを払拭するようにずんずん進んでいくので、おいて行かれないようしっかりついて行く。
笛や太鼓の音が気分を高揚させ、その場全体が楽しげな雰囲気だった。
僕は今まで夏祭りに来たことがなかったが、河井さんもそうらしい。
夏祭りってこんなふうなんだね、と周りを見回しては歓声を上げている。
ここにいるだけで楽しい、と洩らしていたが、浴衣の女の子たちとすれ違うたびにちょっぴり羨ましそうな目で見ていたのを僕は見逃してはいない。
祭りのメインストリートに着くと二人して人の多さに驚いた。
おかげで人の熱気が今朝の陸上競技場と比べものにならないほどすごい。
屋台が道の両側に所狭しと並び、人の進む流れが既に出来上がっている。
夜なのに明るく、太鼓に負けない野太い声が屋台の所々から聞こえてくる。
このときだけは人の波にのまれて離れないよう、河井さんは軽く僕の服の裾を掴んでいた。
たこ焼き、イカ焼き、リンゴアメ。
人の流れに沿って気になった屋台を二人で片っ端から攻めていく。
チーズハットグなんてモノもあり、これでもかと伸びるチーズに二人して驚いた。
金魚すくい、射的、ダーツ。
どれをとっても僕たちが互角の勝負で気の抜けない激闘を繰り広げる。
僕も全力だったが河井さんこそ容赦が無かった。
通りを奥まで進むと祭りの主な通りから外れて少しずつ物静かになる。
熱気で火照った体を冷やす場所を探していると目の前に生い茂る木々と階段が現れた。
百段ほどはあるだろう階段を上るとそこに小さな神社があった。
提灯型の電灯は少し暗く、辺りは閑散としていた。
階段の最上段に腰を下ろして休憩する。
心地よい冷ややかな夏の風が頬を撫でる。
歩いてきた道が下方に見え、祭りの様子が一望できる。
あれほど騒がしかった祭り囃子が心地よく耳に馴染む。
見上げると少なくはない数の星が見えた。
周りより標高が高く、視界が開けていて明かりの少ないここは、僕的には星を見るにはいい場所だなと思った。
隣では河井さんが屋台で買ったばかりのタピオカドリンクを飲んでいた。
味の感想を聞いてみるとドリンクは美味しいけど、タピオカは最初に少し変な味がする、と言っていた。
夜空の同じ場所をずっと見ていると臆せず堂々と星空全体が一点を軸に少しずつ回転しているような錯覚を受ける。
というか錯覚ではないのだろう。弧を描く星たちには謎の吸引力があった。
「しゃちは星を見るの、好きなんだね」
といつの間にか星空ではなく僕の顔を見ていた河井さんは言った。
なぜ分かったのか疑問に思っていると河井さんは、だって今のしゃちってすごく嬉しそうに見えるもん、と言い訳っぽく少し恥ずかしそうに言った。
どうやら表情に出ていたようだった。
僕の困惑顔を見て、なんだか満足そうに笑っている。
僕はオリオン座を知っているかと聞くと、河井さんは冬に良く見えるやつだよねと言った。
オリオン座は夏にだって見ることが出来る。
夏にだって僕たちの身近にいるのだ。
しかし時間が深夜から早朝にかけてのものだから見えると知っている人は少ない。
僕は“歴史渡り”をやっているせいで午前0時を越えて起きていることが出来ない。
必ず強い睡魔に襲われて気がつけば二日後の朝になっている。
夏のオリオン座を見ることが“歴史渡り”を終えたらやりたいことの一つだった。
僕たちの身近にあるが故に何気ないと思っていたモノが、時間や時期が違うだけで急に特別なモノに生まれ変わる瞬間を体感したかった。
夏にもオリオン座が見えることを教えると、今度二人で見に行こうよと返ってくる。
「あ、でもその前に浴衣着て花火見たいな。めっちゃ近いところでどっかーんってね」
タピオカを飲み終えて手持ち無沙汰になった彼女は僕との空いた空間をすっと詰めて隣まで来ると、両腕を広げて花火を表現するかのようにそう言い放った。
花火ってもっと大きいのかなと訊かれたので、近くで見ればね、と僕は答えた。
それから僕たちは月のない夜空を見ていた。
本当は一日に何千万もの星々が地球に降り注いでいる。
僕たちが見ているこの夜空もその光が人工光に負けて届いていないだけで、本当は何万もの星が流れているのだろう。
星も花火も儚い。
高校生だって儚いモノだ。
でも僕はこの疑似高校生を終えた後でも、こんな経験があるから。
こんな思い出があるから。
ずっと先も頑張れそうな気がした。
ふと一瞬睡魔に襲われ、意識がふと遠のきそうになる。
僕は午前0時を越えて起きていられない。
