第17話
「古久根。お前は高校時代にあんまりいい思い出なんてないだろ。さっきのやりとりを見ていれば分かる。それに比べて二度目の高校生活だっけ。今なんで二度目の高校生活をやっているかは分からんけど、楽しいんだろ。“歴史渡り”をやめて、普通の高校生をやり直したらどうだ」
ひどく優しげな声だった。
急に何を言い出すんだこいつは。と思った。
「そんな簡単にやめれるわけないだろ。この仕事のせいで失ったものはあるかもしれないけど、今は僕のアイデンティティなんだよ。なくせるものじゃない。だから譲れない」
「なるほどな。……俺この前、俺たちのクラス委員長だった新実(にいのみ)に会ったんだ。ちゃっかり市議会議員なんかやっててさ。古久根、あいつと仲悪かっただろ。あいつも古久根のことが苦手だったって言ってたけど、今では、あの頃はひどいことをしたなって気に病んでた。“歴史渡り”をやっていれば二度目の高校生活だって満足のいくものにはならないだろ。俺に“歴史渡り”を譲れば、古久根も楽になって高校生をやり直せるんだぞ」
新実が嫌いだった。
それは今も変わらない。
それならばほどよい同情よりも、昔のように僕にとっての悪者でいてくれた方が幾分気持ちは楽だった。
勝手にいいやつになられても困る。
どれだけいいやつになろうが昔のことは消えるわけでも上書きもされないけれど。
「“歴史渡り”は譲らないし、二度目の高校生活だってそこまで期待なんてしてないよ」
勝手に期待して勝手に傷つくくらいなら、初めから期待なんてしない。
未来はある程度予想できる。
僕はいつもその予想を違えないよう状況をしっかりと見て精査してきた。
状況を予測し臨機応変に対応できれば、大抵のことでは傷つかなくなる。
「そういえば“歴史渡り”をやっていると金がもらえるんだっけか。正直言って俺は“歴史渡り”という貴重な体験をしてみたい。金がほしいなら俺が出す。俺さ、研究がそこそこ上手くいっていて、金なら余る程ある。いくらなら“歴史渡り”を譲ってくれるんだ? ほんといくらでも出せるからよ」
朝倉は説明するように両手を忙しなくと動かして、僕に微笑みかける。
しかし僕にはその笑みの拙さが際立って見える。
そもそもこの会話、会話と呼ぶにはひどく人も熱意も願望も全てが一方通行だった。
僕は僕の中に抑えがたい自分がいるのが分かった。
「くどいな。何度も言ってるけど、どんなこと言われても“歴史渡り”は譲らないし、勝手に辛いとか決めつけないでくれる? 楽になれるとか普通の生活は楽しいとかそんな言葉、大嫌いなんだよ。突然現れて普通の生活がそんなにも楽しくて、上手くいってるのを自慢しにきたのなら、もう帰ってくれない? もともと朝倉と僕、高校生の時接点なんてほとんど無かったんだし」
朝倉は一瞬戸惑った表情を見せた。
その表情をすぐさま引っ込めるとバンと両手で机を叩いた。
話し声で満たされていた店内が一瞬だけに沈黙へと変わる。
視線だけが集まる。
氷がカラッと空気の読めない音を出し、それがやけに響いた気がする。
耳から悪寒がした。
今なら何でも言えるような気がした。
「こっちが下手に出ていれば好き勝手言いやがって。俺だって人生そこまで順調だったわけじゃねえし、どれだけ大変だったか。今だって全然上手くいってるわけじゃねえんだよ」
朝倉は声を荒げる。
スーツは既に乱れ、ネクタイは折れ曲がる。
僕を見る目はもはや、睨んでいるのではないかというほどの怒気を孕む。
話を聞く限り、朝倉の人生上手くいってるように聞こえたが、今の朝倉は完全な逆ギレだった。
「俺にだって“歴史渡り”になりたい理由ってもんがあるんだよ。これからについて本気で悩んで、苦しんでいた時に応仁神社で偶然古久根を見かけた。驚いたけど、正直俺は救われた気分だった。それから必死になって古久根の居場所を調べて、やっと今日会えた。色々大変だった。俺だって必死だった。お前にだって俺の話はデメリットよりもメリットの方が大きいだろ。正にウィンウィンだ。もう一度考え直してくれないか」
