第18話


五月下旬に席替えにあり片山とは席が離れたのだが、相変わらず河井さんは隣の席だった。


同じ進路指導係としてあれからも何度か一緒に配布物や掲示物を取りに行ったりした。

そしてたまにだが、部活に何も入っていない僕たちは教室に残って勉強会を開いた。


あまり出来ない者同士の会である。


教室に残っていると分かるのだが、終礼後10分以内にはクラスメイトたちは教室から消え、部活や学習塾、あるいはカラオケやゲームセンターなどの娯楽施設へと足早に向かう。

予定がない時間をこよなく愛する僕としては、その10分で教室の雰囲気ががらりと変わることに驚いた。


一人消え、また一人消え、この世界に残っているのは僕たち二人だけだ。なんて終わっていく世界に近いような感じで未来に対する余計な心配よりもただ今に集中して享受すれば良い。

そんな時間が好きで、用もないのに……というか用がないので、最後まで教室に意味もなく残って、変わってしまった教室の空気に和まされていた。


僕と河井さんはお互いの学力的には良い勝負で、僕が教える日もあれば河井さんが教える日もあった。


勉強しながらお互いに、今日あったこととか思ったこと、気になったことを話し合ったりもした。


「しゃち君、オー・ヘンリーって知ってる? 私の好きな作家なんだけど」


「名前くらいは」


河井さんはとても楽しそうに語る。


海外の作家さんを選んだのは少し意外だった。


「最後の一葉って短編があって、端的に言うと重い肺炎にかかった主人公が窓の外の蔦の葉が全部落ちたら自分も死ぬはずだと公言したけど、一枚の葉だけは激しい雷雨や暴風に耐えちゃうの。それを見て生きる勇気を取り戻して元気になる。だけど、その一枚の葉は実は隣に住む人生を諦めた売れない画家の老人が描いた絵で、その老人は主人公と同じ肺炎にかかって後日死んじゃうって話。私はその話がすんごく好きなんだけど、でも全然納得できないっていうか。主人公を助けておいて自分は死んじゃうって報われないっていうか。老人にだってちゃんと救われて幸せになってほしいなって」


「僕も知らないところで他人に救われてたりするのかなあ。どうなんだろうなあ」


「救われたいって心の奥底から求める純粋さも、きっと他人から見たら下心に見えるんだろうね。だから皆が綺麗なままで救われてほしいなって思う」

 



梅雨が本格的に始まり、ジメジメした日々が続く。

 

最近河井さんは休みがちになった。


六月の第三週に入っての今日この日。

初めて一人で進路指導係の仕事をすることになった。

 

