第10話 コーヒーゼリー


 その日以来守は全くアパートに来なくなった。恵子さんにメールをしようとしたが、あれだけ強く断られたのでメールができなくなってしまった。ノッコは誰かに相談したくなったのでまたリナと休日に会うことにした。

銀座辺りの居酒屋で夕飯を一緒に食べることにした。

「え、パニック障害?」リナは目を丸くして聞いた。

「そう、その守君って子がパニック障害っていうの・・・らしくて・・・急にアパートで呼吸困難になって倒れだして」

「そりゃ大変だったね。でも・・・それ、どういう病気なの?」

「なんかね、精神科の先生はね・・・ストレスや不安でパニック状態になる病気だって・・・言ってた」

「へーストレスねー」とリナは言うと、何か思い出したように

「あ、そうだ、守君だっけ、その子さ・・・医者の家庭なんだっけ?」と聞いた。

「そう・・・跡取りなんだって」

「それさ・・・もしかして・・・プレッシャーとかがすごいんじゃない・・・?」

リナがそう切り出すと

「えー、でも守君はそんな話全然しないよ」ノッコはそう言った。

「そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃない。ノッコや私とかが考えてる以上にね・・・男の子の跡取りのプレッシャーってすごいと思うよ。それが医者なんてなると相当だよ、きっと」

「そうなのかな?でもさー守君ものすごく難しい数学とかやってるみたいだし頭いいからそんなの簡単だろうし大丈夫なんじゃないの?」

「あなたよく知らないからでしょ。私もそんなのよく分からないけどさ・・・中には落ちこぼれとかそういうのだっているんじゃない?」

「落ちこぼれ・・・?」

「そう」

ノッコは守が急に怒り出した時のことを思いだした。

「そんなもん誰だってできるんだよ!医学部受験するやつらなら教科書や参考書レベルのものなんて誰だって簡単にできる!何も・・・何も、知らないくせに」

何も知らないくせに・・・確かにそう言われた。リナが言うようにもしかしたら、守は何かに挫折しているのかもしれない、と思った。



しばらく守から全く連絡が来ないままノッコは仕事に没頭していた。守のことは心配だったが、仕事がその心配の煩わしさも忘れさせてくれたのも事実だった。季節はまた春になろうとしていた。そんなある日、手紙が来た。勝からだった。

「ノッコさん

お久しぶりです。あのときはお世話になりました。あれ以来うちの両親は離婚が決まり、俺は母親の実家の方へ行くことになり、そこから新しい学校に行くことになりました。最初はノッコさんのこと俺のことを早く追い出したいだけで口うるさい人だと思ってました。でも、他の大人と違って俺の話を聞いてくれて本当によかったです。親父のことだけど、散々虐待されて憎しみや恨みもたくさんあった。でも、離婚が決まって一人ぼっちになった親父のことを思うと今では哀れだなって思います。だから、今は親父のことは恨んでないよ。もっとノッコさんとは色々話しをしたかったけど・・・遠くに引っ越しちゃったから当分会いには行けません。もし会いにいけるようなことがあったら、その時は・・・ピアノ教えてください。あと・・・CDを壊してしまってごめんなさい」

その手紙を読んでノッコは嬉しかったがなぜか少しだけ涙がこぼれてしまった。最初は誰も信用できないほど周りのすべてを憎んでいたのに、次第に自分には心を開いてくれるようになった。そして今や、勝はこんなにも明るく前を向いて生きてくれるようなった。それが嬉しかった。それと同時に自分のやってることに少し自信がもてるようになり勇気が湧いた。自分が勝を励ました代わりに今度は勝から自分が勇気をもらった。

まだ諦めるのは早い、と思った。

ノッコは今度の休日に守の自宅に行ってみよう、と思った。


守の自宅は世田谷の高級住宅街にあった。医者の家系がどれだけ金持ちかはノッコには分からなかったが、金持ちばかりの住宅が集まってそうだった。

インターフォンを鳴らすと恵子さんが出てきた。

「あら、山本さんいらしたんですか?」

「はい、あの・・・どうしても守君と話したいんですが」

「もうそちらにはお世話にならないと言ったじゃありませんか」

ノッコは引き下がらずに

「あの、少しだけでいいんです。話させてください」

「いえ、お気持ちは嬉しいのですが、もう守は誰とも会いたくないって言っていますから。すみませんが、お引き取りください」

ノッコは

「守君ちゃんと学校行ってますか?精神科にも行ってますか?」と聞くと

恵子さんは下を向いて何も言わなかった。

「あの・・・あの後よく考えたんです。もしかしたら、守君将来医者になるのがものすごいプレッシャーになってるんじゃないかって・・・」ノッコがそう言うと、恵子さんは少しだけ目つきが変わった。

