第9話 ある少年の憂鬱
約束の通り次の週の水曜日の午後に川澄さんのお母さんがノッコのアパートにやってきた。
「はじめまして、川澄恵子と申します。突然お邪魔してすみません」
「いえ、とんでもないです」ノッコはお茶をテーブルに出しながらそう言ってソファに腰かけた。恵子さんはお礼を言った。
「メールで簡単に書きましたように、うちの息子の守が不登校になってしまいました」
ノッコはただ聞いていた。
「何度守に聞いても理由は分からないものですから・・・困りましてね。心理カウンセラーや精神科など洗いざらい回ったのです。そしたら・・・どうやら精神疾患を患ってるらしくて」
精神病を患っている人が相談に来るのは初めてのことだった。確かにノッコはホームページに精神的な悩みを抱えている人も対象としている、ようなことは書いていたが実際ノッコはうつ病のことなどよく分かっていなかった。
「それで・・・精神科の方でお薬を処方していただいてましてね・・・それで何とか病状は落ち着いているんです。ですから病気は治ったのだから学校に行きなさいと言っているのですが・・・学校にはいまだに行かないというか・・・一向に守は言うことを聞かないもので困ってしまいましてね・・・。もう不登校になって1か月になりますし。そこでそちらのホームページを見ましてね、うつ病の人を助けてくださるって。何か手がかりになるんじゃないかと思いましてね。あとですね・・・申し遅れましたが私あなたのこと存じてます。Nokkoさんでいらっしゃいますよね?」
ノッコは驚いて
「そうなんですね・・・ご事情は色々と大変だと分かりました。守君、早く学校に行かれるようになるといいですね。あと、私のこと知っていただいて、ありがとうございます」と嬉しそうに言った。
「まあ、私もっぱらクラシックばかり聞くのですが、自分で言うのもなんですがジャズもある程度詳しいもので・・・それで是非お願いしたいと思いましてね。ファンというわけではないのですが・・・すみません」
恵子さんは少しずばっとした感じでそう言った。
「いえ、別にとんでもないです」
「それでね・・・さっそくですが山本さん・・・いつ頃から守はこちらに伺えますか?」
「そうですね・・・今ここで日程を決められてもいいですし、後でメールで候補日を連絡くださってもいいです」
「そうですか、じゃあさっそく来週にでも・・・いつ頃がいいかしら?」恵子さんはノッコに予定を聞いてきた。
来週は月曜日が比較的時間があったので
「じゃあ月曜日の午後4時頃ではどうですか?」とノッコは答えた。
「そうですか、時間は何時間ほどでしょうか?」
「特に決めていません。1、2時間を予定してます」
「そうですか、それでは来週月曜日に守をそちらに一人で行かせますので」
不登校の子が一人で来られるのか、とノッコは一瞬思った。
「守ももう高校2年ですからね、こちらのお話しをしたら一人で行くって言うものですから。それに不登校って行っても外には出られますしひきこもりではありませんから」
「そうですか、ではお待ちしてます」
「じゃあ、お邪魔しました。」とお茶を少しだけ飲んで恵子さんは玄関の方まで行った。ノッコも玄関までついていった。
「あ、あとそれから山本さん・・・こんなこと言うのもなんなんですが・・・守はうちの主人の病院の大事な後取りなんです。将来は医学部を目指しています。こんなところでつまづいていてはだめなんですよ。いち早く学校にも塾にも行ってもらわないと困るんです。ですから・・・できればご都合が悪くなければ、週1日以上そちらにお邪魔するのはだめでしょうか?何卒宜しくお願いしますね」
「あ・・・はい、できるだけ都合合わせるようにします」ノッコは明るくそう言った。
「それでは月曜日の午後4時に守が伺いますので宜しくお願い致します」とお辞儀をして恵子さんはアパートを出て行った。
月曜日の午後4時頃になると川澄守はノッコのアパートに一人でやってきた。
「こんにちは、守君・・・だよね?はじめまして、私山本紀子です。あだ名はノッコっていいます」ノッコが元気よく挨拶すると
「川澄守です・・・はじめまして」とお辞儀をした。
背はすらっとしていて知的だが線の細いというか繊細な感じな子だった。
