第8話

4月9日 (月曜日)


土日が睡眠期間に当たるので、この週は休日のない週である。

今日の一限目は僕が唯一得意な歴史の授業だ。

左隣の片山をみると相変わらず机に突っ伏している。


「1年の時に鎌倉時代までやりましたね。今日はその続きからやっていきましょう」


鎌倉時代は二三五年間も続く、旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代だ。

僕の“歴史書”には鎌倉時代についての歴史も事細かに記されており、僕は心が少し躍っていた。

真実をすべて知る事件の犯人が、検察の捜査にドキドキする感じ。

まあ恐らく捜査の初期の段階だと思うけど。

捜査の後半なんて逮捕されるかもというドギマギだから、今の僕の感じるモノとは断じて違う。


何やら周りがうっとうしい気配を感じる。

しかし左隣の片山を見ても相変わらず机に突っ伏している。

 

何気なく右隣を見てみると河井さんはいつになくそわそわしていた。

うっとうしさは彼女が根源らしい。

本人は周りに気づかれないように視線だけをキョロキョロと動かそうとしているようだったが、体が落ち着きなくそわそわし、その怪しげな挙動を隠し切れていなかった。


僕は少し彼女を観察してみることにした。

原因は明白だった。彼女は教科書を持ってくるのを忘れたらしい。

そのような生徒がとるはずの行動は僕が考えるに三つ。


隣、もしくは近くの人に見せてもらう。

教科書を見ることを諦め、教師の話や黒板など授業により集中する。

それとも授業自体を諦めて片山のようになる。


彼女はどうやら僕に話しかけるか、かけないかを決めあぐねているようだった。だから少しばかりうっとうしい。


「教科書を忘れたなら、僕のを貸すよ」 


先手を打って、僕は教科書を彼女の机に置いた。


「え、…………。あ、でも君のは……」 


彼女の困惑する様子は見ているとこちらが恥ずかしくなる。


「僕は歴史が好きで、教科書の内容を全部覚えてるから使ってくれていい」


「………えっ。……………あ、ありがと」 


そう言って彼女は教科書を開こうとするが、教科書に触れる前にその手が止まる。

どうやら僕の教科書がまだ折れ目のついていない新品の状態だったことに気づいたようだった。

僕も今、それが新品だったことに気がついた。


「ほんとに使っていいの?」


「前に使っていたのが古くて買い変えただけだから。いいよ。気にしないで」


もちろん嘘なのだが、彼女は恐る恐る教科書に手を伸ばす。

そして少し困ったように教科書の一ページ目を開き、僕が何も言わないのが分かると、それから少し安心したようにパラパラと優しくめくって、教科書の該当するページ数を探していく。


そしてこちらをもう一度だけ見て、ありがとう、とだけ言うと、既に書かれている文字において行かれないようにと黒板に向かい合って、必死に目で文字の羅列を追いかけていた。


昼休みの時間になると片山は持ってきている弁当の卵焼きを頬張りながら、体の向きを僕の方に変えて話しかけてきた。


「虎はこのクラスで気になる女子とかいたりするか?」 


片山の顔に僕を探るような気味の悪い笑みはない。

ただ素朴に気になったといった感じの寝起きの血色のいい顔をしていた。


僕は現役高校生時代に一人だけ彼女と呼べる人がいた。

見栄を張らず、周りをよく見られる素直な子で日常を共有し合える良い関係だった。

恋愛に興味がなかった僕が彼女と出会ったことで世界観が変わったくらい。

あの純粋な心地よさを今の僕が再び感じられるとは到底思えない。


「いないな。まだ片山とくらいしかまともに喋ってないし」 


昼休みに教室内を観察してみると河井さんの除いて女子たちは集まって集団をいくつか作り、楽しそうに喋りながら弁当を食べている。

僕にとっては皆が同じように見えてしまい、誰が良いとかは分からない。


「虎ってなんか冷めてるよな。他人の良さが分からないのは見る側の問題だからな」


なんだか片山は自信ありげな態度だった。

じゃあ僕の問題なところを具体的に教えてくれよ。と言おうかと思ったが、口から出る前に慌ててその言葉を飲み下す。

僕にだって分からないし、片山に訊いてもしょうがないことだ。


僕は代わりにあまり中身のない会話をテキトーにした。


僕は午後の授業が終わると学校の図書室に行くことにした。

僕の任務はあくまで“歴史渡り”に関することを知る人物を見つけることだ。

それが終わればこんな場所からもおさらばできる。


静かにしていれば平穏に学生生活が終わるかと思いきや、変わった奴に目をつけられた気がする。

任務を早く終わらせた方がいい気がしていた。

今まで引きこもっていた僕にとって、久しぶりの集団生活は思ったより疲れる。


僕は歴代の校長が怪しいと思う。

もしかしたらどこかでアクツに会った可能性があるのだ。

しかしどうやってその人物を探す?


