三日に一度しか目覚めなくなった僕が二度目の高校生をやった話
羽田智鷹
第1話
瞼をゆっくり開くと暗闇の中で映える無数の光が優しげに僕の目に飛び込んでくる。
カタカタカタカタ。
無機質な音が淀んだ部屋の空気を小刻みに震わせていた。
振動の源は恐らく背後一メートルにも満たない距離にある家庭用プラネタリム投影機だった。
プチブームを起こしている最新モデルに比べると少しだけ古い旧型のそれは一まわり大きくて存在感を放っている。
高校生が勉強するには小さくて不便極まりない勉強机と置き時計、それに詳細なスケジュールやメモの書き加えられたカレンダー。
それ以外部屋には何もなかった。
ただ広いだけの質素な勉強部屋兼寝室で、星が施された投影機のカセットは規則正しい速度で回転し、高校生二年生にしては不審に思われるくらい簡素な寝室の隅々にまで響き渡っていた。
僕は星を見ているのがこの上なく好きだった。
だけど部屋では決まった場所にしか流れ星を出現されることが出来ない。
新鮮味がないからお願い事を唱えようとも思わないが、そもそも僕に願いなんてものはなかった。
何も考えず星をぼんやりと見ているときでさえ、どこか物足りなさを感じてしまう。
そんな毎日のはずだった。
目が次第に暗さに慣れ始め、真っ先に目につくオリオン座の三連星からそのまま左下に辿る。
青く輝く一等星のシリウス。
もはや見つけるのは造作もない。
少し上に目をやってプロキオン。
もう一度オリオンに戻ってひときわ輝く赤い星。
冬の大三角形を一筆書きに目で追った。
眠気は完全に雲散する。
首を90度左に回転させて白一色のアナログ時計を見ようと思ったのだが、思った以上にそれは後ろに置かれているらしい。
僕は寝相がいい方だと自負しているので、恨むなら眠りに落ちる前の自分だろう。
しかたなく上半身を起こす。
部屋に充満している心地よい静けさの中で、ガサゴソという人工的な不快音が生じる。
体の微かな動作すら強調されるかのように、ひときわ大きく部屋中に響き渡るのを感じる。
--4月4日(水)17 :00--
いや違う。
これだからアナログ時計は。
ひとまず起き上がると、カーテンを開けてひとたび暗闇とおさらばする。
まだ上って間もない太陽が部屋中を明るく照らす。電気をつける必要もない。
日頃の習慣によると今はきっかり6時だろう。
壁に掛かる黒と白で書かれたモノクロのカレンダーで日付を確認する。
4月6日(金)
高校二年生としての始業式から二日がたった日であった。
少し前にここへ引っ越したばかりの僕はかつてのモノをほとんど全て置いてきた。
けれども使い古したこの白一色のアナログ時計だけは迷いなくつれてきていた。
こいつには十分な愛情表現をしたつもりだが、もっと構ってほしかったとでもいうのだろうか。
見ると秒針を一秒たりとも動かしてくれちゃあいない。
心の広い僕は彼のかわいい反抗とでも捉えておくことにする。
「 一応クラスが同じなんだから、少しくらいはクラスのために動けよ」
男子の興奮気味な怒声が蘇る。
僕に向かって鋭く発せられる。
その目は血の気が溢れ出しそうなほど僕を真っ直ぐ睨んでいた。
親の敵であるかのようにクラスの委員長は行事に消極的な僕に真っ当な怒りと至極個人的な怒りを同時にぶつけてくる。
覚醒しかけた意識が不意に前の高校での鮮明な記憶の断片を脳内で呼び起こしかけていた。
そこにあったはずの教室の喧噪は跡形もなく消え去り、僕に視線が集まる。
嫌悪。
期待。
好奇。
クラスの空気は様々な感情が交ざって凸凹だ。
呼吸ができない空気感が、必死に手が感触を確かめようと、もれなくみんな、一人一人の感情を確かに読み取ろうとする僕の前に立ち塞がって邪魔をする。
反論しようにも正しい言葉が見つからない。何を言っても間違う気がする。
心の広いはずである僕がなんで今更になって昔のことをーーー、と僕はかぶりを振って、無理矢理にもそれを遠い記憶の深い奥底へと押しやり、意識的な出来合いの封印を施した。
投影機のスイッチをポンと軽く押して停止させ、寝室を出るとひとまず浴室へ向かう。
温水のスイッチを押してシャワーの蛇口をひねる。清々しいくらい思い切りに水を流す。
突き出した左腕は流水の勢いのなすがまま、生まれた激しい衝撃にうなだれそうになる。
今冬の例年まれに見ない寒波はどこへやら、気づけば春らしいうららかな陽気であった。
初めは冷たい水のじわじわと温まる時間が日に日に短く感じるのが何よりの証拠だ。
左手から伝わるぬくもりを感じても、突然生じた心の悪寒は気にすれば気にするほど、その冷気を増していく。
僕の体中に広がり、いずれは心と思考を冷血で満たしかねない。
