第20話

インターホンを押すと、15秒程して河井さんのものすごく驚いたような返事が聞こえてくる。

先生から預かっているプリントの入った袋を画面越しに見せると、僕の要件は察した感じで、今行くね、とインターホンは切られ、すぐさま玄関から河井さんが顔を出す。


驚いた顔のまま僕を上から下まで一通り見てから、安堵の表情を見せる。

学校を休んでいる割には普通に元気そうだった。


「これ休んでいたときのプリントとか授業のノートね」 


僕はノートを手渡した。


「ありがと。この授業のノート、しゃち君が写してくれたの?」


「授業に出れた日のやつはね。あとは近くに人に聞いたりした。河井そこまで頭良い方じゃないから流石に休みすぎるのは良くないぞ」 


僕は笑ってそう言った。


「うん、そうだね。しゃち君と差ができちゃいそう」


「まあ、僕もぼちぼちだけどね。少し話がしたいんだけど、今から時間ある?」


「いいよ。どうぞ上がって上がって」 


僕は玄関口のつもりだったが言われるがまま従う。


玄関にはたくさんの靴が収納できそうなくらい大きな靴箱が二台もあるが、実際玄関先に出ているのは河井さんが履いている靴一足だけ。

なんだか寂しげな玄関だった。


そのまま河井さんの後ろを追って階段を上がり、案内されるまま彼女の部屋に入った。

少し躊躇したのは心の中だけにしておいた。

机とベットと本棚とたんす。本棚にはたくさんの文庫本が詰まっている。

確かにフレグランスの良い香りが仄かにするシンプルな部屋だった。


河井さんは僕に置いてあるクッションを渡すとちょっと待っていてと言い残し、部屋から出て行く。少ししてオレンジジュースの入ったコップとポテチを持って戻ってくる。

河井さんはたんすの前を死守するように座り、僕にもクッションを置いて座るように促した。


「最近は何やってるの?」


「たまに勉強してたまにぼーっとして、たまに本読んでるって感じかな。しゃち君あれだよね、私が最近学校を休んでる理由が聞きたいんだよね。まさか私の家にしゃち君が直接来るなんてびっくりした」


「それもあるけど、劇の脚本の方はどうなのかなって思って。プリント渡すついでに聞こうと思ったから、先生から住所教えてもらってきた」 


僕は真剣な雰囲気のまま言う。


「なるほどね。私の家を訪ねるなんてものすごく驚いたからね。……しゃち君ってさ、自分が考えていることに反して体が重いとか、思うように動かないなんていう経験ある?」


「これといってないな」 


河井さんの困ったように笑って言った言葉に単調な返事をする。


「やっぱりそうだよね。やっぱり私、変わってるの。今日こそは学校行こうと思って意気込んでいたんだけど、朝起きたら体が重くて。とてもじゃないけどそんな気分じゃない。なんてことがここ数日続いてる」 


河井さんに笑みは消え、少し神妙な面持ちをしていた。


「前までは普通に学校に来れているように見えたけど、最近何かあった? 脚本と何か関係ある?」


「質問が多いよ。……けど別にそういうわけじゃないんだと思う。原因は多分去年のこの時期のこと。私的にはもう克服した気だったんだけどな」



雲の切れ間から姿を見せた陽光はすでに傾き始めており、直に部屋に入り込む。

部屋が一瞬にして薄い赤色に染まった。


河井さんがカーテンでも閉めようかと聞く。

僕はこのままで大丈夫と答えた。

窓の外から下校途中の小学生の楽しげな声が聞こえてくる。


「原因って去年の陸上の大会のこと?」


「やっぱりしゃち君もそのことを知ってるんだ。流石に全校生徒に集会で激励までしてくれたことだからね」 


河井さんはどこか照れくさそうでしかし諦めがついたような顔をしていた。


「いや、知らない」 


僕はきっぱりと言った。


河井さんは困惑していた。

口を開きかけたが言葉が出ないようですぐに閉じた。


僕の次の言葉を待っているようだった。


「岩屋さんに軽く聞いただけ。僕、転校生だからこの学校に来たのは四月からだし」


「ええーーっ」 


と驚嘆の声を上げる。


「それは知らなかったな。じゃあ、私が今こうなっている原因、まあ私が考えついた理由についてだけど話した方が良い? そのためにここに来たんだよね?」


「無理にとは言わないけど、そうしてくれるとありがたいな」


河井さんは少し考え込むような動作をしてそれから、いいよと言った。


人に自分の話をするのは久しぶりだし、そもそもどこから話せばいいんだろう、と言うので、ゆっくり好きなところから始めていいよ、と応える。

長くなっても知らないからね、と少し笑って彼女は話し始めた。


「私は中学の頃から陸上部に入っていて主に中距離をやっていたの。成績はいい方で県大会とか東海大会によく出ていたし、何より走るのが好きだった。それは高校に入ってからも変わらなくて、迷わず陸上部に入ったの。これは自慢じゃないんだけど、私自分で思っている以上に足が速いらしくてね。去年の夏の大会の出場選手を決めるために記録会をして、個人種目の400Mとは別に私はリレーの選手に選ばれたの。でもそのリレーのチームには二年生はおらず、一年生も私一人だけだった。

