第13話 源さん
それは今から10年以上前の話。
まだノッコが売り出し中の無名のミュージシャンで日夜ライブやバイトに明け暮れて悪戦苦闘している日々を送っていた頃だった。その時ノッコはまだ20代後半だった。
ある日の夜、吉祥寺のライブハウスでノッコはピアノの弾き語りをしていた。駅から少し離れたところにある「モンテルロ」という名の少し古い寂れた地下にあるライブハウスだった。ノッコはステージの上に立ち最後の歌を歌おうとしていた。時刻はすでに夜の11時を過ぎていた。時間帯のこともあるが、観客はいつもながら少なくステージはガラガラだった。
「みなさん、長時間立ってくれてお疲れだと思いますが、まだまだ元気は残ってますか?いよいよ終わりに近づいてきて最後の曲になりました。これは私の亡くなったお母さんとの思い出を元に自分の想いを綴った曲です。みなさんもお母さんのこととかいろいろ思い出がたくさんあると思いますが、私の場合は高校生のときに母は癌で亡くなってしまいました。大人になったときならある程度は覚悟はできていると思いますが、私の場合はまだ高校生で思春期まっただ中で、なんていうか・・・本当にショックがはかりしれなくて、本当に何か月も泣いてばかりいたのを覚えています。母は私に本当によくしてくれてそしてとても優しい人でした。その時の悲しかったこと、辛かったこと、そして優しかった母との思い出を歌にしました。『マザー』です。聞いてください。」
ノッコは歌い終わるとライブハウスの控室で着替えていた。
「今日も客さん少なかったな・・・」
ノッコがため息をつきながらそうつぶやくとライブハウスのオーナーが部屋に入ってきた。
「ちょっといいかなノッコくん。」
「はい・・・」
何だろ、とノッコは思った。
「なんていうか何から話したらいいのか分からないけどさ・・・」
オーナーは少し深刻そうな面持ちだった。
「前もちょっとだけ話したよね?言いずらいことではあるんだけどさ・・・ノッコくん最近さ・・・お客さんどんどん減ってるじゃない?チケットの売れ行きも悪いし・・・このまま赤字が続くとちょっとうちとしてもこれ以上君をステージに出させるわけにはいかないんだよね。」
オーナーは申し訳なさそうにそう言った。
「それって・・・クビってことですか?」
「いや・・・クビだなんて人聞き悪いな・・・まあ契約解除っていってほしいな。」
でも、実質同じような意味だった。
ノッコは少しだけショックだったが、ステージに立っているとお客さんがどんどん減っていたのは一目瞭然だったので、自分でもそろそろオーナーからお声がかかると覚悟していたので別段驚きもしなかった。
「そうですか・・・分かりました。」
「ごめんね・・・何とかしたかったんだけどね。でも経営上の問題もあるからさ。僕も君のこと応援してたしとっても残念なんだけどね。」
「ありがとうございます。長いことお世話になりました。」
ノッコはそう言ってライブハウスを後にした。
ライブハウスの外にある暗い階段を上って地上に出ると季節はすでに冬にはいっていて、寒い夜空の都会の中で自分はただ一人孤独になったような気分だった。
ある日、ノッコは三鷹方面の駅から大分離れた郊外にあるボロアパートで目を覚ました。
時刻はすでに昼の12時を回っていた。髪はぼさぼさで部屋は散らかり放題で、テーブルの上にはコンビニで買ってきた弁当やらペットボトルやらビールの缶が大量に置いてあった。いつもは昼過ぎまで寝ていたので、目が覚めたというのも携帯に電話がかかってきたからだった。コンビニの店長からだった。
「もしもし・・・」
「もしもし、ファミリーワン三鷹店の川合ですが・・・」
「あ・・・店長ですか・・・おはようございます。」
気のない返事をノッコがすると
「おはようございます、じゃないでしょ。今何時だと思ってるの?今日シフト11時からでしょ?何してんの?」
店長はかんかんに怒っているようだった。
「この前も遅刻したし、休みも多いし、最近どうなってんのよ?」
「すみません・・・体調悪くて・・・しばらくお休みしてもいいですか?」
「ちょっと・・・いきなり何いってんの?突然そんなこと言われても困るんだよね。いいからさ、今からでもいいから来なさい。」
「じゃあ・・・クビにしてください・・・辞めます。」
「クビにって・・・ちょっとなにいって・・・」
店長がそう言いかけたらノッコは電話を切ってしまった。
電話をベットの上に放り投げると、ノッコはぼさぼさの髪のまましばらく天井を眺めていた。つい先日も週2回だけやっていたピアノバーでの演奏のバイトもやめてしまっていた。これで実質ノッコは無職になった。おまけにライブハウスもクビになっていた。世間的に言えばプー太郎以下のニート状態かもしれなかった。
窓からの朝日がやけにしみて眠れなくなったので重たい体を起こしてノッコは外に出かけた。またコンビニでパスタやらラーメンやらを買い込んでしばらくそれを食べて過ごそうとした。たまにレストランや吉牛みたいなところで食べることもあったが、ほとんどコンビニ弁当でやり過ごしていた。とにかく外で人に見られるのが嫌だった。人がたくさんいるところにいると自分がみじめで仕方がなかった。部屋にいれば誰も情けない自分を知らない自分だけの空間にいられた。
そんな自堕落な生活が何ヶ月も続いたある日、リナから携帯に電話がかかってきた。
「リナ久しぶり、元気?」
「元気?じゃないわよ。今何やってるのよ?」
「え今?今起きたところ・・・これから昼ごはん食べようかなって。」
「ちょっとどういう生活してんのよ・・・」
リナはあきれてそう言った。
「別にいいでしょ・・・リナには関係ないでしょ。」
「関係ないって・・・」
リナがそうささやくとノッコは
「何か用?」と聞いた。
「あ・・・そうだ・・・あんたライブハウス辞めたって本当?この前ライブハウス覗きにいったらさ、スケジュールにあんたの出番全く書いてないし、オーナーに聞いたら辞めたって。」
ノッコは触れてほしくない話題にリナが触れてきたのでうっとおしくなった。
「どういうことよ?辞めたって?」
