第10話


「ちょっと家でやることがあったから。体調は大丈夫」 


どうやらこの学校はバイトが許可されていないらしいので、片山へとは別の言い訳をしておく。


「そうなんだ。高校生って学校生活が全てではないんだね。なんかその考え方すごく新鮮」


「そりゃやりたいことやれば良いと思うよ。高校生なんだし。やっぱり好きなことを能動的にやる方が身につくことも多いだろうし」 


僕の話を聞いて河井さんはふむふむ、といった感じで頷いている。


「あー、確かに。テスト週間の時に自分で頑張って勉強していると授業で分からなかったことが簡単に分かって、なんで今までこれが分からなかったんだろう? ってなるよね」


「一つの教科に絞って集中的に取り組むと理解が早くなりそう。でもそれを極めちゃうと一夜漬け推奨派になりそうだね」 


今の河井さんの様子は教室でのクールさが薄れつつあった。

 

かつてのテスト勉強や追試勉強の日々が思い出される。


真夜中を身体も意識も越えられないため一夜漬けができなかったが、気持ちはいつも一夜漬けさながらの焦り一色だった。


「私、そこまで根詰めるのは無理だな。それなら諦めて寝る」 


河井さんがふふっと笑う。


「潔いね。まあ僕もそんな感じだったなあ。勝負は当日だから」


「そうそう。勉強も運動も当日のコンディションが大事だし」


河井さんの言葉はとても熱意がこもっていた。


それにしてもコンディションなんて珍しい言葉を使うなと思った。


僕はふと話すことに集中し過ぎて、今僕たちがどこら辺にいるのか分からないことに気づき、脚を止めた。

今まで脚が勝手に動いていたということだ。


「もしかしてしゃち君、今迷子?」 


僕につられたのか河井さんも脚を止めて辺りを見回す。


「もしかしなくても迷子だね」 


流石に登校三日目で学内は把握できていない。

正直に迷子であることを打ち明けて、河井さんに頼ることにした。こんなところでプライドを出すよりも彼女に頼る方がいいと思った。


「確かに二年生になって行動する場所が変わったからね。私もその教室行ったことないし、どこなんだろ」 


どこなんだろ…………?


「……ということは」 


「私も迷子だね」 


なんだよそれ。

お前転校生じゃないだろ。


と突っ込みたくなったが、突っ込んだところで状況は変わらないのでやめた。

 


階段を上ったり降りたり。担任からは教室名しか言われてないので、とにかく校内図が壁に貼ってないかを探した。


学校が今だけは迷路のような構造になっている気がした。


「あ、あったよ」


河井さんが地図を見つけるまで二人で10分は探していたと思う。


見ると目的の教室までは大分遠回りしていたようだった。


しかし河井さんはどこか楽しそうだった。


目的の教室に着くまでにはさらに10分ほど。

僕は足に疲れを感じ始めていた。


目の前には高く積み上げられた進路に関する書類の山。

めくってみると各大学についての詳細が印刷されているようだった。


カラーの分厚いパンフレットのような冊子は六冊。他にも進路調査書と書かれた紙が積まれているのが見える。


「進路係って雑用だな」 


「それ私も思ったけど。実際に口に出さないでよ」

 

河井さんは僕を嫌なモノでも見るような視線を向け、一瞬だけ重なる。


僕はわざとらしく視線をそらし目の前の紙の山を見た。


二人で運ぶような量じゃないくらい大量にあった。


「一回でいけるかな?」 


「流石に無理そうだな」 

「じゃあ私、このくらい持とうか?」


河井さんはちょうど肩下の高さぐらいまでの量の紙の書類を両手で抱える。


僕は残りの書類を持った。


大雑把だったが持っている量は大体均等のようだった。


一枚一枚は軽くても量があるから重く感じる。

パンフレットのような冊子は次に運ぶことにした。


「しゃち君は部活、何やっているの?」 


河井さんは、少し気になっていたんだ、と言った。


「何もやってない」 


「そっかー」 


安堵とも失望ともとれるような、よく分からない声が聞こえた。


歩くたびに持っている紙が軽く上下し、それに相当した重力による衝撃が僕の腕にダメージを蓄積させる。

それは特に階段で顕著だった。


「河井さんは何かやってるの?」 


「…………。私も何もやってないよ」

 


体育館のそばを通り過ぎると、生徒たちの楽しげな声が外の通りまで聞こえてくる。


ボールが床に当たるような音が鳴り響き、より一層生徒たちの歓声が大きくなって聞こえる。

 

飯食って、運動して、どうせ彼らは昼からの授業では爆睡するんだろうなと予想する。


まあそれも青春だ。今のうちにしか出来ないことの一つである。


「河井さんは普段どんな本を読んでるの?」 


部活トークは不発に終わりそうなので、僕は舵を急に大きく切った。


「うーーん、秘密」 


「なんで?」 


えっっっ。

いきなり裏切られた感が凄かった。


「読んでいる本でその人がどんな人かなんとなく分かる気がするの。好みとか思考とかね。それに、本って読んだ人にしかその世界観は分からないでしょ。しゃち君は本をよく読む方なの?」 


「新聞とかビジネス書はよく読むけど、小説の類いはほとんど読んでないな」


「私はその逆だー。私が面白いと思ってる本が他人には全く分からないことって、きっとあるでしょ。それが怖いから、まだ教えない。しゃち君の感性が私と似てると思ったら教えてあげるね。ちなみに私は喜劇が好き。やっぱり最後は幸せになってほしいもん」