「こっちがリビングで、そこにソファあるから腰かけて、今お茶出すから」
「はい、ありがとうございます」と言って守はソファに腰かけた。
「はい、どうぞ」とノッコがお茶を出すと守はお礼を言った。
ノッコは守が黙っていたのでしばらく少しだけお茶を飲んでいた。
「お母さんから、ここの話はある程度聞いてるよね?一緒に色々音楽をやったり楽しんだりするところなの」
「はい、母さんからは全部聞いてます。それで僕も興味を持ったので」
守君のお母さんの恵子さんからメールで教えてもらったのだが、守は小さい頃から中学生までピアノを習っていたのでかなり上手い、とのことだった。小学生のときに「ジュニア作曲コンクール」というのに出たこともあるとのことだった。
守は「失礼します」と言いながら少しだけお茶を飲むと
「守君かなりピアノうまいんだってね。作曲もできるって。お母さん言ってたよ」
「いえ、別にそんな」守は少しだけ照れたようにそう言った。
「えーじゃあさっそく守君のピアノ聞きたいな。よかったらオリジナルとかも弾いてみてよ」とノッコは明るく誘ってみた。
ノッコがピアノの席をずらして「どうぞ」と言ったので守はピアノの方へ歩いてきてやがて席に座った。
守はピアノの前でぼーとっしていたので
「じゃあ、さっそく何かオリジナル弾いてみてよ」とノッコは誘ってみると
「いいんですか?」と守が言った。
「もちろん」
ノッコがそう言ってからしばらくすると守は曲を弾き始めた。
聞いた感じだとイ短調の悲しい感じの曲だった。まるで秋の季節を歌うかのような。
守が弾き終わると
「すごいね、これ自分で作曲したの?何て曲なの?」とノッコは興味津々に聞いた。
「はい、「イチョウの木枯らし」って曲です。昔作りました」
「へー昔ってもしかしてその小学生の作曲コンクールっていうやつ?」
「はい」守はそう一言答えた。
「へー、すごいね。なんか本当に秋の木枯らって感じがした。でも・・・小学生でこんなクラシックっぽい大人な曲作るなんてすごいね。私小学生の時こんな曲作れなかったよ」
とノッコは言うと
「そんなことないです。ピアノ教室の子たちは結構みんな作ってましたし。それに大人になったら全然作れなくなっちゃいました。やっぱり子供のときって思わぬ想像力があるんでしょうかね」
守が悲しいことを言ったのでノッコは
「そんなことないよ。そう思い込んでるだけだよ。多分小さいときみたいながむしゃらさみたいなのが、なくなっちゃったのかもしれないけど・・・その無邪気さを思い出せばまた作れるんじゃないかな?」
守は半信半疑そうに
「そうかな?」と言った。
ノッコは守に作曲を教えたくなったので、まず簡単な作曲法とコード理論を教えることにした。
「ここが、こうで・・・・」と熱心にノッコが教えていると守はすぐにそれらを吸収していった。呑み込みも早いらしくコード進行の基本パターンもあっという間に理解してしまった。
「すごいじゃない、呑み込み早いよ守君」とノッコが褒めると
「知らなかった。昔は何となくで弾いてたけどコード進行ってちゃんとしたパターンになってるんですね」
守は嬉しそうに語った。
「そうよー。これだけ基本押さえればもう自由に作曲できるようになるよ」
「はい」守は少しだけ笑顔になりそう言った。
守はふっと腕時計を見ると
「もう、17時半か、そろそろ帰ります」と守は言って立ち上がった。
「別にあともう少しいいのよ」とノッコは言ったが、
「いえ、いいんですお邪魔でしょうから。それに・・・ちょっと疲れました」と守は言ってソファの上の鞄を取った。
「そう?別にお邪魔じゃないけど」
守が玄関で靴を履いていると
「守君、次はいつ来る?お母さんができれば週1回以上は来させたいって」
「そうですね・・・僕はいつでもいいんですけど・・・ノッコさんが迷惑じゃなければ二回くらいでもいいです」
「そう・・・じゃあ・・・私が時間ある時は週二回にしよっか。金曜日の夜は空いてるから金曜日の夜と・・・あとは私の空いてる日をその都度教えるね。だから次は今週の金曜日の夕方5時からにしよっか」
「分かりました。じゃあお邪魔しました」と守は元気そうに出て行った。