「別にいいでしょ?しばらく休業中」
「休業って・・・」
しばらくノッコは電話越しにぼーっとしていた。
「いつ再開するの?新しいライブハウスの当てとかあるの?」
母親みたいに根掘り葉掘り聞いてくるリナがうっとおしくなったので
「そんなの分からないよ。まだ決めてない。もうほっといてよ。じゃあね。」
ノッコは突然電話を切ってしまった。
ノッコはうんざりしたので気分を紛らわそうと昼間っから酒を飲んで、そのまままた二度寝をしてしまい、起きたらパチンコに行き、その後一人で居酒屋で夜中まで飲んだくれた。
またしばらくしたある日、また部屋でカップラーメンを食べているとテレビから昼のワイドショーで殺人事件が取り上げられていた。もうしばらくニュースなんて見てなかったので驚いたが、どうやら世間を賑わしている大事件のようだった。
「丸岡誠也容疑者は殺害された女性にどうやら養ってもらっていたようです。知人によれば丸岡容疑者は元歌手で以前は子供向け人気アニメ「ガリセイバー」の主題歌がそこそこヒットして印税で暮らしていたようですが、その後ヒットに恵まれず、職を転々としていましたがやがて無職となり、女性宅に転がり込んで実質ヒモ同然の暮らしをしていたようです。近所の事情に詳しいある人の話によれば、それが、女性が他の男と付き合っていることを知り丸岡容疑者は激怒したと言います。昼間から絶えず口論をしているのが外にも聞こえてきたようです。そして、その恋のもつれがきっかけである夜に激しい口論になったようです。そして、その男は女性を台所にあった包丁で殺害し、現金とクレジットカードを盗んで逃走した模様です。」
ワイドショーのレポーターはそのように語りながらその殺害現場のアパートへと向かっているようだった。
ノッコはよくある恋のもつれの話だなと思い無表情でそのニュースを聞いていたが、次第に気分が悪くなったのでテレビを消した。なぜかは分からないが、その男の気持ちが少し分かってしまった自分が嫌だった。音楽で仕事をして食べていくことがいかに大変かを思い知らされたノッコはその男がとてつもなく精神的に追い詰められていたことが分かってしまった。世間的に見ればどうしようもないクズ男なのかもしれないが、一度でも音楽の道を志したことがあるものならばその過酷さは嫌というほど理解できる。だからノッコはテレビを消したくなった。
その夜、ノッコはコンビニに行きお金を下そうとすると残金がすでに20万以下になっていることに気が付いた。あまりにもお金に無頓着に自堕落に生活していたため貯金が底をつきそうだった。このままではまずいと思った。何か仕事を探さなければ生活ができなくなる。その前に滞納が続けばアパートも追い出されることになる。
ノッコは翌日また昼間に起きてコンビニに買い物に行こうと外を出ようとしたら、アパートの外でばったり父勝則と会った。
「お父さん・・・」
「はいよ」
「ありがとう」
父勝則が紅茶を出してくれた。
ノッコは今実家の喫茶店「クレッシェンド」に帰ってきていた。
喫茶店の二階にあるダイニングで二人向かい合って座っていた。
「リナちゃんから話は聞いていたが、まさかバイトの仕事もやめていたなんて。心配して見に行ってよかったよ。」
「うん・・・」
ノッコは下をうつむいたままそう言った。
「何度も電話したのに全然携帯繋がらないしさ・・・変だと思ってさ。」
「うん・・・」
ノッコはただひたすらうなずくようにそう言った。
「電話くらい出なさい。心配するだろ。」
「うん・・・」
勝則は「はー」とため息をついた。
「何があったのか知らないが、とりあえず仕事が見つかるまでだぞ。それまでは面倒みるから。」
「うん・・・」
「昔お前が使ってた畳の部屋が空いてるからそこ使いなさい。」
「ありがとう」
ノッコは実家に帰っても相変わらず昼まで寝ていた。何をするでもなくただボーっとしてただ無駄な時間を過ごしていた。夜は父勝則が夕飯を作ってくれたのでコンビニ弁当を食べたり居酒屋で飲んだくれることはなくなったが、相変わらず昼まで寝ているぐーたらの無職ニート状態だった。そんな生活が何か月も続いたのでさすがに勝則は見かねてある日ノッコが昼まで寝ていると部屋に入ってきた。
「こら、起きなさい。」
そう言ってカーテンと窓を開けた。眩しい日差しが窓から差し込んできた。
「うーん眩しい」
「いつまで寝てるんだ。いい加減にしなさい。」
父勝則は少し不機嫌そうになってそう言った。
ノッコはまだ眠くてベットでごろんごろんと寝転がっていると勝則はノッコから毛布を剥いで取り上げた。
「寒いよ、お父さん」
「何時だと思ってるんだ。」
そう言われてもノッコは断固として起きなかった。
勝則はため息をついてさすがにあきれ顔になった。
「いつまでもそうしてなさい。」
そう言って店のある1階まで階段を降りて行った。昼休みが終わって喫茶店の仕事を再開するようだった。
ノッコはその日は二度寝してしまい、起きたときにはすでに窓から夕焼けが見え始めていて、我ながら自分の生活リズムがめちゃくちゃになっていることが情けなくなった。その日、勝則は機嫌が悪く夕飯を作ってくれなく、一人でどこか外で夕飯を食べに行ってしまったようだった。すでに閉店していたので、店は静まりかえっていた。ノッコは仕方なく残り少ない自分のお金で近くのコンビニへと向かった。
コンビニでは騒がしい音楽がかかっていて目が急に覚めた。今日はおにぎりとカルボナーラでも食べようかと思って、買い物かごの中に入れた。ビールも大量に買い込んだ。そして何かデザートも久しぶりに食べようかなと思って棚を見たら、そこにコーヒーゼリーがあった。周りはほとんど売れてしまっていて、最後の売れ残りの1個だった。ノッコはぽつんとそこに置き去りにされたコーヒーゼリーと自分を重ねあわせてしまい、つい見とれてしまった。何かコーヒーゼリーが自分に話しかけてきているような気がしたのだった。
「私を買って」
そう言われている気がした。