僕は頭に上った熱を冷まそうと心を落ち着かせる。
断じて“歴史渡り”を譲るつもりは全くなかったのだが、朝倉にここまで執念とさせる理由とやらだけは聞くことにした。
「俺は学者だって言っただろ。確かに今は良い成績を残せてはいる。しかし気象も地質も研究してから、良いも悪いも結果が出るのにものすごい時間を要する。俺のやった研究だって、これから判明するだろう素晴らしい実験成果の数々の引き金に過ぎない。俺の研究結果を使って、これからの若い奴らがもっと良い発見をするのが目に見えているんだ。こんな発達途中の分野の中で、俺はただ使い古されているんだよ。研究ってものはな、結果が出るか打ち切られるまでは誰かが引き継いでいく。俺の研究だってそうだ。でも俺が古久根の“歴史渡り”を引き継げば、俺は俺の研究にひたすら没頭できる。寿命が延びることを最大限生かせる。たとえ二日の睡眠というインターバルがあるという古久根にはデメリットなことでも、俺にはありがたいことなんだ。そこが古久根とは違う」
とても流ちょうな口調で自信過剰に語っていた。
これから起こることを期待するように目を輝かせていた。
しかし朝倉は歴史というものをなめている。
今はたとえ些細な変化でも、後になってみれば大きな変化に繋がったり、分岐点だったりする。
そんな重要な役割を多忙な朝倉が務まるとは思えなかった。
なにより“歴史渡り”をただの道具のように使おうとするのが許せなかった。
僕は朝倉が“歴史渡り”になって後から本当に後悔しないのか、分からなくて自信もない。
僕が今更普通に戻るなんて無理だ。
仮に過去に辛いことがあったとしても、それを乗り越えて今の立場がある、自分がある。
僕は過去の自分が築いてきたものを裏切る気は無かった。
「朝倉はさ、“歴史渡り”のことを簡単に言うけど、やるべき仕事は大変で僕は色々取捨選択してここにいるんだよ。だから今更手放す気は少しも無い」
「古久根だって新しい視点を持てば、何かが変わるかもしれない。そんな暗そうにしてないでさ」
「僕は今の生き方が別に嫌いじゃないんだ。それに朝倉、お前は家族がいるだろ。そっちはどうするんだよ」
僕が朝倉の指輪を見て言った。
朝倉が少しはっとして嫌な顔をする。
そして右手で左の薬指のそれを僕から隠すように触っていた。
「俺だって父親としての役割はもう十分果たしてきた。今更自分のために時間を使って何が悪い」
朝倉は僕を睨むように視線を飛ばし、息を荒げる。
まるで自らを肯定するように。
「朝倉は残された側の気持ちを考えたことがあるか。朝倉の妻や子供が自分から遠い存在になったお前のことをどう思うのか。“歴史渡り”っていうのは皆と同じ時間を生きているようで、全然違うんだよ。絶対にお前は後悔する」
「……。でもこれは科学の進歩に役立つことだ。人情が関わっていいことじゃない」
「科学はそうやって進歩してきたんだろ。学者が皆そう考えているならさ、朝倉だけズルをしようとしても上手くいかないし、いつかツケが回ってくるぞ。歴史とはそういうものだ。若手を敵対するんじゃなくて、教育して共同して、正しい方へと導いてやれよ。お前の思いは後輩が引き継いでくれるだろ」
「………………」
再び沈黙が走り、朝倉は逡巡する。
もはやその顔にさっきまで怒気はなく、苦しそうに顔を歪めている。
僕は彼が一体何と何に悩んでいるのかは分からないが、彼の顔が悲痛に満ちているのだけは読み取れた。
僕は彼に答えが出るのをただ待つことにした。
お互いに無言の時間が長く続いた。
僕は時間を埋めようとグラスに手を伸ばしかけてやめる。
やがて朝倉は意を決したようにゆっくりと口を開き、一言一言を噛み締めるように穏やかな口調でつぶやく。