守が出て行った後に気がついたが、守が「ノッコさん」と言ってくれたことが少し嬉しかった。
それから守は週に1,2回ノッコのアパートに来て楽しく音楽の時間を過ごした。守はどんどん作曲ができるようになって楽しそうに自分の曲を弾いていた。そんな中で、守のお母さんの恵子さんからメールがあり「守が毎日じゃないですけど、学校に時々行くようになりました、ありがとうございます」と書いてあり、それを知ってノッコも自分のことのように嬉しくなった。
そんなある日の平日の夕方いつものように守は来て楽しくピアノを弾いていた。ノッコも一生懸命かつ楽しく教えていた。1時間くらい楽しく弾いていると守は急に弾くのをやめた。
「どうしたの?守君」
守は何も言わないでいたが突然、
「ノッコさんは何でこんなことしてるの?やっぱり・・・人のため・・・とか?」
と聞いてきた。ノッコははじめ何だろう?と思ったが、
「何で・・・って言われても・・・音楽で人助けをしたいって思ったからだよ。自分も音楽で救われたこととかあるし、多くの人たちが音楽で救われればいいって思ってるし」
守はしばらくすると、
「ふーん。でも・・・それって困ってる人を助けたいから?」
「そうよ。世の中みんな悩んでる人が多いし」
「でも・・・ノッコさんはそういう人たちは可愛そうだと思ってるんでしょ?だから・・・同情して」
急に守が変なことを言い出したのでノッコは困惑しながら
「別に・・・可愛そうだなんて思ってないよ・・・ただそういう人たちが救われればいいと思ってるだけ。守君だってよくなってきてるじゃない?」
「そんなの詭弁だよ。本当はかわいそうだって思ってるくせに。可愛そうな人を救って・・
・・いいことして自分がいい気分になりたいだけなんじゃないの?」
「ちょっと・・・守君今日は変だよ?なにかあった?それに・・・そんなこと守君に言われたくないな・・・」
「帰ります」と守は言ってそそくさとソファの鞄を手に取った。乱暴に鞄をひったくったので、中から教科書のようなものがどさどさと落ちてきて床に転がった。「高校数学数Ⅱ」や他にも「医学部受験用数学」などの参考書とかが落ちたようだった。ノッコはそれらを
拾ってめくって見た。
「へー、すごいね、なんか難しそう。私なんか数学大嫌いで、高校入ってすぐギブアップしたから・・・もう√とかの記号見るだけで・・・なんか蕁麻疹起きるって感じでさ。なんかマイナスとマイナスかけるとなんでプラスになるの?みたいな。へー守君って頭いいんだねー、こんなのやって・・・・」と言いかけると
「そんなもん誰だってできるんだよ!医学部受験するやつらなら教科書や参考書レベルのものなんて誰だって簡単にできる!何も・・・何も、知らないくせに」と怒ったようにノッコから教科書と参考書をふんだくって鞄に無理やり入れ込んだ。
「ちょっと何よ。別に私は・・・すごいなって言っただけで・・・」とノッコが言いかけると
その時守に突然何かが起きて急変した。守の息が急に何かあらくなり
「はー、はー」と呼吸困難になってしまったように息切れしていた。
「ちょっと守・・・君?どうしたの?」
「はー、はー、はー」守の息はさらに激しくなり、やがて床に倒れけいれんのようなものを起こし始めた。
「ちょっと守君?大丈夫?守君!」
ノッコは守の肩をゆすって話しかけたが守は息切れしたままだった。
「守君!守君!」
「また、発作がでましたね」
精神科の先生はそう言った。ノッコが恵子さんに守君の異変について電話したため、恵子さんが救急車を手配して、係りつけの精神病院まで手配してもらったのだった。
「発作?」何のことだろう、とノッコは思った。
「最近、こちらにお見えにならないから、薬を飲んでなかったからかもしれませんね・・・」
精神科の先生はそう言った。
「はい・・・ここのところ学校にも行っていたし病気も安定しているものだと思っておりましたので・・・」恵子さんは先生にそう言った。
「そういうのは油断は禁物です。病状が安定していてもまた再発することは十分に起こり得ることです」
「はい、申し訳ありません」恵子さんは頭を下げた。
「でも、薬を飲んで今は病室で回復しているようです。今後はまた通院していただいてしばらく様子を見ましょう」と先生は言った。