するとこの黒いゼリーの部分が途端に今の自分に見えてきた。誰からも必要とされていないダメな自分。世の中で取り残された情けない自分。黒いダークなゼリーが底に沈んでいるのが、どうにもこうにも世の中の底辺を彷徨ってもがいているダメな人たちが上から押さえつけられて這い上がれなくて、今にも押し潰されそうになっているような光景に見えた。それを見た瞬間に
「私たち似てるね」
とノッコは思った。
でも上にのっかっているミルクを見たその瞬間何だか、その白い部分が何か温かみのあるものに感じ取れた。こんなダメな自分でも何かが見守ってくれてるようなそんな感じが・・・・
そんな風にコーヒーゼリーを眺めていたらとたんに泣けてきた。
次の日もノッコは相変わらず昼まで寝ていた。
勝則はまた怒った様子で階段を駆け上がってきた。
「おいまた昼まで寝てるのか?」
「うーん」
ノッコは眠たそうにそう言うと
「いい加減そろそろ仕事を探しにいきなさい」
勝則はそう言った。
ノッコは黙ったままふとんを頭からかぶってしまった。
「仕事を探さないのなら店くらい手伝いなさい。学生時代まではたまに手伝ってくれてただろ?仕事を手伝わないのなら本当に出て行ってもらうぞ。」
勝則はそう提案した。
ノッコがいつまでもぐーたらしているので仕方なく妥協したようだった。
追い出されるのはさすがにまずいことになるのでノッコもそれに応じようとした。
着替えて1階まで下りて行くと
「これ店のメニューだから」
と言って勝則はノッコにメニューを渡した。
ノッコは一通りメニューを眺めてみたが、昔とはだいぶメニューが変わっているようだった。
「なにこれ、メニュー全然変わってるじゃない。」
「そうか?最近心機一転で新メニュー増やしたんだ。そういやここんとこ紀子ずっと来てなかったもんな。」
ノッコもライブの客が毎年のようにどんどん減ってきて自分のことで精一杯というか必死そのものだったので、ここ1年くらいはろくに実家に帰ってなかったのでそれもそうかと思った。
「じゃー今日すぐには無理か・・・もうすぐ開店してしまうから今教えてる暇ないんだ。しょーがない、じゃあ徐々に覚えてもらうとして。じゃあ今日は夕飯の買い出しに行ってきてくれ。仕事しないなら夕飯くらい作ってくれ。何でもいいから。」
「わかった」
そう言われてノッコは近所のスーパーに買い物に行くことにした。
とりあえず定番のカレーを作ることにした。じゃがいもとにんじんと玉ねぎとカレー用の鳥のもも肉とルーを2種類買った。違うルーを2種類混ぜるとおいしくなると、小さい頃に父に教わった。
スーパーで買い物をし終わり外に出ると太陽がやけに眩しかった。久しぶりに昼の太陽を浴びて少しだけ気分がよくなったような気がした。今まで夜以外ろくに外に出なかったのだからそれもそうかと思った。
帰り道に少しだけ道を変えて家に帰ろうとしたら、ある通り道で昔はなかった新しい保育園のようなものが目に付いた。しかし、それはよく見ると保育園ではなく親のいない子供を預かる施設のようなところだった。外から子供たちが施設の庭で遊んでいる姿が見えた。ブランコで遊んでいたり、滑り台をすべっている子供らがいた。中にはふてくされて下を向いていたり、一人で砂場の砂を蹴って遊んでいる子供もいた。それを見て、自分もそう言えば小さい頃は義理の父と母に引き取られる前にこういった施設にいたのだなと思った。ほんとに小さい頃で、しかもすぐに引き取られたらしいのでほとんど記憶にないのだが、なぜか懐かしい感じがした。この場所が自分のルーツなのだなと思った。
しばらく子供らの遊ぶ姿を眺めていたら、いじめっ子のような子が年下のような小さい子をいじめて泣かせていた。すると施設の職員らしき女性が喧嘩を止めに入ってきた。
そして子供たちに
「ダメでしょ泣かせたら」
と言って注意して言い聞かせていた。
親のいない子たちはきっと内心複雑で心が荒れているんだろうなとノッコは思った。親の愛情に飢えていたりきっとそのことでもがき苦しんでいるに違いない。自分の場合は、小さい頃に今の義理の両親に引き取られたからまだ運のいい方だったのかもしれない。
そんなこんな色々なことを考えたらふと我に返って、早く家に帰ってカレーを作らなきゃと思い、急いで家路に向かうことにした。
その日の夜はノッコがカレーを作って父勝則と2階のダイニングで食べていた。
「あのさ・・・お父さん」
「ん?何だ?改まっちゃって」
勝則はそう聞き返してきた。
「今日さ・・・スーパーの買い物の帰りにね・・・児童施設みたいなの見かけた。」
「何だ・・・」
勝則は不思議そうな表情をしながら言った。
「あの細い通りの新しくできた児童養護施設だろ?少し遠回りじゃないか。なんであんな道通ったんだ?」とさらに聞いてきた。
「まあ、気分転換にちょっと遠回りに散歩しようと思ってさ。まあそれはともかく・・・
そこ通り過ぎたらね・・・昔の自分を思い出したんだ。自分のルーツっていうかね。そういえば自分も本当の両親いないんだなって。そう思ったら何だかその場所に急に親近感わいちゃってさ。しばらく子供たちの遊んでる姿とか見てたら自分も昔ああやって遊んでたのかなって思って。」
「そっか・・・まあでも紀子は本当に2歳とかになる前のほんの小さいときにうちに来たから多分ほとんど覚えてないだろ。」
「そうだね・・・全然思い出せない。」
「そりゃそうだろ。」
勝則はそう言ったあとカレーを少しだけ食べた。
「でもね・・・何かその児童施設を見てたら何だか自分のルーツっていうのかな・・・生い立ちとかそういうのがすごい気になりだしてね・・・どうしても本当の両親に会いたくなったんだ。」
勝則は少し怪訝そうな顔をした。
「本当の両親って・・・何をいまさら。学生時代なら分かるが・・・紀子はもういい年した大人じゃないか。何で今更会いたいんだ。」
「分からないは。私だって何でかなんて・・・でも、どうしても会いたいのよ。」
勝則はため息をついた。
「それよりか仕事を探したり生活の心配をすることが先じゃないのか?音楽活動だってまたいずれ始めるつもりなんだろ?だったら・・・」
