第21話

五分。十分。

十五分は経っただろう。


河井さんは赤く腫れた目を軽くこすって、ごめんと言った。


長く伸びた黒髪は所々はね、頬は濡れて赤く染まっている。

僕を見る瞳は自然と上目遣いになっていた。

そんな夕陽に佇む河井さんを見て、僕は不意に触れてはいけないような綺麗さと優しさを感じた。


「大丈夫。河井さんは変われているよ」 


「なんでさんつけたの?」

 

河井さんは少し怒ったように言う。自分でも無意識なことだった。


「なんとなくだよ。前話してくれたみたいにそんなときこそ創作世界なんじゃないのか」


「それもそうだね。だけど今はとても書けそうにないかな。藤城君にはめちゃめちゃな脚本渡しちゃったし」 


河井さんは少し後ろめたそうに不器用に笑って言った。


「そんなに、なの? 僕からしたら完成しただけでもすごいと思うけど」


「私、今はこんなふうだし、クラスにこれ以上迷惑かけるのも悪いかなって思って。無理矢理でも書いてみたんだけど、多分ぼろぼろだよ」 


「気持ちが落ち着いたら創作は再開する?」 


「どうしようかな。途中でやめるのは後味悪いし」


「それならさ、劇の脚本、書き直せばいいじゃん?」


「それはやめとく。本当にクラスには迷惑かけたし、藤城君の言うとおりにしようと思う。他の人の脚本にするなら私は別にかまわない。私が言うのもあれだけど、やっぱり既存の有名作やった方がクラスとしても劇としても成功すると思う。一から作るのは見ている人がどう思ってくれるのか、ちゃんと伝わって理解してくれてるのか、書いていてすごく不安になるし、私には書ききれそうにないから」


「そこは河井が自信持って、自分がやりたい方で判断すればいいと思うよ。今日河井の家に来るまでは河井が急に変わってしまったんじゃないかって思えててさ。あんなに脚本に対してやる気とか情熱があるようだったのに最近学校に来ないから。

でも変わってなかったよ、河井は。ちゃんと優しいし、全然嫌なやつじゃない。河井は皆から嫌われるような自分になるって言ってたけど、それは間違っている。だって多分、僕が河井を嫌うことなんてないから。僕も転校してきて友達もいなかったのに、すぐに河井と仲良くなれてすごく感謝してる。人と関わるのは怖いかもしれないけど、人と関わるからこそ自分の世界は広がるんだろ? 

何かあれば僕は味方になるし、クラスだって河井のことを受け入れてくれると思う。陸上部だってそうだよ。岩屋さんは河井が戻ってくるのを待っていると思う。こんなことで岩屋さんと仲違いしたままだといつか後悔する。僕は毎回学校に来ているわけじゃないけど、河井も色々落ち着いたら、学校においでよ。自分の居場所があって、一緒に同じことをする同年代の仲間がいる。そんなものは今だけかもしれないよ。家にいるより学校にいる方が一日は長いだろ?」


河井さんは静かに、時に頷きながら僕の言うことを聞いていた。

少し寂しそうな、悔いがありそうな、それでいて少し羨ましそうな顔で僕を見ていた。


僕も人と関わるのが怖かった。

だから他者に期待をするのはやめた。

だから決して他者を嫌いになったりはしない。


期待と嫌悪は類似関係にある。似たもの同士紙一重。

他者の選択は他者の選択であり、そこに僕の感情は挟まない。

好きなようにすればいい。勝手にすればいい。

そうやって他者対してこちらから勝手な感情を抱くのをやめた。

他者に何も求めなければ、期待もしなければ、嫌悪も失望も起こらない。

澄んだ眼で物事を見られる。心から応援だって出来る。欠点が目に付いたりしない。

だから僕は決して人を嫌いになることはないのだ。


「そうだよね。なんか明日は学校に行けそうな気がする。今日はありがとね。こんなに私の話をするつもりじゃなかったんだけど。やっぱり話を聞いてくれるだけで気分が良くなった気がする。なんかしゃちだからこんなに喋っちゃったっていうのもあると思う。先生からも色々と聞かれて自分のことをちゃんと喋ろうって思っても、上手く口に出せなかったもの。しゃちは凄いよ」 


「僕なんて何もしてないよ。河井が勝手に気分良くなった気でいるだけ」


「勝手にとは無責任だなあ。今後も何かあったらしゃちに相談するからね。っていうか私の事情をちゃんと知ってるのはしゃちだけだし」 


そう言って涙で赤い頬のままふくれっ面をする。


あっそうだ、と言って河井さんは後ろのたんすの戸を開けた。

中には賞状やトロフィーが入っているようだった。

たくさんあった。


これ、もう一回飾ってもいいかな。

僕はわざと無言でいると、何か言ってよ。と笑いながら僕の肩を軽く小突き、中のトロフィーたちを取り出して部屋の隅に飾っていた。

僕にはトロフィーたちが色あせていないように見えた。


「これからまだ増える予定はあるの?」 


「まあね。もう脚がなまっているかもだけど」


外はとっくに夕陽が沈み、その代わりに半月より少し丸みのある月が東の空から昇っていた。


「今日は急に押しかけてごめん。いろんな話聞けてよかったよ」


「こちらこそ、ありがと。そうだ、駅まで送るよ」 


「それ男子の僕が言う台詞じゃない?」


「ええ、そう? 今、私外出て歩きたい気分なの。それに何かあったら私、走って逃げるから大丈夫」 


「それ僕を置いていくってことじゃん。そこは二人で解決策を考えるでしょ」


「へへっ。そうだね」

 

家々の間を歩くと夕飯のいい匂いがした。

私、いつもは夕飯を親と一緒に食べているんだけど、両方とも帰ってくるのが遅いからいつもお腹すくんだよねと言って笑う。


駅までの間、最近起こった面白いことや発見したこと代わる代わる話した。

久しぶりだった。

少し会わないだけでお互いにいろんな体験をしていた。


夜道は電灯が余すところなく点り、空を覆っていた雲はいつの間にか跡形のなく消えていたが、電灯に明るく照らされて目に届く星は少なかった。


夜は世界が狭くなったように感じるね、と彼女は言った。

僕はそうだね、と答える。

夜になると悩み事なんてちっぽけなことのように思えた。


「しゃちも悩みがあったら相談してよ。私だけ悩みを聞いてもらって何か恥ずかしい」

 

そう言って笑った河井さんの頬は夜でも少し赤くなっているのが分かる。

目も少し腫れが残っている。でもその笑顔に曇りは一切無かった。


「悩みがあったらな」


悩みか。

こんな高校生の等身大の悩みを聞いたら、僕が一体何に悩んでいるのか分からなくなってくる。

悩みの方向が違うのだ。人に話すのは僕もやっぱり恥ずかしい。

それに僕の悩みは人と共有してよい類いのものではない気がする。

僕特有のもので、自分で答えを見つけるしかないものだ。


河井さんにまたね、と言って別れる。


晴れた夜空の下、駅までついてきてくれた彼女は僕に手を振ると背中を向けて、夜道を颯爽と駆け抜けていく。


その後ろ姿はやっぱり凜々しくて、その一歩一歩地面をしっかりと蹴る脚はとても力強かった。


もう僕の力は必要としていないように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る