第8話 新たなスタート


ライブに出た次の週の木曜日にノッコは雑誌の取材の仕事を終えてアパートに帰宅した。時刻は夕方頃だった。ノッコはそそくさとアパートのカギを開けて入ろうとした。すると玄関口に貴子の靴のようなものがあった。最初は貴子がいるとは思わなかったが、何か人の気配がしたので貴子がいると確信した。久しぶりだったのでノッコは嬉しくなり

「貴子ちゃん、来てたんならメールしてくれればいいのに」

といってノッコはリビングに駆けて行った。

しかし、リビングには誰もいなかった。トイレかなと思ってトイレも見たが誰もいなかった。寝室と物置部屋も念の為見てみたが誰もいなかった。

「あれー貴子ちゃん?いるんでしょ?どこ?」

ノッコは叫んだが返事がなかった。すると、風呂場から水が「ポタッポタッ」と垂れるような音がした。ノッコは何だろう、と不思議に思って風呂場を覗いてみた。すると、そこには貴子が風呂桶にもたれかかっていた。よく見るとカッターナイフのようなものを右手に持っていた。左手からは血が「ポタッポタッ」と不気味に風呂桶の中に流れていた。

「貴子ちゃん!」

ノッコは言葉では言い合わらせないくらいの衝撃を受けた。

左手の手首からは生々しい血が垂れていた。風呂桶の栓の周りに少しだけ水が溜まっていたので血と水が混ざり合って栓の中へ少しづつ流れていった。

「貴子ちゃん、どうしたの?しっかり!貴子ちゃん!」

ノッコは訳もわからずそう叫んでいた。しかし、貴子は気を失っているらしく屍のように返事をしなかった。

「貴子ちゃん!」ノッコは叫び続けたが返事はなかった。



「ピーポーピーポー」

救急車のサイレンが鳴り響いてノッコは貴子を連れて近くの総合病院へ大急ぎで向かった。

402号室の中にノッコは入ると貴子はベッドに横たわっていた。

点滴をして寝ているようだった。

医者の話だと手首を切っていたが、発見が早かったのと傷が浅かったこともあり何とか一命を取り留めたとのことだった。部屋のすみに丸椅子があったのでノッコは貴子のベッドの横に椅子を置いて座った。

ノッコはしばらく貴子を見つめていた。すると、

「ノッコ・・・さん?」

貴子は目を開いてノッコに話しかけた。

ノッコは安心して

「貴子ちゃん」と言った。

貴子はしばらく黙っていたが

「あの・・・ごめんさない・・・」とつぶやくように言った。

ノッコは

「もう・・・心配かけさせて」と言った。

「ごめん・・・な・・・さい」貴子はまた謝った。

しばらく二人は病室で黙っていた。やがて貴子は話し始めた。

「ノッコさん・・・怒ってる?」

「別に怒ってないよ・・・心配はしたけどね」

貴子はそれを聞いたすこしほっとしたようだった。

しばらく黙っていたがまた貴子が話し出した。

「ノッコさん・・・この前ね原宿行ったときにあまりに夜遅くに帰ったら・・・お父さんが怒っちゃって。部活のある日以外は学校から真っ直ぐ帰ってきなさいって。土日もしばらくどこもいっちゃだめだって。部活さぼってノッコさんのところ行こうと思ってたんだけど・・・もうすぐ合唱コンクールとかあって・・・先輩が部活休んじゃだめだって。それでしばらく行けなくて」

