第2話
朝はまだ寒いが日中はずいぶんと暖かくなった三月の某日、高校一年の授業が一段落して午後からやることがなくなった僕は、片道を電車で一時間ほどの距離にある神社に行くことにした。
そこは毎年正月に幼馴染みと初詣に行く馴染みのある神社だった。
田園風景が続く車窓。
自分の予定がないときは何だか世界もゆっくり動いているように感じられ、気を抜くと瞼が下がってしまいそうなくらい心地よい電車内だった。通勤通学の血気盛んで戦場にも似た、殺気の飛び交う空間とは大違いで、その名残は今はどこにも見当たらない。
神社に行くのに何か目的があったわけではない。気まぐれだ。
強いて言うなら、勉学の疲れを癒やしたくなったからか、はたまた閑散とした境内にしん、しん、と白砂の響き渡る心地よい音が聞きたくなったからかもしれない。
その敷地内には古くからある本殿と近年新たに作られたもう一つの本殿がある。毎年、幼馴染みと訪れているのは新しく作られた方の本殿であり、平日の昼間でもぼちぼち人がいる。
しかし少し奥まった方の古びた本殿の方は人けが無い。その平たい屋根に威厳はなく、屋根を支える柱はむき出しで、いつ壊れてもおかしくないくらいか弱く見える。
本殿を隠すかのように周囲を鬱蒼とした大木が覆っていて、苔が生えて緑がかった鳥居を完全に飲み込んでいる。鳥居はその石らしさを消して木々に擬態し、木々が外縁を縁取る青空の中で目につくくらい真っ白な雲は足早に過ぎ去っていく。
人々とさも変わらないとばかり自然もこの古びた本殿には見向きもしない。
いつだってここに来ると世界にいる人がまるで自分一人になったかのような感覚に陥る。
この世界には人が多すぎる。
僕の好きな小説だって、漫画だって、ドラマだって。限られた登場人物で生活の一部のみが取り上げられて物語が進む。人間関係はとてもわかりやすくて、論理的だ。
しかし現実はどうだろうか。
一日に出会う人々すべてに確かな彼らの物語がある。
複雑な人間関係を作り出し、僕の知らないところで人は出会うし、別れてもいる。
知ったはずの人物が知らない顔で知らない人物と親しげに笑っていたりする。
相手の感じたこと、体験したことのほんの一部しか僕は知り得ていないのだから、相手の行動が理解できなくたって、非論理的に見えたって、なにも珍しくない。
あらぬ誤解だって生まれる。知らないからこそ疑いたくもなる。
深く知らないことには、相手を深く信頼なんてできない。
だからといって全ての繋がりを、関係を把握することは到底不可能だ。
ならば初めから、大勢の人が複雑に入り組んだ世界のことよりも、閑散として緩やかな日々の中で、小さな平穏をよく知る身近な人と享受しているだけで良かった。
僕は普段からこんなことを考えているわけではないが、どうやら僕は周囲の環境に影響されやすいらしい。神社にいるとなんだか感傷的な気分になる。
ふと、僕は誰かから見られているような寒気を感じた。
はっとなって周囲を見回すと、少し離れた大木の木陰に誰か人の気配を感じた。
二十代前半のような若い顔立ちで目元が鋭く、長身で特に足がすらっと細長い男が幹に背をもたれかけるようにして立っていた。
明らかにこちらを見ている、というか目をこらしているといった方が正確だ。
その三白眼は鋭さを放ってはいるものの、どこか精気の抜けたような虚ろな雰囲気を醸し出していた。
ほどよく伸びた癖のある黒髪は若々しさを象徴し、ネイビーのドットシャツと白のパンツは活気盛んな二十代特有のそれを表わしているようだったが、シャツとパンツの妙なヨレヨレ感が台無しにして
しまっている。
それがなんだかこの本殿の雰囲気と噛み合っていた。
しん、しん、しん、しん。
その男は意を決したようにこちらへゆっくりと歩き出す。
僕は周囲を見渡すが、僕とその男以外にこの場にいる者はいない。
静寂を突き破る白砂を踏む不気味な音だけが耳に届く。
しん、しん、しん。
ゆっくりと歩いてくる。
明らかにこちらへ向かってくる。
精気の抜けた目が僕を捉えていることが何よりの証拠だった。
僕は男に対して警戒し、少し身構えることにした。
「お前は生きているだけで価値を持つ存在になりたいか?」
その男は僕の十歩ほどの距離まで近づくと立ち止まり、そのように言ったらしい。
僕はその言葉の意味を捉えあぐね、聞き間違えたのではないかと思案する。
「生きているだけで価値を持つ選ばれた人間になること。お前はそうなりたいか?」
その男は再び口を開くと確かにそう言った。
見も知らぬ男によく分からないことを言われ、困惑するとともに恐怖を感じる。