「それは分かってる。今お父さんに迷惑かけてることだって分かってる。ちゃんとしなきゃってことも。だから、もう少しだけ待って。いい年して自分探しっていうんじゃないけど、何か自分の中にわだかまりが残っているままだと前に進めないような気がするの。」
「前に進めないか・・・」
勝則はコップに入っている麦茶を飲んだ後にそう言った。
「私ね・・・何で音楽を始めたのかなって考えて・・・その理由って学校の音楽教室で出会った伊藤先生だとずっと思ってた。でもね・・今思えばそれはきっかけの一つに過ぎなかったんだって。今日児童養護施設で子供たちの姿を見てそうはっきりと感じたの。私もあの子たちと同じで自分のルーツを知らないんだって。自分が何者なのか分からないんだって。両親がどんな人でどういう性格や遺伝子を受け継いでるのかとか。そういったこと何も知らないんだって。だからね・・・私はもしかすると自分探しをするために音楽を始めたんじゃないかって。音楽を通して自己表現することで自分が何者なのか見えてくるんじゃないか、みたいな?まさに音楽が私にとっての自分探しの旅だったんだって。」
ノッコは音楽のこととなると時々哲学的なことを言いだす。勝則もそういうノッコのことをよく知っていた。
「確かにそう言われてみればそう思えなくもないな。私には音楽のことはさっぱりだが、紀子がそう言うんならそうじゃないのか?しかし、そうは言ってもだな・・・」
「そうは言っても?」
「今更その両親に会って何を確かめたいんだ?」
「それは私にも分からない・・・自分探しに終止符を打ちたいわけでもないし・・・でもとにかくそんなこと考えてたら私という人間や私の音楽ってなんなんだろ?って思っていてもたってもいられなくなったの。だから本当の両親に会いたいの。」
勝則は「はー」とまたため息をついた。
「分かった・・・そこまで言うならもう止めないよ。ただ・・・」
「ただ・・・?」
勝則は少し間を開けた後に
「どうやって会うつもりなんだ?」
と言った。
「私はその方たちのことはほとんど何も知らないんだぞ。苗字だって谷川だったかそんな名前だったことくらいしか覚えてないし。もうかれこれ20年以上も前の話だからな。」
ノッコはしばらく考え込んだあとに話し始めた。
「前にお父さん言ってたよね?本当の両親の方たちと親権を巡って裁判沙汰になりそうになったって。私を捨てた両親は、後になってやっぱり子供をもう一度引き取りたいって言いだしたって。それで一度谷川さんと面談で会ったっていってたじゃない?だからさ・・・そのときの面談のこととか裁判の記録とか辿ればもしかして何か分かるかもって。」
ノッコがそう言うと
「面談っていっても会ったのは一度きりだから顔すらほとんど覚えてないよ。それに・・・裁判にもなってないよ。その谷川さん夫婦はね、児童養護施設に親権を戻してもらうように要求したらしいんだが、すでに私たち夫婦が紀子を引き取ってから3年もたってたからね。だから親権はすでに私たち夫婦のものになっていたから裁判を起こそうとしたが却下されたんだよ。」
勝則はそう言った。
「そっか・・・」
ノッコは少しだけ残念そうに下を向いた。
「まあ・・・でもな・・・そのお前のいた児童養護施設に行けばあるいはなにか分かるかもな・・・まあお前の言うように面談のときの記録とか・・・あるいはその谷川さん夫婦がお前の親権を要求したときの記録がわずかに残っている可能性もある。そこから辿っていく方法があるかもしれない。20年以上も前だから記録なんてほとんど残ってないと思うがな。」
勝則はノッコがひどく残念そうにしていたので、そう提案をするかのように言ってみた。
「それだ!お父さんありがとう」
とノッコは身を乗り出してそう言った。
ノッコは次の日さっそくその自分が小さい頃にいたという児童養護施設を訪れてみることにした。その施設は八王子駅から大分離れた静かなひっそりとした場所にあった。駅からは相当離れていたので駅前からバスで近くまで来てから1、2分ほど歩いた。
施設の名前は「ひかりハウス」といい看板にそう書かれていた。20年以上前から建て替えもせずに変わってないのか建物はひどく古い感じにみえた。施設の外には普通の公園と同じように砂遊び場やら滑り台やらブランコやらシーソーやらがあったが、ノッコはそんなもので遊んだことはまったく覚えてなかった。
「こんばんは、先ほどお電話で伺わせていただきました山本です。」
紀子は施設の入り口でそう言うと奥から施設の職員らしき女性が挨拶しに来た。
「こんばんは、お待ちしてました。さあ、こちらへどうぞ。」
そう言われてノッコは受付の奥にある小さな部屋のようなところに案内された。
席に二人座るとその女性職員は
「はじめまして私、園田千恵と申します。ここで職員をやっております。電話で簡単にお伺いしましたけど、以前こちらの施設にいらっしゃったとか?」
「はい、もうほんの小さい頃なんですけど。」
「えっと・・・山本紀子さんですよね?調べてみましたが、少しだけ記録に残っていたみたいですね。でも、2歳になる前に里親が見つかったとファイルに書かれてました。」
「はい、そうみたいですね。まったく覚えてないんですが・・・」
「まあ、そうですよね・・・普通は4、5歳くらいになるまでほとんど記憶なんてないですもんね。」
「ええ・・・」
「えっとそれで今日はどのようなご用件で?電話で少しだけお話伺いましたけど、何か本当のご両親を探されたいとか?」
「はい・・・そうなんです。私の本当の両親は苗字は谷川というらしいのですが、一度私の親権を取り戻そうとこちらの施設に訴えて要求したみたいなのでもしそのときの記録か何かあればと思いまして・・・」
ノッコがそう言うと園田さんは難しそうな表情をし出した。
「そうですねーあればいいですけど、かれこれ20年以上も前の話ですよね?残っていればいいんですけどね・・・」
ノッコは少しがっかりしそうになった。
「そうですか・・・」
「でも・・・ちょっと待ってくださいね。奥の部屋にある資料室を見てみればあるいは分かるかもしれません。あそこは過去の記録とかかなり取っておいてあるんですよ。全部ではありませんが。でもまったく整理してないから探すのは大変かもしれませんが・・・」