貴子から事情を聞いてノッコは貴子がしばらく来なかった理由が分かった。

「そっか・・・」

「ノッコさん・・・私ね・・・両親が離婚しそうなんだ・・・」

「え?」ノッコは思わずそう言った。

「ずっと黙っててごめんなさい」

「そう・・・なんだ」ノッコは何て言ったらいいのか分からずにそう言った。

「うちのお父さんね・・・会社の役員になるぐらい仕事がものすごくできるの。いつも忙しくて・・・でもね・・・役員になる前まではもう少し時間あって早く帰ってきたんだ。でも、出世してからは忙しくて毎日夜中前に帰って来て。お母さんはそれでも気にしないでいたんだけどね・・・でもね・・・ある日突然お父さんがお母さんをひっぱたいたり家庭内暴力を振るようになって・・・お母さんは毎日耐えてたんだけど・・・お父さんは一向に止めなかった。でもね・・・ある日お母さんの財布からホストクラブみたいな名刺が出てきて・・・お母さんホスト通いしてたみたいで・・・それを知ってお父さんますます怒って毎日お母さんを怒鳴り散らしたり・・・それで・・・お母さんもついに我慢の限界がきて浮気を始めた・・・」

貴子は悲しそうに家庭の事情をノッコに話した。ノッコはその家庭内暴力が起きた理由は分からなかったが貴子ちゃんのお父さんは仕事でイライラしていて行き場がなくなって八つ当たりしてりのかな、と思った。

「何とか・・・ならないのかな?貴子ちゃんが二人の間に割って入ったりとか・・・」

ノッコは心の底から心配してそう聞いてみた。

「もうだめかも・・・それにお父さん会社でものすごく汚いことしてるみたいだし・・・」

「汚いこと?」

「私にはよく分からないけどお母さんがお父さんが会社で横領みたいな法律すれすれのことやってるって言ってた。」

ノッコは何て言ったらいいか、、分からなかった。

「もうだめなのかな・・・うち」

「うん・・・」ノッコは黙ってしまった。

「私ね・・・学校の先生好きになったの言ったでしょ?私ね・・・勇気を出して告白してみたんだ。でもね、「君はまだ高校生だからこういうことはよくないって」あっさり振られちゃった。でもね、その先生わたしの話親身になって聞いてくれてたんだよ。親にも話せなかった音楽の進路の相談とか聞いてくれたし・・・でも・・・やっぱり学校の先生って立場があるから・・・生徒と恋愛なんか・・・難しいよね。そしたらね・・・なんか私悲しくなってきて。誰も私のこと見てくれない・・・愛してくれないって思って・・・」