僕は急いで衣服を脱ぎ、浴室の外へ放る。
全身で温かな水を浴びて、汚れとともに生きていく上で不必要で、邪魔な記憶を一つ残らず洗い流していく。
僕は生きているだけで価値があるような人に憧れていた。
そのような人間になりたかった。
人間はそれぞれ個性を持っているし、その使い道はそれぞれ異なる。
ただ使いものになるかどうかはまた別の話。
こんな僕にも上手い使い方があるのかどうか。
ーー今の僕には分からない。
失って始めて大切さを知る滑稽さはいつだって嫌になるほど身に滲みている。
だから本当に大切だと思えるモノは決して手放さないと決めた。
何が大切なのか。
何を大事にすべきなのか。
何を失ってはいけないのか。
心では確かに分かっているはずだ。
日々人から好かれるよう努力をし、その行動の一つ一つが僕という人物の良し悪しを形作る。
周囲からの測られる尺度になるのだと考えている人間と、本当の価値がある人間が根本的に違う存在であることは嫌と言うほど知っている。
人間周りの反応から自分という存在を知るのならば、彼らの方がよっぽどよく自分を知り、なすべき役割を知り、上手く行動できる。
僕の毎日はいつだってまるでスタメンぎりぎりのスポーツ選手のような気がしていた。
シャワーを浴び終わり、タオルでしっかりと水分をふき取る。
居間に入ると淀んでいた空気は幾分柔らかくて透明になっている気がした。
息苦しさが和らいで、一度深く深呼吸をする。
部屋着に着替えて冷蔵庫の中をあさる。
滅多に買い出しに行かないため、賞味期限の長いジャムや缶詰、冷凍食品にインスタント、日干して乾燥された魚と冷凍した肉が多い。
いつもの味噌汁と有り合わせで一人分の朝食を作った。
朝霧高校二年生。つい先日、新たな転校先で新学期が始まったばかりだった。
厚い友情。輝かしい青春。子供でいられる最後のゆったりとした時間。
僕の目にはその全てが美しすぎて顔を上げ、真っ直ぐ見つめることさえできない。
自らが望んで手を伸ばさなければそれらはすぐに過ぎ去ってしまうだろう。
そんなことは過ぎ去る前からとうに分かりきっている。
見るといつの間にか食器の中身は空になっていた。
皿を流し台まで持って行き、素早く洗い物を済ませると、電源を切って眠っていたスマートフォンを起動させる。
ーー4月6日(金)7:13ーー
着慣れた癖がなくまだ糊で固い、誰が見たとしても真新しくて心躍る制服に腕を通す。
しかし僕には心が躍るというよりも不安と面倒くさいが大きい。
なぜ高校生として学校に通わなければならないのか。
不意に山積みに置かれた歴史学に関する本に躓きそうになる。
僕は今ではあれほどまでになりたかった『ただ生きているだけで価値のある人間』になった。
目標のため。ミスを帳消しにするため。
皆過去に囚われ、あるいは未来に今を投資する形で生きている。
未来なんて起きてみなければ分からないし、悩み事は大抵時間と何気ない行動によって解決する。
だから今、自らの周りをもっとよく見るべきではないか。
しかし、本当にそんなことが出来るのは未来に対する目標も期待もない”僕”のようなヤツだけかもしれない。
無限にも思える時間。
そんな今と向き合って、今を全力で浪費しているのが僕だった。
真新しい靴を履き、扉を開けると朝の爽やかな風が玄関を突き抜ける。
しかし風は僕を無視するかのように何の干渉もなく足早に駆け抜け、くぐもった部屋に小嵐を起こして消えていく。
近所の探索は済ましたはずだったが、玄関の外はやけに眩しい。
目に毒だ。
なんだかはっきりしない、不安定な世界のように感じる。
冷たく手荒な風が人々を無差別に襲っているのが見えた。
僕は身の引き締まる思いで後ろ手に鍵をかけた。
脚は思い通りに動く。興奮している自分も多からずはいるらしい。
前置きが長くなってしまった。
鋭い方はなぜ高校生が一人暮らしを、と端を発し始める頃かもしれない。
『僕は、厳密に言うと高校生であって、高校生ではない』
これは僕を奮い立たせる魔法であって、束縛の戒めでもある。
簡潔に言うには少し込み入った事情があるので、時間をしばしば遡る。
ことの始まりは僕が高校二年生の初春。
まさに今と同じような春らしいとは言い難い日だった気がする。
それは不意に起こった。
僕の予定には記されていない出来事で、後から振り返ってみてもそれが重要であるとも気づかない。すぐに忘れてしまうような出来事だった。
つまりは始まりを始まりと捉えることはすごく難しいってことだ。
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