そう言われてノッコたちはその資料室とやらに向かった。
園田さんは資料をしばらく探していた。まだ当分時間がかかるだろうと思って、ノッコは資料室の中をぶらぶらと歩くことにした。本棚には実にたくさんの資料があり、年代別に色々なものがファイリングされているようだったが、園田さんが言った通り年代順にきちんと整理されて並んでいるものばかりではなく中には1985年と棚に書かれているのに1990年のファイルが入っている本棚もあった。
20.30分ほどたった頃に
「あった!ありましたよ山本さん!」
と園田さんの歓喜する声が聞こえてきた。
その資料はちょうど22年くらい前のファイルに記録されているようだった。
その資料には谷川さん夫婦が「ひかりハウス」にノッコの親権を要求したときの記録が書かれていた。谷川さん夫婦のプロフィールなどの個人情報から親権を要求したい理由など、その他にも色々なことが書かれていた。しかし、その情報だけでは谷川さん夫婦がどのような人たちなのかまったくわからなかった。
「情報はこれ以外にはありませんか?」
ノッコは聞いてみた。
「そうですね・・・裁判が実際に起きていたならもっと詳細な記録が残っていたのだと思いますが、却下されてますから。うちにある記録はこれだけでしょうね。」
「そうですか・・・」
ノッコは少しだけがっかりした。これだけでは何も分からないと思った。
「でも・・・ここに谷川さんが住んでいる団地の住所が記載されてますからまだそこに住んでいるかもしれませんよ?本当は個人情報なので通常はお見せできないものなのですけど、本当の娘さんでしたらお教えすることも可能です。でも・・・もう22年も前ですからね・・・引っ越されてる可能性が高いですよね。でもそこに行ってみれば何か分かるかもしれませんよ。」
園田さんがそう言うとノッコはまた元気を取り戻して
「ありがとうございます!」とお礼を言った。
「ひかりハウス」の園田さんにお礼を言って施設を後にしたノッコはさっそくその団地の場所に向かうことにした。
その団地は光が丘の駅から少し離れた自然の多い閑静な住宅街にあった。
そこの団地は何十人もの住人が住んでいるようだったので一件一件調べていたら時間がかかってしまうので、入り口にある管理人室に行き管理人に調べてもらうことにした。管理人は50代から60代くらいに見える男性だった。ノッコが挨拶すると管理人も軽く会釈をしてきた。いきなり見知らぬものが行っても怪しまれるので、これを見せるといいと言われて園田さんに渡された「ひかりハウス」の文字の入った園田さんの名刺と谷川さん夫婦の親権を要求したときの記録のコピーを管理人に見せた。そしてノッコは順を追って事情を説明した。
「へー本当の親をですか。これはまた色々と大変なことを調べてるんですね。ご苦労様です。」
「まあ大変というか・・・本当に知りたいだけなんですけど。」
ノッコがそう言うと
「そうですか、分かりました。でもね・・・谷川さんという方は今はもうここには住んでらっしゃらないですよ。引っ越し先の情報が記録に残っているか分かりませんが、お調べするのは時間がかかりますよ。」と管理人はそう事情を説明してきた。
「かまいません、調べるのはどのくらいお時間かかりますか?」
「そうですね・・・1、2週間ほどお時間いただけますか?連絡先教えていただければ分かり次第お教えいたしますよ。」
しばらく日にちがかかると言われたのでその間ノッコは実家の店の手伝いをしながら連絡が来るのを待った。
そして10日ほどたった頃、管理人からやっと連絡が来た。団地の管理人室の資料にはそのような記録が残っていなかったので、管理人はわざわざビル管理会社に問い合わせて調べてくれたようだった。手間をかけさせてしまったようだった。
「谷川さんは今は田園調布の高級住宅街に住まれてるみたいですね。そちらの方に引っ越されてるみたいです。」
ノッコはついに両親の居場所を突き止めることができたと思った。管理人さんに聞いた住所を元に田園調布の高級住宅地へ向かった。それから団地のビル管理会社から送られてきた地図の情報をたどって何とかその場所へ行き着いた。田園調布と言えば高級住宅街で有名だがほとんど縁がないので行ったことがなかった。本当に高級という名の似合うすごいただずまいの建物ばかり並んでいた。それでいて緑豊かな自然にも囲まれていてとても住みやすそうな場所だった。
ノッコはしばらくその住所の周辺を探し回った。しかし何度その場所を探しても「谷川」という表札は見つからなかった。そして、谷川の住居があったと思われる場所は代わりに門倉という人が今は住んでいるようだった。変だと思ってもう一度そのあたりを一周してみたが、やはり見つからなかった。ノッコがあたりをずっとうろうろとしていたものだから、近所のおばさんの年齢らしき女性が不審がったのか声をかけてきた。
「何か門倉さん宅に御用ですか?」
そう聞いてきた。
「え・・・あ、そのまあ・・・はい」
突然声をかけられて自分が不審者に見えたのかと思ってノッコは突然しどろもどろになってしまったので、ますますそのおばさんは怪しそうな顔をした。
「この住所に谷川さんというご夫婦は住まれてないのですか?」
ノッコは単刀直入に聞いてみた。
「谷川さんのお知り合いの方ですか?」
おばさんはまだノッコを不審がっているようだった。
ノッコはこれ以上不審者扱いされたくなかったので、全て事情を説明することにした。
「そうなんですか・・・てっきり怪しい人かと思ってしまって・・・・すみませんね。」
おばさんは笑いながらそう言った。
「そう言うことなら最初からそう言ってくださいよ。本当の親を探してるって。でもね・・・残念ですがここにはもう谷川さんご夫婦はいませんよ。」
「いない?」
ノッコはまたどこかへ引っ越してしまったのかと思った。せっかく数少ない情報を頼りにはるばるここまでやってきたのに。
「えーまあ、住んでないというか・・・もう亡くなられてますから。」
ノッコは突然不意打ちを食らったような感覚に襲われた。亡くなった?