しかし午前0時とは限度であって、絶対ではない。
今はまだ真夜中には程遠い。
身体は素直だ。
今日はいつも以上に驚いたり、不安になったり、喜んだり。
全力で走って、大雨に濡れて、夏祭りで柄にもなくはしゃいだ。
精神的にも身体的にも今日は激しく動かされ、時間を忘れて必死に動いた一日だった。
いつもより二時間以上早い睡魔の襲撃はそのせいだろう。
僕は早く家に帰った方がいい気がしたので河井さんにそろそろ行こうかと声をかけて、立ち上がる。
暗闇に目が慣れたせいなのか河井さんの顔がよく見えた。
彼女も少しうとうとしていたらしい。
驚いたような目を何度かしばたいている。
「せっかくだし写真撮ろうよ」
そう言って僕の腕を引っ張り、神社の中で祭りの様子が一望できるところまで連れて行かれた。
砂利を踏む二つの澄んだ音はまるで会話をしているように交互に響く。
写真が撮りやすいよう僕たちはなるべく近づいて、祭りを背景に自撮った。
河井さんは普段は自撮らないらしく、ピントやら構図やら試行錯誤で何枚も撮った。
一枚とるたびに、あーとか、おおー、と感嘆を漏らす。
そうするうちにやっと納得のいく一枚が撮れたらしくオッケーサインが出た。
程なくして一枚の写真がラインで送られてきた。
二人とも曇りのない、正真正銘の羨ましくて微笑ましくなるくらいの笑顔だった。
僕は自分がこんな表情が出来ることに少し驚く。
河井さんは満足そうに何度もその一枚を見ては微笑みを浮かべている。
今度は花火とかもっと夏っぽいものと一緒に撮りたいなと思った。
一段一段階段を降りて来た道を戻る。
時刻は九時半を越え、祭りの熱気も少しずつ収束し始めていた。
そんな雰囲気の中を歩いていると初めにこの道を通ってから、もう何時間も経ってしまったのではないかと錯覚する。
その間にも幾度となく睡魔と戦い、理性と気力が辛くも勝利を収めて歩みを進めてきた。
しかしついには河井さんにその死闘の様子を気取られてしまい、どうかしたの? と明るい声をかけられてしまう。
「僕、実はロングスリーパーで今結構きついかも」
河井さんはそれを聞いて少し驚いた顔をしつつも、ふふふと何やら怪しげな笑みを浮かべている。
どうしたのかと逆に聞いてみると、
「なんか初めてしゃちの弱点みたいなのが分かってなんか嬉しい気分」
と河井さんはさらに悪そうな満面の笑みを浮かべる。
「今すぐにでも寝られるんだけど」
「そんな状態で道歩いていると危ないから、ちょっとそこのベンチ座るように。さあさあ」
彼女は手で僕の身体をベンチの方へと押しやるようにぐいぐい動かしてくるので、僕は仕方なくちょうど見つけたベンチに座ると、河井さんもその隣に座る。
「ベンチに勧誘して、もしここで僕が寝ちゃったらどうするんだ?」
「うーーん、どうしようかな。タクシー呼んで家まで送ってあげるよ。あ、そうだ。住所教えてよ。なんか私のだけしゃちに知られているのもあれだし」
「しょうが無いな。僕の家まだ誰にも知られていないから広めるなよ」
気を抜けば寝ちゃいそうなくらい緊急だったので僕は仕方なく今住んでいるアパートの住所を河井さんに教えると河井さんはすぐにスマホにメモをする。
今までの僕ならば、他人に住所を教えるなんて考えられなかったのだが、河井さんなら信頼できる気がしたのだろう、と自分で自分を考察する。
ベンチに座っていると本当に寝てしまいそうな気がした。
「そろそろ行かない? じゃないと本当に寝ちゃいそう」
僕は少し焦りを含んだ声を出す。
「どっちみち帰るまでまだ少しかかるからさ、この際寝てもいいよ。今は遠慮無く私を頼ってほしい。というか私が今までしてもらったことを少しでも返していきたいから」
と河井さんは屋台や通りに飾られた提灯が撤去されていくのを見守りながら優しい声で物柔らかに言った。
幾人もの着物姿の人々が僕たちの目の前を通り過ぎていく。
どの顔もすごくご機嫌に見える。
色々あったけど今日は楽しかったよ、と名残惜しそうに河井さんは呟いて笑う。
僕は勝てそうにない睡魔の襲来を予期し、河井さんに家の鍵と少しのお金しか入っていない財布を手渡す。
河井さんの、任かされた! という少し嬉しそうで朗らかな声を聞くと両瞼は僕の意思に反して下がり始める。
そこからは早かった。
僕の視界は瞬く間に遮断され、意識は途切れた。
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