ノッコは何も言えずただうつむいていた。

そんなときナースが部屋に入ってきて

「点滴終わりますね。お疲れ様でした」と言って貴子の点滴を外した。

「それではお疲れ様でした、下の受付の方へお越しくださいね」と言ってナースは出て行った。

「貴子ちゃん、大丈夫?」とノッコは聞くと、

「はい、大丈夫です。帰ります」と貴子は言った。

ノッコは心配だったので

「じゃあ、家まで送るね」と言った。

ノッコは受付で診察料と治療費を払って病院を出た。


時刻はすでに9時近くになっていた。電車で貴子の家のある目黒の方へ向かった。目黒駅から住宅街の方へ二人で歩いて行った。貴子はだんまりしていた。

ノッコは「マジソン郡の橋」なんかを貴子に見せるんじゃなかったと後悔した。

「あの・・・あんな映画見せちゃってごめんね」

とノッコは言ったが、

「いえ・・・」と貴子は一言だけつぶやいた。

しばらく閑静な住宅街の夜道を歩いていくと貴子の実家の一軒家があった。

貴子は「ありがとうございました、ここでいいです」と言ったがノッコは家の中まで見送ることにした。

貴子はさよなら、と言おうとしたがノッコは勝手にドアフォンを鳴らしてしまった。

「ちょっとノッコさん?」貴子は慌てたが

貴子のお母さんの早苗が出てきた。

「あら、どちら様でしょうか?」

早苗はノッコの姿に驚いて聞いた。しかし、その後ろに貴子の姿が見えたので

「貴子!ちょっとどこ行ってたのよ、遅いから心配したのよ。携帯に電話してもメールしても返事しないから」

貴子はうつむいたままだった。

「どうした、何の騒ぎだ?」貴子の父の義孝が二階の寝室らしきところから階段を降りて玄関まで出てきた。

「あら、あなた帰ってたの?早いじゃない。ただいまくらい言ってよね」早苗は不機嫌そうにそう言った。

「悪いか、出張だったから早く戻ったんだ。疲れたから寝室にいただけだ」義孝も同じく不機嫌そうにそう言った。

「あの・・・」とノッコは話を切り出そうとすると、

「すみません、失礼ですけどどちら様なんですか?貴子をこんな遅くまでどこに連れまわしてたんでしょうか?」早苗はかみつくようにノッコにそう聞いた。

「あの・・・私山本紀子と言います。訳あって貴子ちゃんを預かってました。毎週金曜日に家に来てピアノを弾いたり・・・作曲したり」ノッコはどう話したらいいのかよく分からなかったのであいまいでで意味不明な説明になってしまった。

「どうして・・・そんなことするんですか?何なんですかあなた一体?」早苗はよく分からなくてそう聞いてきた。

ノッコはもう少し詳しく説明しようとしたが、

「ノッコさんはね、シンガーソングライターなの。音楽で悩んでいる人を救うNPOをやってるの。それで、私ノッコさんの家に押しかけてたの」貴子が間に入ってそう説明してくれた。

「音楽で悩む・・・NPO?」早苗は何やら何のことだという風にノッコを見た。

「人生で悩んでいる人をね・・・音楽の力で救おうとしてるの」貴子は付け足した。

「よく分かりませんが・・・うちの貴子が何かあったんですか?」早苗は聞いた。

「悩みってなんだ、よく意味がわからん」義孝もそう言った。

ノッコは思い切って言ってみた。

「貴子ちゃんの悩みのことは聞きました。もうご存知じゃないんですか?」

「何をですか・・・?何の事だかさっぱり」早苗がそう言うと

「今日・・・貴子ちゃんは・・・手首を切りました。幸い病院で一命は取りとめましたが、危ないとこだったんです。これって悩んでるどころじゃありません。人生に絶望してるんです」

貴子はリストカットのことまでノッコがまさか話すと思ってなかったので

「ちょっとノッコさん」と言った。

「貴子が・・・?そんなわけありません。何かの間違いじゃないでしょうか?」

早苗は少しだけ怒ったようにそう言い放った。

「そうだ、何を馬鹿げたことを」義孝も怒っていた。

「あなたがたご両親は離婚寸前なんですよね?家庭内暴力のことも浮気のことも聞きました。貴子ちゃんは・・・それでずっと傷ついていたんです。もう誰も自分を愛してくれないって・・・誰も自分を見てくれないって」

早苗は

「ちょっと、あなた貴子から何聞いたのか知りませんが・・・勝手にプライベートの話聞いてどういうおつもりですか?」と言い、

「そうだ」と義孝も同意した。

「まだお分かりにならないんですか?あなたがたご両親の不仲がどれだけ彼女を傷つけてるか」

「ですから、これはうちの問題です。あなたに何が分かるんですか?それに・・・」

早苗が何かを話そうとしたが、ノッコは遮って

「私・・・本当の両親がいないんです!義理の父と母に育てられました・・・。義理の父と母は本当の娘のように私のこと可愛がってくれました。でも・・・それでも・・・私高校生のときにそのこと知って・・・本当にショックだったんです。それ以来人生が真っ暗闇に包まれたみたいで・・・。ですから・・・親が離婚するって子供にとってどれだけショックを与えるか分かります。あなたたちは、本当の貴子ちゃんの肉親なんですから・・・それが分からないはずないです!どうか・・・だから・・・貴子ちゃんの話をもっと聞いてあげてください」