行きの三分の一程度の時間で帰りは自分たちの教室に到達した。

 

あらためてどれだけ遠回りしてきたのか思い知った。

もってきた資料を教卓に置くと、もう一度来た道を引き返す。



「私は大丈夫だからもっと持つよ」 


僕たちは今、取りに戻ってきた分厚い冊子六冊を二人で三冊ずつ運んでいた。


教室まではまだ程遠いところ、二人の会話が急に減り沈黙が流れ始めたとき、河井さんはそう申し出た。


恐らく僕が少しつらそうだったのを察したのかもしれない。


さては息切れしていたかな。

いやそんなはずはない。


しかし重くて少ししんどいなと思っていたのは事実だった。


女子に自分よりも多くの物を持たせるべきでないということは全世界の男子が周知のことだろう。


何より僕は大人である。


プライドの問題だ。


ダイジョウブだ、モッテイケル。


しかし僕がそれを口に出す前に、河井さんは僕の運んでいた冊子の一番上のものを取って、何気ない様子で自分のところの一番上にのせた。

有無を言わせぬ行動だった。


四冊と二冊。


倍の差だった。


その事実が心に重い一撃を入れる。


彼女は大丈夫だと言うように僕に笑いかけて、そのままステップするような軽い足取りで僕の前に躍り出て、歩き続ける。

 


河井さんの後ろ姿を見ていると、制服のスカートから綺麗な、と形容しても全く問題ない脚がすらっと伸びている。

彼女のふくらはぎはきゅっと引き締まり、そのおかげで足がほどよく細く見える。


身長に関して僕は165cmなのだが、恐らく彼女とは3cm程の差もないくらい目線の高さが近しい。


もちろん僕の方が大きいが、男子の中では小さい方の僕とは違って、河井さんは女子の中では比較的大きい方なのだろう。

まあ人類全体の和で見ると僕はどちらかと言えば、大きい方に属するだろう。


いや待てよ、日本人より外国人の方が平均的に背は高いのだから人類全体で考えてはだめか。


ならば日本の中では平均より上ということにしておく。



なんて戯言をほざく僕の前をご機嫌な様子で歩く河井さんの後ろ姿は、背筋が自然にぴんと伸び、肩にほどよく掛かる黒髪はふわり、ふわりと彼女に合わせて軽く揺れている。


彼女の弾む綺麗な脚が着地する度に、髪の毛は一本として乱れはなくまとまって揺れ、全体として落ち着いた雰囲気があった。

その黒さは艶やかで、肌の白さと相まって余計に華やかな黒に見える。


癖毛一つ無く、清潔感を通り越して透明感を纏っていた。


その後ろ姿はとても綺麗だった。

そんな何気ない様子に綺麗を感じるとは思いもしなかった。


分厚い本を四冊も持つその腕の筋肉は僕よりあるかもしれない。

僕がなさ過ぎということもありえるが。


この時だけは今までの引きこもり生活をすべきじゃなかったと後悔した。


「河井凄いな」 


沈黙が続き、彼女の後ろ姿を眺めて歩いていた僕が独り言のように呟いていた。


「“さん”抜けているよ」 


河井さんは少し驚いた後に、いたずらっぽく言った。


「ごめん、無意識だった」 


「別にいいよ。というか“さん”付けちゃだめ」


僕が呆気にとられていると、河井さんはなんていう顔してるの、と笑っている。


「逆にだめなのかよ。まあいいけど。それよりその本重くない? やっぱりそれ、僕が持つよ」 


「重いと感じる十歩くらい手前かな」 


河井さんは笑いながら、本で塞がった両腕を軽く左右に振って否定の意を示す。

もしくはまだ重くないことを示したのかもしれない。


「なるほど。凄いな、河井」 


「それはもう聞いた」


ふふ。なぜか笑いがこみ上げてきた。


なぜだろう。


河井さんの隣まで急いで追いつくと、彼女も口元が緩んでいた。


黄色の髪留めにとめられた前髪は目にかからない。

でもって耳にもかからない絶妙な位置にあって余計に可愛らしい。


普段河井さんが教室で見せる、優しげではあるがどこか物足りない様子とは対照的な楽しげな印象を今、僕は受ける。


河井さんは僕の視線に気づいて慌てて口元を隠そうとするが、生憎両手は塞がっている。


慌てて笑みを消し去ろうとして、歩みを早める。

だから僕はついていくのが大変だった。



教室につくと今度はもってきた資料の掲示なのだが、これはあまり時間がかからないはずだった。


僕は普段の怠惰の影響で腕を上げられない程の疲れと筋肉痛により、河井さんに頼りっきりになってしまう。


僕は彼女に一枚ずつ資料を渡す役に徹した。

それを河井さんは器用に画鋲で留めていく。


特に喋ることもなく黙々と作業したが、なんだか息の調子が合っていてお互いのペースが同期していた。


教室は段々と運動場や体育館から戻ってきた生徒たちで騒がしくなり始める頃にようやく作業が終わった。


河井さんは僕の方へこそっと近づいて、お疲れ様、とだけ言った。


僕も河井さんに聞こえる声でお疲れ様、とだけ言う。それを聞いた河井さんは図書館で見たときのような嬉しそうに柔らかな笑みを返した。

河井さんの持っている画鋲の箱に気づき、勝手に取り上げると借りたところへ返しに行った。

このくらいは仕事をしたかった。

 

僕は午後の授業が始まった瞬間に爆睡した。


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