メンバーに選ばれなかった三年生は何人もいた。顧問の先生は実力主義の先生で私ならこのチームの中でも申し分ない実力で、むしろこのチームを引っ張っていってほしいと言った。

でも私はただ楽しく走りたいだけだったの。三年生の最後の大会なだけあって、真剣な2、3年生の先輩に何度か練習の合間とか終わった後に呼び出されて、リレーの選手を3年生に譲るよう言われたこともある。先輩方からよく思われていないだろうなっていうのは日々の練習で薄々感じてたの。だからね、リレーの選手を辞退しようとしたこともあるよ。でも岩屋さんが私に話しかけてくれて、『河井なら絶対大丈夫だし、むしろ河井がいないと勝てないんだよ。先輩たちは自分の実力を理解できていないだけで、それでリレーの選手になろうだなんて陸上なんだと思っているわけ? それにさ、河井は速いのに、それで手を抜こうだなんてそれこそ陸上やってる人たちへの冒涜だね。私だって本気でリレーの選手狙いにいったのに、選手になれたのは河井でしょ。同じ一年として応援してるし、ライバルとしていつかは記録を抜いてやろうと思ってるからさ。今はリレーの選手として胸を張れ』ってね。岩屋さんに背中を押されてリレーの選手を本気で頑張ることにしたの。岩屋さんほんとにかっこいいよね。私から見ても凄く足速いし、状況判断もいいし、なにより岩屋さんに応援されているだけでとても心強かった。二人で残って遅くまで自主練したり、遠くまで一緒に走りに行ったりもした。

…………でね、あるとき事件が起きたの。

リレーのチームも何チームかあって、合同で模擬試合をした。そこで私は私の前を走っている選手を抜かせると思って、外から追い抜こうとしたの。実際ギリギリの勝負じゃなくて私はもうその先にいる選手を見ていた。私がその選手を抜かした瞬間、彼女の下ろした脚が私の脚に当たり、そのまま私の脚に絡んでもつれ、彼女は転倒した。私も全力で走っていたものだから、急には減速できず脚の回転はリズムを崩された。着地の仕方を失敗して、私は右足首をひねってしまった。

その瞬間右足から激痛が走り、倒れそうなったけど、辛うじて次の人へバトンを渡した。

私、頑張ったんだよ。でもみんなの注目は倒れた彼女にあって、私じゃなかった。何人かがすぐに彼女に駆け寄っていった。幸いかすり傷だけで大きなけがはしていないようだった。

だけど私が思うにあれは故意だったと思う。

私のことをよく思っていない先輩が私にけがをさせて補欠の3年生を代わりに選手にさせるつもりだったんだと思う。私はまだ1年生でこの大会に出られなくても次があるから、なんていう気持ちで罪悪感はないように見えた。その先輩は倒れたまま、私に向かって笑っていたように見えたんだ。

だから私はそのことを岩屋さんに話した。岩屋さんは先輩に怒ってくれたけど、実際派手にこけたのは先輩の方で、先輩方は誰も本気で私たちの話を聞いてくれなかった。

唯一キャプテンだけは、大会前にけがをするなと先輩と私を平等に叱った。

右足首は初め腫れていたけれど、4,5日で治ったし、普段の生活で違和感を感じることはなかったし、強く右足首を曲げない限りは痛みを感じることはなかったの。

でね、私のリレーのチームは一人ものすごく足の速い三年生の先輩がいたの。

個人戦では全国で上位に入る程の実力で、このリレーですら全国出場を目標に練習していたくらい。

地区大会は余裕のタイムで突破していた。これから県、東海、全国へと続いていく前に学校で部活動激励会なんてのもあって、足の速い彼女が登壇して喋ったの。彼女は個人戦、団体戦ともに全国大会に出場して良い成績を持ち帰ることを全校に約束すると言ってた。

しかしそれはただの戯言ではなくて、彼女の言葉は自信に満ちていて、そうなることが至極当然だと聞いている人が思い込む程、彼女の言葉にリアリティがあった。元からあった彼女の知名度がさらに学校中に知れ渡り、陸上部への感心も高まった。同様にリレーの選手である私に対しても頑張れ、と声をかけてくれる生徒さえいたぐらいに。この学校が陸上以外に強い部活がなかったからかもしれないけど」


河井さんは思いを打ち明けるように所々感情を昂ぶらせながら話すと、そこで一息をおいた。


薄い赤色だった部屋が徐々に濃さを増してきている。

僕はひたすら傾聴を続けていた。というか人の思い出に口出しできるとは思わなかった。


「県大会の日、私は無事に個人種目の400Mで東海大会への切符を手に入れられたの。もちろん足の速い先輩もそうだった。あとはキャプテンもそうだったかな。部として県大会は眼中になかった。