貴子はその話を初めて聞いたのでノッコの方を見て

「ノッコさん・・・」と言った。

ノッコが必死にそう話していると早苗が

「そう言われても・・・・」と言って貴子の方を見た。

貴子は階段を走りながら急いで上って自分の部屋に入って鍵を閉めてしまった。

早苗は慌てて貴子を追いかけて部屋をノックしながら

「貴子?貴子・・・?ちょっと開けなさい。ちょっと!」と叫んだ。

玄関口にはノッコと父義孝がつったっていた。

「どうか・・・貴子ちゃんのこと考えてあげてください。ちゃんと三人で真剣に話し合ってください!」ノッコは頭を下げた。

父義孝が気まずそうに下を向いた。

ノッコは鞄からテープを取り出した。

「あの・・・これ貴子ちゃんの弾き語りの歌を録音したものです。貴子ちゃん将来は歌手になりたいんです。でも・・・両親には反対されてるって・・・。どうか聞いてあげてください」と言ってノッコは義孝にテープを渡した。

義孝は渡されたテープをただずっと見ていた。

「宜しくお願いします!」ノッコはおじぎをして家を出て行った。

「あ、ちょっと」と義孝は言ったが

ノッコはもう去ってしまっていた。

義孝は複雑そうな表情でテープをただ見ていた。

その日以来貴子はしばらくまたノッコのところに来なくなった。一度だけメールしてみたが、返事はなかった。ノッコは心配だったが、仕事も忙しかったのでしばらくの間仕事に没頭していた。そんなある日曜の午後に貴子が突然アパートやってきた。日曜日も外出できるようになったようだった。

「こんにちは、ノッコさん」

貴子は比較的明るい感じだった。

「久しぶり・・・貴子ちゃん・・・元気だった?」

二人はソファに座って紅茶を飲んだ。

「あの・・・」と貴子は話し出した。

「携帯の返事しなくて、すみませんでした」とぼそっと言った。

「いいのよ、別に」ノッコはそう言った。

「あの後色々あって」

「色々?」

「あ、いや別に悪い意味じゃなくて・・・あれ以来お父さんが怒鳴ったりお母さんをひっぱたいたりしなくなって。お母さんも浮気を止めたみたいで。相変わらず用があるとき以外はお互いにあまり口は聞かないけど・・・」

「そっか、よかった・・・ね」ノッコは少しだけ嬉しかった。

「私ね・・・ノッコさんの過去の話聞いて分かったの・・・。私なんかよりずっと辛い過去があるのに乗り越えてるんだって。だから私も頑張らなきゃって。今のところは離婚騒ぎもしてないみたいだから、安心だけど。でも・・・また離婚だなんだって話になるかもしれない。でも、私例えそうなっても強く生きてくって決めた」

「そっか・・・」ノッコはうなずいた。

「私ね・・・やっぱり音楽の道に進むことに決めました。音大か専門学校に行くことにしました。親にはまだ話せてないけど、絶対に理解してもらいます」

「そっか・・・分からないことあったらいつでも教えるよ。入学するこつとか」

「いえ・・・人に頼ってばかりじゃだめですから」

「別に気にしなくていいのに・・・」

「でも・・・時々遊びに来てもいいですか?」と貴子は聞くと

「もちろん」とノッコは言った。

貴子は嬉しそうに「はい」と笑った。

そんな時テーブルに開いていたノートPCのメールアドレスに新着メールが入っていることにノッコは気がついた。貴子が来ていたのでメールは読むのはやめようと思ったが、件名に「川澄と申します。息子のことについてご相談願います」と書いてあったので少しだけ読みたくなった。

「どうしたの、ノッコさん」と貴子は聞いた。

「あ・・・いや・・・何か私のホームページ見てくれた人からメールが入ってたみたいで」

「誰かまた悩んでる人が来るの?」

「うん・・・そうみたい。また、大変そうだ」

貴子はしばらく何か考えていたが

「大丈夫だよ。ノッコさん私のことも助けてくれたし。誰が来てもノッコさんなら大丈夫だよ。」と励ますように言った。

「ありがと、貴子ちゃん」ノッコは微笑んで言った。

「あ・・・」と貴子が窓の外を見ると雪が降っていた。

「雪かー最近振らないのに久しぶりに見たなー」

「きれい」貴子はそう言いながら窓をずっと眺めていた。

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