「ありがとうございます」そう言って頭を下げて恵子さんは診察室を出て行った。
しばらく診察室にノッコは残った。
「あの・・・何か?」先生はそう聞くと
「あの、守君の病気って何ですか?急に呼吸困難なようになったのですが・・・」
先生は少しため息をついて
「・・・パニック・・・障害です」
「パニック障害?」ノッコは聞いたことのない病名に驚いた。
「ええ・・・不安感を主な原因とする精神疾患の一つでしてね・・・急に攻撃的になったり、呼吸や心拍数を増やしてしまい、ひどいときは意識を失うこともあります」
ノッコはそんな病気初めて聞いた。恵子さんから守君が精神病だというのは聞いていたがまさかパニック障害だとは思わなかった。
「あの、何か原因があるんですか?どうすればよくなるんですか?」とノッコは聞いた。
「そうですね・・・薬をちゃんと定期的に飲むことは当たり前ですが・・・この病気は日常生活の不安やストレスから来るものですからできるだけそういうことから逃れやすい環境に本人を置いてあげることですね」
「不安や、ストレス・・・ですか?」ノッコはそう聞いた。
「そうですね・・・それらを取り除いてあげることが・・・重要だと思います」
ノッコは先生にお礼を言って診察室を出た。
診察室を出ると入口に恵子さんと遅れてきた旦那さんが立っていた。
ノッコと恵子さんはお互いに頭を下げた。
「今日は、すみませんでしたね、大変なことになってしまって」恵子さんがそう言うと、
「いえ、別にそんな・・・」とノッコは言った。
「あの、パニック障害って・・・いうのですか?」続けてノッコは聞いてみた。
「ええ・・・先生から今お聞きしたのか分かりませんが、ストレスが原因でパニックになる病気です。ごめんなさいね・・・山本さん専門家でいらっしゃらないからそのように伝えてもかえって混乱させてしまうかと思いましたので。ですから・・・精神疾患とだけ伝えたんです。でもこんなことなら言っておけばよかったですね」
「そうなんですか・・・」
「あの・・・守君・・・もう大丈夫なんですか」とノッコが聞くと
「ええ、今から病室に行くところです」恵子さんがそういうと旦那さんはノッコに頭を下げて、横にあった階段を上っていった。恵子さんも階段を上ろうとすると、
ノッコは
「あの・・・私も行っていいですか?」と聞いた。
恵子さんはため息をついた。
「いえ、もうお時間とらせるのも悪いですからお帰りになられて結構ですよ。お仕事もおありだと思いますし」
「いえ、少しくらい大丈夫ですから」とノッコは無理やりついて行こうとすると
「あの・・・大変申し訳ないのですが・・・今後は守をそちらにはいかせないことにしたんです。私は、あなたのこと少しだけ存じてたので何かを期待して山本さんにお願いしたのですが・・・やはり音楽だけじゃだめみたいですね・・・それにこれは専門的な病気ですから、音楽だけでは治らないのが分かりました。それに・・・専門家でないあなたの手を煩わせてしまうのは何かと問題ですし」
「そんなことありませんよ。私、分からないなりに精いっぱい頑張りますから!」
「そうはいっても、分からないじゃ困るんです。一刻も早く守には学校に行ってもらわないと困りますので余計な時間とってる余裕もないんです。それに主人に山本さんのことこれで知られてしまいましたから・・・今まで黙って私の独断でやってたんですけど・・・主人はこういう音楽だとか非科学的なこととか信じない性質ですから。あと、これ今までお世話になったお礼です」と言って恵子さんはノッコに封筒を渡した。中を見ると万札がいくつも入っていた。
「あの・・・こんなにいただけません」ノッコはそう言ったが、
「いいのよ・・・それくらい大したことないから。それに、お金を全く受け取らないなんてかえって信用されないわよ。受け取ってもらった方がこちらも助かるんです」そう言って恵子さんは頭を下げて階段を上っていってしまった。
「あの・・・」とノッコは言ったが聞いてもらえなかった。
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