「あのね、山本さん、どういうおつもりか知りませんが、守がそんなわけないじゃありませんか。中学までずっと成績はトップだったんですよ。高校に入って少し成績が下がりましたが、ちょっと挫折したくらいでそんなわけないじゃないですか」

「でも、本当は息苦しいのかもしれません。守君とちゃんとそのこと本音で話しましたか?」

恵子さんは次第に不機嫌そうになってきた。

「あのね、山本さん。私はあなたに守の進路相談してくれなんて一度も頼んでいませんよ。ただあの子を元気づけて学校に通わせてくれればよかったんです。これはうちの問題なんですよ」

「でも・・・守君がどうしたいかは守君が自分で決めることなんじゃないでしょうか?」

ノッコは負けずと反論してそう言った。

「あなたに何が分かるんですか。うちは代々医者の家系で主人の母から守を医者にするように強く言われてるんです。その主人の母だって主人を医者にするために必死に小さい頃から頑張って教育してきました。私も、医者の家庭に入った以上は、その期待に答えるのが義務なんです。このうちを守るのも医者の家庭の母の務めなんですよ。それに医者の家庭で生まれた守が家を継いで医者になるのは、守にとっても病院にとっても一番いいことなんです。よその人にわかるもんじゃありません」

ノッコは

「とにかく会わせてください」といって恵子さんの話はそっちのけで無理やり玄関に入ってしまった。

「ちょっと、山本さん?」驚いて恵子さんはノッコを追った。

ノッコは守がどこにいるのかよく分からなかったのでとりあえず二階へ行って部屋中探した。どの部屋も空きっぱなしで誰もいないようだったが、一部屋だけ鍵がかかっていたので中に守がいると思って、

「守君?そこにいるの?開けてくれる?」とドアをどんどん叩いた。

「ちょっと山本さん、勝手にうちに入らないでください」恵子さんは声を少し荒げて言った。

ノッコは恵子さんの言うことは聞かずに

「守君?」と言いながらノッコはドアを叩き続けた。

「そこには守はいません!」と恵子さんは言ったがそのとき

ガチャっと鍵を開けて守が出てきた。

「守、ちょっと待ってね、山本さんにはすぐ帰ってもらうから」

と恵子さんは言ったが、

「何で?別にいいよ」と守は言ったので恵子さんは

「そう?」と残念そうに引き下がった。

「入ってよ、ノッコさん」と守はいったのでノッコは守の部屋に入ることにした。

恵子さんは不信そうにノッコを見て階段を下りて行った。

守はノッコを部屋に入れるとバタンとドアを閉じた。

守はベットのはじに腰かけた。ノッコは「ここ座るね」といって守の勉強机の椅子に座った。

しばらく黙っていたが、

「学校も、病院も行ってないの?」ノッコは守に聞いた。

「うん」と守は言った。

「どうして?」とまたノッコは聞いた。

「何か・・・何もかも嫌になっちゃって・・・」

「そっか・・・」

守は黙ったままになってしまった。

ノッコはしばらくすると話し始めた。

「私もね・・・実は・・・昔、引きこもりだったんだ」

守は驚いでノッコの方を見た。

「私音大出たあとね・・・地道にライブ活動とかやってたんだけどなかなか売れなくてね。20代は地獄だった。それでも・・・音楽が好きだったから・・・諦められなかったから続けてた。でもね、頑張っても頑張っても・・・なかなか売れなかった。それどころかライブに来てくれるお客さんもどんどん減ってね。そろそろ潮時だって・・・思った。何か堅実な仕事につこうかとも思った。でもね・・・諦めきれなくて、そのうち自分がどう生きていったらいいのか分からなくなって・・・人生に意味が見いだせなくなった。それで、1年くらいかな・・・引きこもってた。ライブ活動も全くやらなかったし、バイトもしなかったし。家に一日中いることなんてざらだったね。でもね・・・そんな私をみてお父さんが「もう一度頑張ってみたら」って応援してくれた。知り合いのリナっていうんだけどね。リナも応援してくれた。それでもう一度頑張ろうって思ったの。そしたらね、30歳になる前くらいに光が見えてきたの・・・」