おおよそ“歴史渡り”を知る者がアクツ関連の人物だろうことは推測できるのだが、アクツは通常の人の年月で百五十年以上の間“歴史渡り”をやっている。


アクツがごく最近にこの高校を訪れていたならまだしも、随分昔の話ならば、それこそアクツと実際に逢ったことのある人物を探すのは困難を極めるだろう。


僕に“歴史渡り”の先代についての情報は全くない。

親族でも知り合いでもいい。

誰かアクツと関係を持つ人物を探したかった。


この高校の過去の卒業アルバムをパラパラとめくる。


アクツはそこまで馴染みのあるような名字ではないし、同じ名前を見つけられれば、何らかの接点が見つかるかもしれない。

しかし過去十五年のアルバムをどれだけあさっても、アクツの名前は見つからなかった。

心の中の“歴史書”を黙読するのと違って、実際に手に持ったアルバムの文字を集中して読むのはひどく疲れる。


「こ、こ、…………。とら君」


僕の名前が呼ばれているような気がしたので振り返ってみると、そこに河井さんが立っていた。

椅子に座っている僕は見上げるような形で河井さんを見る。


「これ」 


そう言って彼女は歴史の教科書を差し出した。

貸していたはずの教科書の存在を完全に忘れていた。

河井さんが大事そうに抱えているのを見てやっと気づいた。


僕は河井さんと正面で向き合う体勢になって受け取る。


「とら君、朝気づいてくれてありがとね。助かったから」


「どういたしまして。よく僕が図書室にいるって分かったね」


「あの、本当は教室で渡そうと思ったんだけど、とら君にどのタイミングで話しかけようかと悩んでいたらとら君もう教室にいなかったし。なんか後をつけたみたいな感じでごめん」


河井さんは少しばつが悪そうに言った。その目は僕を気恥ずかしそうに見ている。


「そこは別にいいよ。だけど僕の名前、『しゃち』だから」


僕は教科書を受け取って、不敵に笑った。

それを聞くやいなや彼女の顔は紅潮し始める。

両手を顔の前でクロスさせて僕から顔を背ける。


静かな図書室で僕たちの辺りだけが本の生み出す森ではなく、砂漠のように乾燥して熱い。

水を求めるように河井さんはあたふたと周りを見渡すが、近くには椅子と机以外に何もない。


「と……。しゃち君はなんで歴史が好きなの?」 


彼女は僕から顔をそらしながら必死に声を絞り出す。


「うーん。簡単に言うと歴史って繋がっているからかな。過去も現在も未来も。それに地球のある場所や土地で、時間の違いだけで色んな出来事が起こっていたことを知るのも楽しいし」


最初は僕から遠ざかるようにしていた河井さんだったが、興味を持ってくれたようで少し目を輝かせた明るい表情で僕の話を真剣に聞いてくれている。


「でも歴史って私の身の回りのことと繋がっているのかわかんないよ。受験のために必要だって先生は言っているだけだし。今を生きるだけでも精一杯なのに。過去のことになんて関心を向けるのは難しいな。でもなんか楽しそう。と……、しゃち君はすごいね」


なんだか現役高校生の声そのものだなと思った。


「そういえばしゃち君は何か必死に調べ物しているようだったけど、……時間とっちゃってごめんね。これから一年間よろしくお願いします」


そう言って河井さんは軽く頭を下げ、それから少しだけ笑う。

少し僕は虚を突かれた気分になる。

あまりにも”河井さんの笑顔は自然で優しげ”だったから。


普段教室ではあまり感情を表に出さない静かなタイプに見えたが、図書室から出て行く後ろ姿は少し凜々しく、嬉しげで、その足取りは軽快さを覗かせていた。


そういえばなぜ僕は河井さんから下の名前で呼ばれていたのか。

気になったので考えてみると、彼女は僕の名字の読み方が分からなかったからだ、と納得がいった。


なんだか久しぶりの感覚だった。


今までどこか俗世とは離れた世界にいるような感覚で過ごしていたが、こうやって今を生きている人はいるんだなと実感させられる。


これから一年間よろしくお願いします、と言われてしまった。

席が隣同士ということもあって、これから少しは何かで関わる機会があるかもしれない。が、極力面倒な事は避けていきたいな、と思った。

 

この後、僕は卒業アルバムをさらに過去二十年分までアクツの名前を探したのだが、成果は全くなかった。

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