「本当に心苦しいですが・・・せっかく来られたのに本当に申し訳ないですけど・・・」
おばさんは本当に申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
「もうかなり昔ですけどね・・・10年くらい前ですかね・・・ご夫婦でどこかドライブに出かけていたときに不運にも交通事故に遭われたって聞きましたよ。まあ私は直接仲良くはなかったのですが、私の知り合いが谷川さんご夫婦と少しだけお付き合いがあったものでそれでそれとなく話を聞いたんですよ。」
「そうなんですか・・・」
ノッコはショックのあまり茫然となり声が出てこなかった。その様子を見て哀れに思ったのかおばさんは
「まあ・・・でもお気を落とさないでね。」と励ますように言った。
ノッコがだんまりしたままだったのでおばさんは続けて話し始めた。
「実はね・・・その知り合いからね、谷川さんご夫婦が昔ある生まれたばかりの子供を捨てたことがあるっていう話を私も聞いたことあるんですよ。でも、それ以上のことは何も知らないんですよ。何で捨てたのかなんてこともまったく分からないし。でも、昔は光が丘かどこかの団地に住んでたってね。でも、その後旦那さんが起業されたかで何かのビジネスで当てて大金持ちになったって話ですよ。それから田園調布に一戸建てを購入してここに引っ越してきたみたいですね。不謹慎ですけどね・・・子供を捨てておいて自分たちは裕福な暮らしをしてたから罰が当たったんじゃないかと思うんだけどね・・・でも気を悪くしたらごめんなさいね。本当の親だものね。悪く言われたくないわよね。」
「そうなんですか・・・」
ノッコはすでに返事をする気力がなかった。
「ありがとうございました。」
ほんの一言だけお礼を言ってノッコはてくてくと歩いていってその場を去った。
「いえいえ」
おばさんはそう言って元気なく歩いていくノッコの後ろ姿を心配そうに見ていた。
ノッコはそれから無気力と化した。まるで蝉の抜け殻のようになっていた。もはやノッコには気力が残されていなかったので父勝則には何も事情を説明しなかったが、ノッコがあまりにも元気がなかったので両親とは会えずじまいだったのか、あるいはもうすでに死んでいたのか・・・それとなく察したようだった。
それからノッコは気が付いたら伊豆のほとりまできていた。どこをどうやってここまで来たのか覚えていなかった。何をするのでもなくあてもなくただ放浪していた。旅行や観光という目的もまったくなかった。ただぶらぶらとあたりを歩き回った。そしてふいに海岸の断崖絶壁に行きたくなった。なぜかは分からなかった。ただ無意識にそこへ向かっていた。もう夕日は沈んでいて辺りは大分暗くなっていた。
ノッコは崖の上に立って上から遥か下にある薄暗く青みがかった海の底を見た。はげしい波が寄せていて気分がめいってしまうくらい恐ろしいほどの高さだった。ノッコは恐る恐る崖の端の方へ足を向かわせていった。怖くて足ががたがたと震えていた。死ぬつもりはなかったがなぜか海の底が自分を呼んでいるような気がした。しばらくその海の底の渦を見ていたら死者の魂のようなものが海の底から自分に何かを訴えかけているような気がして、気分が悪くなって引き返したくなった。
そして振り返って旅館の戻ろうとしたその時、とっさに岩場ですべってしまいノッコは引きずり込まれるように断崖絶壁から落ちそうになった。
「きゃー」
とっさに右手で断崖絶壁の端をつかんだ。しかし、体はすでに宙を浮いていて今にも海の底へと沈んでしまいそうになっていた。
「誰か助けて!」
旅行シーズンではなかったためか、あたりにはあまり人はいなかった。
「誰かー!」
今にも落ちてしまいそうな恐怖でノッコは頭が真っ白になりただただそう叫んだ。
その時誰かがこっちにやってきた。
「何やってるんだ!早くつかまりなさい」
その人はそう言ってノッコに手を差し出した。
ノッコは断崖絶壁を掴んでいた手とは逆の左手を前に出して何とかその人の手を握った。しかし、その人はどうやら老人の年齢らしく手にあまり力が入っていなくひどく頼りなかった。重力でいまにも落ちてしまいそうな恐怖と闘いながらもその老人の手だけがノッコにとって今唯一の命綱だった。
その老人は力一杯力を込めてノッコを必死にすくいあげようとしていた。老人は片方の手だけでは限界を感じもう一つの手を使って両手でノッコを死に物狂いでつかんだ。
「せーの」
老人はそう言って少しだけ助走をつけた後に足に思い切り力を入れてノッコを思い切り引っ張り上げた。ノッコは思い切り断崖絶壁の上に飛ばされた。
「はあ、はあ」
老人は今にも死にそうなくらい必死の形相で息を切らしていた。額からはすさまじい量の汗が出ていた。ノッコも頭が真っ白になり断崖絶壁の上でしばらく魂が抜けたようにぼーっとしていた。
「よかったー。ほんとによかった。」
その老人はまるで自分のことのようにノッコの無事を喜んだ。
しばらく老人とノッコは断崖絶壁の上で息を切らしながら黙り込んでいた。
「若い者、死に急ぐな」
老人は息が少しだけ整ってからノッコにそう言った。
ノッコはびっくりしたようにただ茫然とその場で黙っていた。
二人はその断崖絶壁から少し離れところにある海岸沿いにあるベンチに座った。
ノッコはまだその老人に対してほとんど口を開いていない自分に気が付いた。
「ありがとうご・・・ざいました。」
ノッコは頭を下げて静かにそう言った。
「何の・・・別に・・・ほんとに無事でよかった。」
ノッコはまた黙ってしまったのでその老人は
「何があったのか知らないが・・・命は粗末にしたらいかんよ。あんた見たところまだ若いんだから」
ノッコにそう言った。
「死にたかったわけじゃ・・・ないんです。ただ・・・何もかも嫌になって・・・絶望していたらいつの間にかこの地を訪れていたんです。そして、海の底が私を呼んでる気がして崖の上からのぞいていたら足をすべらせてしまったんです。」