一人なので喋り相手はいない。


ただいつも通りの仕事をするだけで効率は良いはずなのに、往復の行き帰りは脚が重くやけに長く感じた。


二人ならいくらでも仕事ができそうな感覚とは大違いだった。

運ぶものが多い方じゃなかったからよかったものの、僕がいないときに河井さんが一人で仕事をしていたことを思い出して、少し悪かったなと反省する。


聞くところによるとどうやら隣のクラスの脚本が完成したらしい。



次に僕が登校した日は河井さんがいて、僕はそうでもないのだが、久しぶりだねと言われた。


何事もなかったように元気な様子で他愛もない話をした。


ここずっと雨が降り続けているらしい。

雨の日は部活が休みの人も多く、教室に居残っているのが僕たちだけではなくなる。


しかしだからといってすることもないので、相変わらず二人で勉強会をした。


脚本の方はどう? と聞いてみると河井さんは順調だよと言って笑った。




日に日に委員長兼監督の藤城が少しずつ苛立ち始めているのが三日に一度しか学校に来ていない僕にも分かった。


他クラスは続々と脚本が完成し、役を決め、読み合わせを始めたところもあるらしい。


藤城にとってもスケジュールに余裕を持って行動したいらしいのだが、未だに脚本は完成せず、当の河井さんは学校に来ていない。


なぜ急に学校に来なくなったのか僕は分からなかったが、聞けばクラスメイトも思い当たる理由がないらしい。


「そんなこと今はどうでもいいだろ、古久根はなんか聞いてないのか?」 と藤城は僕のところまで来て、苛立った声で聞く。

知らないと言うとあからさまに藤城に嫌な顔をされた。


クラス内で不安の声が出始める。


他の人に脚本を任せるのがよいのではという案が出て、多くの生徒が賛成の声を上げた。


しかし一度脚本家を河井さんに決めた手前、彼女の承諾を得ないまま、代わりの人に脚本を任せるのは筋が通らないと藤城は言った。


気持ちよく事を進めるには彼女が脚本を完成させるか、彼女自身の意思で脚本家を降りてほしい、とも言った。


ただ時間だけが過ぎていく。

藤城はどうにも出来ないと苦々しい顔をしていた。



「河井どうしちゃったんだろうな」 


席が離れても相変わらず昼食は僕の元に来る片山が、少し心配そうに言う。


これじゃあ俺が頼んだ役がちゃんとしてあるか、心配だなあ、と言っていた。




六月も最終週に入った日、雨は一向にやむ気配を見せない。


藤城は電話番号やら住所やら、とにかく河井さんと直接話が出来る手段を求めて樅山先生に直談判しに行った。

しかし先生はそういった個人情報は本人の許可がないと教えられないと断ったらしい。


クラス委員長として時に声を荒げることはあるにしろ、こんなに荒れているのは珍しい、とクラス内で話題になり、何人かで興奮気味な藤城をなだめていた。


先生は河井さんと話して状況を聞いているからもう少し待ってほしい、と藤城に言ったらしかった。


今のクラスの状況は最悪――それも日々更新中で、僕が登校するたびに目に見えて悪化していった。


僕としても河井さんには少し怒っていた。


普段学校を休みがちな僕が言えた口ではなかったが、それでもクラスで大役を任されていて欠席はどうかと思う。


それにだ、仮に何か理由があったとしても、あの時の、やりたいと言った決意に満ちた表情、頑張りますと言った自信のある言葉、順調と言って見せた笑顔、それらを間近で見ていた僕はあのときの河井さんと今の河井さんがかけ離れているように思えた。


あのときの河井さんは何だったのか、と今すぐにでも問いただしたかった。


あれは嘘であり、別人だったのか。

そうは思いたくはなかった。


河井さんは小説を書きたいと言っていた。

僕はそれを全力で応援したかったのに、今それが素直に出来ない自分にも少し腹が立っていた。




次に僕が学校に来た時、つまり二日が経った日に聞いた話で、あれから藤城はどうにかして河井さんから完成した脚本を受け取ったらしい。


ちょっとした進展だ。


そのことをクラス内で大いに喜んだらしいのだが、いざ読んでみると藤城の納得がいくストーリーではなかったらしい。


クラスメイトは実際に河井さんの脚本を読んだわけではないけれど、他クラスより遅れていることからして、皆は監督である藤城の決定に一任することにした。


今は、問題点を河井さんに伝えて修正してもらうのか、河井さんが脚本を降りて別の人に新しく書いてもらうのかを藤城は検討していた。


僕も藤城も、きっとクラスの皆が河井さんに現状どうなっているかを直接説明してほしいし、彼女の真意が知りたいと思っている。


「この前の河井は、急に元気なくなったっていうか。クラス皆に怯えていた感じなんだよな。ほんと何かあったみたいに変わってた」 


片山はいつになく心配そうな表情をしていた。


本当に虎は河井から何か聞いてないんだよな、と訊かれて、そうだと応える。


「俺が見た感じ、河井って虎と喋っているときが一番楽しそうなんだよ。虎になら何か話しくれるかもしれない」 


なんで俺なんだよ、と少し嫌そうな視線を向けると、片山は急に態度を変えて、穏やかな怒気を孕んだ声を出した。


「いいから虎から河井に接触してみろよ。河井の助けになれるのは虎が一番適任なんだよ」


僕が納得のいかない顔をしていると、いよいよ冗談はなしだ、と片山にしてはやけに真剣な表情になる。


いいから俺の言うとおりにしろ、と眼が殺気立ち、言葉が形をなす以上の強要を持って、お前はやるべきことから目を背けるなと僕を威圧している。


「虎は聞き上手な奴で、きっと河井の悩みにだって親身になって解決できる。虎は何だかんだ凄く優しい奴だ。俺を信じろ」 


と真剣な面持ちながらも、最後は心配するな言いたげに笑って、とても自信ありげに僕の背中を強く押す。



一体、片山は僕をどんな風に思っているのかと抗議したかったが、その熱意に押されて僕は何をすれば良いのかを考える。


とりあえず、詳しい事情を知っているかもしれない樅山先生に聞いてみることにした。


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