「確かにな。家族が俺の拠り所でもある。家族だって俺を大切に思ってくれている。それを捨てるのはやっぱり無理だわ。それに歴史を引き合いに出されちゃあな、重みがあって反論できん。なんか俺一人この期に及んで焦っていたのかもな、悪かった」
そう言って朝倉は頭を下げた。
僕たちの話し合いの熱によるのか、はたまた夏の訪れを感じさせるものなのかグラスの氷は跡形もなく消え、濁った水だけが残る。
その薄まって味のない水を僕は飲み干した。
普段のうのうと生きている僕が誰かに本気で反発するのは久しぶりだった。
でもこればかりは僕が譲ってはいけないことだった。
水は味がなかったのに不味いとは思わなかった。
そういえば、と言って朝倉は鞄から一枚の紙切れを取り出す。
「俺たち、高校の頃に将来に向けてタイムカプセル埋めただろ。少し前、皆で掘り起こしたんだが古久根は来なかったよな。流石に中身を見るのはあれだし、まだ若いんだろ? また埋め直しておいたから、掘り返したくなったら行けばいいってことで。はい、これ高校の地図な。そこのバッテンのところに埋めて直しておいたから」
手渡された綺麗な手書きの見取り図には確かに×印が打ってある。
タイムカプセルの存在はすっかり忘れていた。
「ケーキご馳走様」
僕はケーキをぺろりと食べ終わり、心から礼を言う。
「俺も、古久根とは初めてしっかり喋ったけど案外面白いやつなんだな。また機会があったら話を聞かせてくれよ」
「機会があったらな。朝倉は今、どこに住んでるんだ?」
「応仁神社の近くだよ。研究所も近い」
「そうか。…………それと、“歴史渡り”についてのことは誰から聞いたんだ?」
僕は確か、僕には唯一だった昔の彼女にしかそのことは話していないはずだった。
「ああ、それなら歴史について研究している学者の知り合いからだ。世の中には歴史を伝承している存在の者がいる、って話をな、ちょろっと小耳に挟んだだけで別に古久根がそうだとは知らなかった。つい最近神社で見かけたお前が昔と変わらない姿をしていたからもしかして、と思っただけ」
「他の誰かに話したりしたか?」
僕は冷静を装って言う。
「いいや。昔の高校の同期にさえ誰もそのことを話してないから心配しなくていいぞ」
僕は心の中でほっと胸をなで下ろす。
「それにしてもよく僕のこと分かったな」
「一時期、古久根はクラスで結構目立ってたし」
僕はスーパーの買い物袋を持っていたので、アパートに近くまで送ってもらった。
僕も普通に過ごしていれば今頃、あんな風なお父さんになっていたのかもなあと思う。
僕は朝倉の車が通りを曲がって見えなくなるのを見届けると、携帯電話をおもむろに取りだして、山本に電話をかける。
「調査中の件とは別件だが、“歴史渡り”について知る者に会った。名は朝倉荘太で、歳は40前後。応仁神社付近に住んでいる研究者だそうだ。……よろしく頼む」
「了解しました。……なんだか元気なさそうですね。パンダ見に行ってから、連絡してこないので少し心配してましたよ。順調ですか?」
「いや、そうでもない」
と言って僕は一方的に電話を切る。
この後朝倉は僕に関する記憶を消されるだろう。
山本へはその電話だった。
こんなことをするのは正直心苦しかった。
朝倉自身”歴史渡り”のことを口外しないようだったし、無理に記憶を消す必要はない状況だった。
記憶とは少し複雑で、心の中に秘めてくれるなら無理に消す判断をしなくてよいことになっている。
高校の話が出来たのは確かに楽しかったし、また会いたいと言ってくれることに嬉しいとも思った。
しかし可能性は時に邪念となる。
何か問題があったときに僕という可能性に縋ることがないよう、僕を忘れることが朝倉のためでもあるのだ。
僕はアパートに着くと、使うか分からない朝倉からもらったタイムカプセルの描かれた紙を机の引き出しにしまった。
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