「そうか・・・こういう場所は危険だからな・・」
老人はそう言うと続けて
「私もね・・・あんたくらいの若い頃は色々と絶望したこととかあったさ。」
老人は何やら自分の話をし出した。
「そりゃ仕事や人生に行き詰ったこととかもあるし。私はね・・・三味線の奏者だったんだがね・・・まああんたは若いから三味線なんて興味ないだろうけど私はここらの界隈じゃ結構有名な先生だったんでね・・・。でもね・・・若い頃はそりゃいろいろあったさ。師事していたお師匠さんに中々認められなくてね・・・私はそれがずっと悔しくて仕方なくってね。いくら頑張っても認めてもらえなくて、それである日師匠に口答えしたら破門だなんて言われてね。若い頃は私もね・・・血の気が多かったから向こうも私のことが気に入らなかったんだと思うがね。そこからは本当に大変で・・・自己流で三味線の流儀を開こうと必死にもがいてもがいてそりゃ頑張った。そしたらね・・・ある日突然別のお師匠さんが私のことを気に入ってくれてね・・・そしてその師匠に必死についていったさ。そこからは仕事もどんどん増えていってね。どんどん人生がうまくいくようになった。そしてその後は、自分で三味線の教室まで開けるようにまでなってそれから多くの弟子をとったさ。その弟子たちも今や立派な三味線の奏者さ。だからね・・・人生なんて何があるかわかったもんじゃないよ。うまくいかない時も必死に何かをやっていれば誰かが必ず見てくれてるから。人生山あり谷ありさ。」
老人はそう自分の話を一通りし終わると
「よっこらしょっと」
と声を出しながら立ち上がり
「さてと・・・旅館の方へ戻りますか。」
と言った。
「あの・・・」
ノッコはその老人を呼び止めた。
「お名前を伺ってもいいですか?」
ノッコがそう聞くと
「片岡源三郎だよ」
と老人は答えた。
「そこの旅館にまだしばらく泊まってるから、また何かあったら来なさい。部屋の番号は302だったかな・・・」
そう言いながら旅館の方へ戻ろうとした。
「あの・・・」
源三郎という老人が振り返ると
「ありがとうございました。」
とノッコはお礼を言った。
「若い者・・・頑張りなさい。」
老人はそう言って旅館へと戻っていった。
ノッコは源三郎が泊まっていると言っていた旅館でチェックインをした。観光シーズンではなかったので予約なしでも泊まれるようだった。
ノッコは疲れ切っていたので温泉に浸かり食事を取りそして寝た。
次の日、ノッコは目が覚めるとすぐに源三郎さんのことを思い出した。昨日は急にあんなことになり頭も真っ白だったため自分からあまり話ができなかったが、思い出してみると命の恩人なのだった。一言では言い合わらせないくらいたくさんお礼がしたかった。ノッコは源三郎さんが泊まっていると言っていた302の部屋へと行ってみた。
しかし、そこには誰も入っていなく旅館の仲居らしき女性が部屋の片づけをしていて、次の宿泊客用に準備を整えているようだった。
「あの・・・ここに泊まっている片岡源三郎さんという方はいますか?」
とノッコは仲居の女性に聞いてみた。
「源三郎さんのお知り合いの方ですか?」
「はーまあ・・・昨日ちょっとだけお話して知り合いになったのですが・・・」
「そうですか・・・でも源三郎さんはもういらっしゃらないですよ。」
「いない?」
確かしばらくここに泊まると言っていたのでノッコは変だなと思った。
「ええ・・・今朝体の容体が悪化して病院に連れ戻されましたよ。」
「え・・・何かお体悪いんですか?」
「知らないのですか?源さん、胃の末期癌だったんですよ?」
「え?」
ノッコは突然のことで驚いた。そんなことは一言も言っていなかったから。
「末期癌って・・・助かるんですか?」
「さあ・・・分からないですね。でも、もうあちこち転移してしまって手の施しようがないからって抗がん剤治療も諦めてたみたいですね。病院で安静にしてなさいって言われてたのに、飛び出してきちゃったみたいですよ。」
「それで症状が悪化したんですか?」
「そうでしょうね・・・病院から外出禁止にされてたのに出てきちゃったのですから、それは体にはよくないでしょうね。無理するからですよ。昔からやんちゃな人で有名だったから。」
仲居さんはそう言うと部屋のふとんやら枕を洗うためか手に持って外に出て行った。
ノッコはあまりの突然なことにショックを受けた。
そんな危険な状態だったのにも関わらずあんなに無理をして身をはって自分の命を助けてくれたんだ。もしかするとそのせいで病状が悪化したのかもしれない。自分のせいだ。そう考えたらノッコは途端に涙が出そうになってきた。
しばらくノッコは旅館の入り口にある木で出来た和風の長い椅子に座っていた。その近くに座っている数名の観光客らが何やら源三郎さんの話をしているようだった。どうやら本当にこの辺りでは有名な人らしい。
「源さんさっき病院に運ばれたって?」
「ああ、そうみたいだな。」
「さっき病院に見に行ってる知り合いから電話で聞いたんだけど、今危篤状態だそうだよ。」
「そっか源さんもいよいよか・・・残念だな。あの三味線が聞けなくなるなんてな。」
そんな会話をしているようだった。
ノッコはとっさに彼らに話しかけて聞いてみた。
「あの・・・その病院はどこにあるんですか?」
その病院は海岸の道沿いにずっと歩いていったところにあった。旅館からかなり遠くにあったので走っていっても30分近くもかかった。旅館からタクシーを頼んだりすればよかったのだが、無我夢中だったのでそんなことすら忘れていた。
やっとの思いで病院に着くと、受付でノッコは必死の形相で聞いてみた。
「あの・・・片岡源三郎さんは?どこですか?今危篤だって!」