守はその話を聞いて

「そう・・・なんだ」とただそう言った。

「だからね・・・守君ももし、人生に意味が見いだせなかったり苦痛を感じてるんだったらね。何か自分で見つけたらいいんじゃないかって思うの。やりたいこととか・・・やりがいとか・・・諦めないでそれに向かったら、そしたら・・・」ノッコがそう言うと

「やりたいことって何だよ。そんなもん簡単に見つかるわけないじゃん。うちは医者の家系なんだよ?医者以外の道なんて今まで考えたことなんかないよ」

「でもそれはご両親が決めたことでしょ?何やりたいかは、守君が決めればいいことじゃない」ノッコはそう言った。

「そんなことたとえあっても親には言えないよ・・・」守はそう言った。

「でも、それじゃ・・・」ノッコは何も言えなくなってしまった。

ノッコはコンビニで買ってきたコーヒーゼリーを守に渡した。

「これは?」守は不思議そうにコーヒーゼリーを見た。

「コーヒーゼリーよ。私これ好きなの」

コーヒーゼリーをノッコも食べながら話し始めた。

「コーヒーゼリーってね、暗ーいダークなコーヒーゼリーを白―いまろやかなミルクが包んでいるでしょ?これね、まさに暗いダメな自分を温かい誰かが見守ってくれてるっていう感じがするんだ。引きこもりだったときに家の近くのコンビニでコーヒーゼリーを手に取ったら何かそういうのを感じてね、私、だからそれ以来落ち込んだときとかよくコーヒーゼリー食べる。守君もね、だから絶対誰かが見守ってくれる人がいるはずだからさ・・・今はやりたいことが見つからなくてもそのうち見つかるし・・・守君まだ若いんだからさ・・・私なんて20代で引きこもってたんだよ?10代で少し引きこもったなんて引きこもりのうちに入らないよ。いくらでも立て直しできる」

守はノッコの話を聞き終わるとやがてコーヒーゼリーを食べ始め、

「おいしい・・・」とつぶやいた。

「守君さ、今から公園いこっか」とノッコは元気よく言った。

「公園?何でそんなとこ?」

「いいから、いいから」

とノッコは無理やり守の手を引っ張って部屋から連れだした。

玄関口でなにやら音がしたので恵子さんが出てきた。

「ちょっと、どうしたんですか?山本さん?」

「ちょっと守君連れてきます」とノッコは言って守を連れてドアを開けて出て行ってしまった。

「ちょっとどこ行くんですか?」恵子さんは叫んだがもうドアはしまっていた。


ノッコは守をある公園に連れてった。東京湾の全景を一望できる綺麗で大きな公園で少し丘を登ったところにあった。時刻は夕方前になっていた。

しばらく二人は公園をぶらぶらと歩いた。公園は家族連れや犬の散歩をしている人などがいたが、それ以外の人はあまり見当たらなかった。

「公園、きれいでしょ?」

ノッコはそう言いながら公園の奥の方へ言った。公園の入り口の方には砂遊び場や滑り台などがあり子供が大人しく遊んでいた。奥の方へ行くとベンチが並んでいて、そこから東京湾の全景が眺められるようになっていた。