もっと先の大会を見据えていた。残るリレーで私は二番走者だった。

バトンが二位で回ってくる。私の番からオープンレーンで私は一位を走っている人を抜かせると思った。前の人との距離は徐々に縮まり、隣に並び、ようやく抜かせると思った。ちょうどカーブにさしかかっていた私はその選手と体が接触し、外に軽く投げ出された私は、まだその選手を抜くことが出来ると全身に力を込めた。だけどその時踏ん張った右足首は変な方向に負荷がかかったんだと思う。右足首から激痛が駆け上った。

そして私は倒れた。

チームメイトからの声援が聞こえ、私は立ち上がろうとした。だけど無理だった。今度は激痛が絶え間なく走っていた。練習中にひねったところがちゃんと治っていなかったんだと思う。私がバトンをつなげず、リレーは失格となった。

その時のメンバーの絶望した顔は今でも覚えてる。私は2、3年生から嫌みを言われた。キャプテンや岩屋さんは、気にするなと私に肩を貸しながら言った。だけど内心はどう思っていたのか分からない。嫌みを言いたかったかもしれない。一番絶望していたのはアンカーを走る予定だったあの先輩だったと思う。

結局、私に何も言うことはなかったけど、そんな顔をしていた。私のけがは全治一ヶ月で、東海大会は諦めた。唯一残っている先輩はリレーがなくなったことでより一層個人種目に力を入れているようだったけれど、全国大会本番前に故障してだめになった」


河井さんは至極淡々と話していたが、少し無理をしていることがその顔を見れば分かる。

眼は少しだけ赤くなっていて、声は鼻声がその存在を隠しながらも混ざり始めている。


「それでね、そんな残念な結果に終わったことを学校中の生徒も知っていた。知らない先輩から嫌みを言われたこともあったし、お前のせいで負けたとも言われた。だんだんひどくなっていって筆記用具や靴や教科書などいろんなものを隠されたこともあった。

私のせいで負けたのは事実だと思う。靴や教科書は大きな問題になるのを恐れてか大体は戻ってきたけど、ほかのものは戻ってこないものもたくさんあった。多少汚れていたり、傷ついたりしていた。そんなことはたいして気にならなかった。

ただもう一度思い切り走りたかった。でも走っても全然楽しくなかった。私はけがが治って部に戻ると、3年生は引退していた。なんだか急に物寂しい部になっていた。前に比べて活気もなかった。私が戻るとチームメイトからは、こうなったのはお前が原因だというような嫌な目で見られた。もとから部活の一年生の輪に入っていなかったけど、今はすごくあからさまに敬遠されているみたいだった。クラスにも陸上部は多くて、クラスメイトはそういう彼女たちの態度を見て、同様に私に関わろうとしなくなった。

私は途端に人が怖くなった。私は部活をやめ、学校をしばらくの間休んだ。その間、岩屋さんはたまに私の家に来て、部活に戻ってきてほしいとか、まだあと二年もあるんだから一緒に頑張っていい成績を残そう、と言ってくれた。でもなんか疲れちゃって。学校行くのも部活も、考えること自体面倒くさくなって……。岩屋さんが家に来ても無視するようになった。今思えば、あの頃の私は最悪だったと思う。冬が始まる頃にはだんだん学校に行けるようになった。その頃には私に対して嫌な態度をとる人はいなくなっていた。皆の興味はもう私から移っていて、以前のような嫌なことはされなくなったけど、逆に私に関わろうとする人もいなくなってた。私も人と関わるのをやめた。別に丁度良かった。人と関わらない方が穏やかな生活が送れるから。……今まで隠していてごめんね。どう、私に幻滅した?」 


河井さんはかすれた笑みを浮かべる。


「僕からみた河井はおとなしくて、穏やかで、話すと面白い。物事をよく考えていて、それを表に出さないように必死になっているけど、隠し切れていない。ちゃんと可愛いとこもあって、愛想もいい。全然幻滅するとこなんてないよ。ちゃんと高校生してる。河井は本当に人と関わらない方がいい、なんて心の底から思っているの?」 


僕は静かな声で、でもはっきりとそう言った。

僕は彼女が自分に自信が持てるようにしっかりと彼女の目の奥の方まで見つめる。


「えっ……。どうしてそんなことが言えるの?」


「僕から見た河井は別に嫌なやつじゃない。それに本読むのも書くのも好きなんでしょ? あのときの言葉は河井の本心だと僕は思う。そんなやつに嫌なやつはいない」


「それは本当の私を隠していただけなんだよ」


「いや、それは違う。河井はその嫌な自分から変わろうと努力した。そうだろ?」


「そう…………だけど。私ってちゃんと変われているの? 私はいつ、また昔みたいに皆から嫌われるような私になっちゃうのが怖い。ふとちょうど一年前の出来事が頭に浮かんで、それから何度も頭から離れないでよみがえる。私は人と関わるのが怖い。私が失態をするのが怖い。それになにより私が嫌いな、私にいつの間にか戻っているのが怖い」


そう言って河井さんは泣いた。


僕は軽く背中をさすりながら静かに泣き止むのを待った。

 

高校生らしいなと思った。


悩んで怖くなって。大人の僕はいつの間にか他人嫌われるのも、自分が変わってしまうのもどうでもよくなっていたと気づく。


いろんな人との関わりがある高校生というものが、少し羨ましいなと今更ながらふと思った。

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