ノッコの勢いに少しだけびっくりしたが受付の女性は
「面会希望の方ですか?今はもう個室の集中治療部屋にいますので親族の方以外面会はお断りしております。」
「あの・・・どうしてもお願いです・・・彼は・・・私の命の恩人なんです・・・」
「そう言われましても・・・」
受付の女性は困ってしまったようだった。
「今はもう危篤状態で大変危険ですので・・・待合室でお待ちいただけますか?」
そう言われてしまったのでノッコは仕方なく待つことにした。
待合室にはノッコ以外にも親戚らしき人たちや知り合いやたくさんのファンの人たちがいた。こんなにも多くの人が彼の行く末を見守っていた。天に祈るようにしているものもいたし、中には本気で泣いているものもいた。本当に多くの人に愛されている人なんだなとと思った。
30分くらい経っただろうか・・・しばらくすると集中治療室から担当の医者らしき人が出てきた。家族は集中治療室にいるとのことだったので、親戚関係の人や友人知人の方だろうか?必死にくらいつくように医者に
「先生、どうですか?大丈夫だったんですか?」
と聞いていた。
「・・・お気の毒ですが・・・」
医者は申し訳ないという面持ちでそう答えた。
「そんな・・・」
そう言うとその人たちのうちの一人は泣き崩れるようにその場でしゃがみこんで大声で泣きだしてしまった。
源さんが死んだ・・・
ノッコにはそれが信じられなかった。
つい昨日、必死に自分を助けてくれた。自分に生きる勇気と指針を与えてくれた。その人が今はもういない。それが信じられなかった。
「源さん・・・」
ノッコも今にもその場で大声で泣き出しそうになってしまった。
源さんの葬式は翌日行われた。源さんはこの伊豆あたりでは有名人で多くの参列希望者がいたため一般の人も葬式に出席していたようだった。ノッコは喪服など用意してなかったので参列こそできなかったが、遠くからその様子を見守っていた。
参列者が本当に何百人もいるのではないかと思えるほど人がたくさん集まっていた。
みんなこのあたりの源さんの知り合いやファンなのだろうか?
「先生・・・先生!」
永眠している源さんに向かって泣き叫んでいるものもいた。源さんのお弟子さんだろうか?葬儀屋さんやお寺の住職さんと色々とやり取りをしたり親族やお弟子さんやその他多くの友人知人らしき人たちに挨拶まわりをしてせわしなく働いている元気そうなおばあさんがいたが、源さんの奥様だろうか?といっても源さんはもう80代くらいの老人に見えたが、奥さまはまだ70代くらいで一回りくらい源さんより年下で若奥様に見えた。まだまだ元気に動きまわれるようだった。
ノッコは他に知り合いもいなくてお寺の入り口付近でただボーっとしているのも気まずくなり奥さんが忙しくなさそうな時を見計らって思い切って話しかけてみた。
「あの・・・源三郎さんの奥様ですか?」
「はい・・・そうですが・・・主人のお知り合いですか?」
葬式の翌日、ノッコは源三郎さんの奥様の喜美代さんに招待されて家を訪れることにした。といっても、源さんの骨を納骨するまで後飾りが自宅に安置されていたので、線香をあげに行くのが目的だった。葬式の日にノッコが奥様に話かけて源さんに命を助けられた話をしたら、「是非明日うちに線香をあげにきてください。」と言われたためだった。
家に上げてもらうと源さんのお弟子さんがたくさん来ているようだった。
「こんにちは、先生のためにお越しくださりありがとうございます。」
そう言って何人かのお弟子さんは別の部屋へいったようだった。
後飾りには源さんの遺影と遺骨の入った白い箱がそっと静かに置いてあった。
ノッコは線香をあげた後、目をつむりながら両手を揃えて源さんのご冥福を祈った。
「主人は・・・きっと最後の最後に誰かの役に立ちたかったんだと思います。」
喜美代さんはノッコの左後ろ側あたりを正座で座りながらそう言った。
「末期癌でもう助からないと思って・・・きっと何か最後にやり残したことがあると思って急に何かの知らせを感じて病院を飛び出したんだと思います。自分の命が果てる前に誰かに何が何でもメッセージを残したかったのかと。自分が生きていたっていう何かの証を・・・だから・・・山本さんのおかげで主人も救われたんですよ。主人もきっとそれが本望だったんですよ。」
喜美代さんは静かにゆっくりと順を追うようにそう話した。
「そんな私は何も・・・」
ノッコがそう言うと
「ゆっくりしてってくださいね。」
そう言って喜美代さんは別の部屋へ行った。
「ありがとうございます。」
ノッコは喜美代さんにお礼を言った。
ノッコは源さんとの最後を思い出していた。
「若い者、死に急ぐな」
源さんは末期癌だというのに自分のことは二の次で最後まで自分を励ましてくれた。人に勇気を与えて明るくしてくれる人だった。遺影の中でも源さんはそれを見る人を元気づけるかのように満面の笑顔で笑っていた。
ノッコはしばらくその源さんの遺影を眺めていた。
すると急に源さんの声が遠くから聞こえてくるような気がした。
「若い者、焦らなさんな。今は人生がうまくいかなくてもきっといつかいいことがある。
絶対にいいことがある。だから、そのときまで頑張りなさい。」
そのような声が聞こえてきた。
錯覚などではなく確かに耳にそう聞こえた。
ノッコは自分の耳がおかしくなってしまったのかと思ったが、空耳などではなく確かに源さんの声だった。
源さんが天国から私に何かのメッセージを送っているのだろうか?
死んでも尚、源さんは自分をまだ必死に励ましてくれている。そう思ったら途端にノッコの頬から涙がこぼれてきた。その涙は頬を伝って床にこぼれ落ちた。
ノッコは最後に源さんに一言だけ発した。
「ありがとうご・・・ざいます。」
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