「よっこいしょ」とノッコはベンチに座った。守も隣のベンチに腰かけた。

しばらく二人で東京湾の海を眺めていた。船がいくらか行き来していてかもめらしき鳥が空を飛んでいた。

「ここね・・・私落ち込んだときよくくるんだ。ひきこもりのときもここだけはよく来てたな。景色がきれいでね・・・嫌なこと忘れられる」

守も景色を見て

「うん」と言った。

「私ね・・・何で音楽の仕事始めたいって思ったかっていうとね・・・音楽に救われたことがあるんだ」ノッコは東京湾の景色を眺めながら話し始めた。

「救われた?」

「そう、私ね・・・本当の両親がいなくてね。義理の両親に育てられたの。高校までそのこと知らなくて・・・でもある日突然親にそのことを教えてもらって・・・ものすごくショックだった。そんな時にね・・・育ての母親が癌でなくなちゃってね。それがさらにショックで。やっと義理の母親だってことを知ったばかりだったのにその矢先に死んじゃったから。それから・・・学校も一時さぼりぎみになったし、タバコも陰で隠れて吸ってた。そんな日が何か月か続いてね。でも、ある日放課後にね・・・音楽教室で何か音がしたの。ジャズを弾いてる音がして。学校の音楽教室でジャズが鳴ってるなんて珍しかったからそこで、私音楽教室の前で立ってずっとその曲聴いてた。なんかものすごく聴き心地がよくてずっと目をつむったまま聴いてた。そしたらね、その弾いてた人がドアを開けて「中に入って聞いてごらん」って。その時は知らなくて後で知ったんだけど、そのピアノ弾いてた人は、音楽の先生でね。伊藤一樹さんていって。私のクラスの音楽の担当じゃなかったから顔をちょっと知ってただけだったんだけど・・・昔仕事でちょっとしたジャズの作曲をしてた人らしくて。教室に入って、しばらくその人のジャズの曲を私興味深そうに聞いてたら「君も弾いてみるかい?」って言ってくれて。私が伊藤先生の真似をしてね、ジャズっぽい曲を弾いてみたらね、その先生が「すごい!ものすごい上手い」って拍手してくれて。それから、放課後よく伊藤先生にジャズの弾き方とか作曲の仕方を教わるようになってね。

それから学校に行くのが楽しみになって・・・学校をさぼることもなくなったし、成人するまでタバコもやめた。それで・・・ある日その伊藤先生が「音大に行ってみたら?」って勧めてくれて。それまで私クラシックピアノをずっと習ってたけど本格的に音大に行こうとまでは思ってなかった。でも、伊藤先生に勧められて自信がついたので、それ以来本気で音大目指すことにしたんだ。その先生との出会いがなかったら音大には行かなかったし今の仕事もしてなかったかもしれないな」

ノッコは一人でずっとしゃべっていたが、話が終わると守は

「いい出会いだったんだね・・・」と言った。

「そう・・・出会い・・・それだと思う。何かに出会って、救われて、そして自分の方向性が見えてくる。きっと人ってそれぞれそういう出会いがあるんだと思う。だから守君もきっとそういう経験があれば何かが見えてくるんじゃないかな・・・」

守はしばらくうつむいてた。何か考え事をしているようだった。

しばらくすると時間は夕方になり、東京湾の水平線の向こうには夕日が見えてきた。赤く染まった夕日は海を温かく包むように少しずつ沈んでいるようだった。

「見て、守君きれいでしょ?私これ見たくてここ来たんだ」

夕日は水平線の中へ溶け込んでいた。海の向こう側は辺り一面壮大な茜色に染まり、言葉では表しようがないほどはかなく、夕日は綺麗に海を丸く包んでいた。

守はしばらくその壮観な景色を眺めていた。

「すごーい」ノッコは感動してそう言った。

守は

「きれいだ・・・」と言った。

「そうでしょ・・・?」ノッコはそう言って嬉しそうに守を見ると、守は涙を流しているように見えた。夕日の反射でよく顔が見えなかったが、わずかばかりほほに涙がつたっているように見えた。

しばらく二人でその景色を眺めていた。

「僕・・・月曜日からまた学校行きます」

「え?」

「本当は僕息苦しいんです。親は医者になれって簡単に言うけど・・・。中学までは何とか成績は良かったんですが、高校に入ってからつまづいてしまって・・・。親はちょっとくらいの挫折乗り越えろって言うんですけど、何も分かってない。無理なんですよやっぱり僕には・・・医者になるなんて・・・。勉強のことは僕自身が一番よく分かってますから・・・。でも・・・逃げてばかりじゃ、このままじゃ何もならないし。だから学校に行きながら・・・僕も何かを見つけたいと思います。医者以外の何か道を。僕にも見つかりますか?」

守が初めて明るくそう聞いてきた。

「もちろん、絶対に見つかると思う!」ノッコは守をそう励ました。

守は明るく微笑んだ。

夕日が水平線に完全に沈むまで二人はただその景気を眺めていた。


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