僕は男から二歩下がり距離をとった。
確かに僕は価値のある人間になりたい。
しかしこうも他人から言われると胡散臭いのはなぜだろう。
新手の宗教勧誘か何かなのだろうか。
ひとけがないこのような場所では周りの人に助けを求めることもできない。
常識は大勢の人の前ではないと機能しない。
僕とその男の常識は明らかに異なっているようだったが、だからといってその男と向かい合うしかない。自らの時運の悪さを軽く恨んだ。
「言っている意味がよく分からないのですが…… 。」
「お前はオレと同じことを思っているし、同じ眼をしている。価値があって求められたい。しかし世界に何億人と人がいる中で必要とされるほど価値があるなんて簡単なことじゃない。それにお前はなれるんだ。老わなくもなる。ずっと生きてこのセカイの行く先を見てみたくはないか?」
『セカイの行く先』なんていう青臭い台詞を吐く男からは明るい雰囲気がまるで感じられなかった。
この常人離れした台詞の本意を読み取れるほど、僕の脳の処理能力が追いついていないし、僕の何を見てそんなことを勝手に決めつけたのか分からなかった。
僕にだってプライドがある。
自分の顔が上の下くらいだと自負している僕が、死んだ魚の眼のこの男と同じ眼をしているだと。
冗談じゃ無い。
戯言もいい加減にしてほしい。
「あなたは何なのですか?」
図らずも声に苛立ちを帯びていることが自分でよく分かる。
「ああ、残念ながらオレは自分がよく分からない。たくさんのものを失ったオレが何のために生きているかも分からない。ただオレは価値がある。それだけは分かるし確かな事実だ。このセカイのことは誰よりも知っている。お前もそれを望むのだろ?」
木々の生い茂る境内を風が颯爽と駆け抜け、木の葉をさらさらと揺らしていくが、枝から離れるようなか弱いものは一つも無い。
長年、この古びた本殿を守ってきた木々は伊達ではないようだ。
この男の言う“価値がある”とはつまはじき者的自己肯定、つまり世間から疎まれるような一人よがりな考えの可能性がある。
だから僕は真剣に話を聞いてはいけないと思った。
「僕はただの“普通”の高校生だ。それ以外の何だと言うのですか」
ふと口にした言葉は少しばかり怒気を孕んでいた。
それと同時に頭をがんと何か重いモノで殴られたような衝撃と胸の奥でキリキリとした痛みが鋭く走る。
見たくも無い自分、認めたくない事実が男の言葉に触発されて、前触れ無く唐突に、自分の口から出てくる。
「普通?普通。普通………… 」
男は僕の痛い自白を聞き、それから同じ言葉を繰り返して少し考え込む動作をする。
この男は不愉快だが、僕が急に熱くなり、言いたくもないことを勝手に言うほどの何かを持っているのかもしれない。
僕の知らない僕はとても嫌いだ。
こんな自分が僕の思考の外から急に現れて、感情を乗っ取り、勝手に言葉が口から飛び出すものだから、余計にタチが悪い。
男は何を理解したのか、ほっとしたように軽く頬をかき、非常に軽くだが口元を緩める。
「普通を望んでいるのか?そうではないだろう。お前は物足りなく思っている。信念を貫けるお前ならできる。今日、オレがお前を見つけたのも何かの巡り合わせだ。長かった。本当に」
「全くもって言っている意味が分からないのですが」
「すぐに分かる。それにお前もそれを求めている。”価値がある“ということを。初めはとても楽しいモノだ。…………これでお役目ごめんだ。ありがとう。これから長くなるが、がんばれよ、少年」
男は急に人間味を帯びたことを言って疲れたように笑った。
社会人になって社会というものを一足先に知り愚痴を垂れる。
人はいつからか自らの意思や信念を捨てて自分を変えることで環境に適応していく。
一方でまだその段階にない後輩たちにはかつての良き先輩でい続けようとするような、社会に厳しさをひた隠そうとする二十代前半特有のその表情を僕はどこかで見たことがある気がした。
それは家を飛び出して、今はどこかで勝手に一人で生きているだろう兄が、家出する前によくしていた表情にとてもよく似ていた。
頭のどこかが壊れているのではないかと思うほどの男の変貌ぶりに、僕はますます怪しいと思った。
もう二、三歩下がろうかと足を動かしかけた時には、僕の目の前に男の姿は無かった。
えっっっっっっ。驚いて僕は逆に前につんのめってしまった。
しんーーーーーー。
とっさに出した僕の右前足による白砂の音だけが誰もいない境内に静かに響き渡る。
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