第1章.ファースト・ステップ
3月31日の深夜。見慣れない部屋のベッドで布団に入りながら、僕はこっそり、深いため息をこぼしていた。
数時間前に人目をはばかるようにして橙子さんの運転するライトバンで僕らはコッソリこの新居に引っ越して来たのだ。幸い、大きめの荷物はすでに引っ越し業者が配置しておいてくれたので、あとは細々したものだけで済む。
とりあえずできるだけ迅速に各自の部屋の片付けを終えた後、明日からに備えて、今日は早々と寝ることになった。
実は、今日までの一週間、僕は「渡良瀬かすみ」として暮らすための様々な面に関する“教育”を受けさせられていた。
まず1日目は、かすみちゃんのお古を着せられた。と言っても、レモンイエローのトレーナーと黒のスパッツという、あまり性差を感じさせない格好だったのは幸いだったかも。
でも、下着については、とりあえず白無地のシンプルなショーツとキャミソールをつけるように言われた。恥ずかしくて躊躇っていたんだけど、橙子さんたちにふたりがかりで脱がされちゃった。
仕方なく女物(というか、コレ、かすみちゃんのだよね? 新品じゃないみたいだし……)の下着を着けて、なるべく自分の姿を意識しないようにしてトレーナーをかぶり、スパッツを履く。
そのあと、リビングで橙子さんが髪を整えてくれた。
ここのトコロしばらく床屋に行ってなかったせいで、割と伸び放題だった僕の髪は、器用な橙子さんのハサミさばきで、みるみるうちに女の子っぽいセミロングの、昨日までのかすみちゃんとソックリな髪型に揃えられてしまった。
反対にかすみちゃん本人は、美容室に行ってベリーショートにしたみたい。よく見れば、その髪型って、僕が初めてかすみちゃんと会った頃のモノに似ているような……。
しかも、僕がこのマンションに持って来た僕の服──洗いざらしのダンガリーのシャツとジーパンを、さほど違和感なく着こなしている。「もしかして、下着も!?」とは、さすがに恥ずかしくて聞けなかったけど、たぶんソッチも。
とりあえず、その格好のままで、かすみちゃんから、橙子さんの描いたマンガ全巻読破するように言われた。
「だって、「かすみ」はママの娘なのに、自分の母親の作品について知らないのはヘンでしょう?」
一応、僕だって恋人の仕事には少なからず興味はあったし、多少は目を通したこともあったんだけど……。
ただ、橙子さんの連載って、圧倒的に少女マンガ誌が多いんだよね。7割がたが少女マンガで2割がレディコミ、残る1割程度がマイナー系少年誌。
成人男性としては、少女マンガを書店で買うのにちょっと抵抗があって躊躇っていたんだけど、橙子さんの“娘”として振る舞う以上、確かに“母のお仕事”をよく知らないのはヘンだ。
そもそも、橙子さんの作品は、中学生から高校生くらいの女の子がメインターゲットなんだし。
僕は、橙子さんのマンションの一室にこもって、壁の本棚に揃えてある橙子さんの著作をひたすら読み続けた。アニメ化されてる作品も何作かあるけど、そちらはDVDを流しっぱなしにして、時々目を向けるだけに留める。
最初は多少抵抗があった少女マンガも、いざその物語に入り込んでみると、意外なほど面白くて、いつしか僕は夢中になって読み続けていた。
身内の贔屓目を抜きにしても、橙子さんが人気作家だってことが十分納得できる。むしろ、これまでたまに読んでた少年誌や青年誌のマンガより、僕の性に合っているかもしれない。
そうやって根を詰めたおかげか、日付が変わる頃には連載中のものも含めて、全巻読破することができた。
もっとも、その日の夢の中では、読んだマンガのキャラたちがゴッチャになって登場してカオスなストーリーを展開してくれたのだけれど。
2日目の朝起きると、枕元にはシンプルな白のブラウスと、モスグリーンのキュロットが置いてあった。下着も昨日より少しだけフェミニンなデザインになっている。
たぶん、僕の感情を考慮して、少しずつ違和感の少ないものから着せて馴らしていこうという魂胆なんだろう。
確かに、ブラウスはボタンのつき方さえ除けば男女いずれが着てもおかしくないデザインだし、キュロットも股が割れている分、ショーツパンツだと思えば比較的抵抗感は少ない、かな。
──トントン!
僕が起きて着替えた頃をみはからったかのように、ノックして部屋に橙子さんが入って来た。
「カズくん、ブラッシングとお肌の手入れの仕方を教えてあげるわね」
そう言って僕を鏡台の前に座らせた橙子さんは、懇切丁寧に髪の梳き方と整え方、化粧水やファンデーション、洗顔フォームなどの使い方を教えてくれた。
これまで、化粧はもちろんのこと髪の毛にさえロクに気を使わず、せいぜいデート時に安物の整髪料をつけて適当にクシを入れるだけだった僕にとっては、すべては未知の領域の話題だった。
最初は色々失敗もしたけど、何度か繰り返すうちに、橙子さんから一応の合格をもらった。
「あとは慣れと、自分なりのアレンジかしら」
うぅっ、精進します。
で、ご飯を食べたあとは、今度はかすみちゃんから教科書一式を渡された。
「とりあえず、中学3年生の学習範囲は飲み込んでないと──大丈夫だよね?」
「もちろん!」と言いたいけど、実は数学とか英語は結構危ういかも。英語は大学の2回生以来ほとんど目にしてないし、私大文系だったから数学なんてほとんど忘れてそうだ。
結局、その日はかすみちゃんの部屋にカンヅメになって勉強机に向かい、教科書と参考書のページをめくることで、ほぼ一日が費やされた。
「で、どうなの、学習成果のほどは?」
夕飯時に橙子さんに聞かれたけど、脳みそパンク状態の僕はほとんど上の空。代わって、時々様子を見に来てくれていたかすみちゃんが答える。
「うーーん、国語と歴史、地理は問題ないけど、理科と英語はギリギリ、数学は今後に期待、ってトコロかな」
かすみちゃんが通う予定だった高校“星河丘学園”は、進学校ではないものの市内でもそれなりのレベルなので、新学期からは気合い入れて勉強しないと、このままだとついていけなくなりそう、とのこと。
(ちなみに、かすみちゃん本人は、実はすでに大検に合格できるくらいの学力があるらしい。天は二物も三物も与える人には与えまくるんだなぁ)
「そうそう、パパ、ご飯のあとは実力テストするから」
か、勘弁してよーー!
その日の夜は、案の定、「授業中に先生に当てられたけど、わからなくてそのまま立たされる」なんて、イヤな夢を見てしまった。
おかげで、3日目の寝ざめはあまり気分がよろしくない。ただ、その夢の中で、僕が女子の格好をしてたのは……。
「これのせい、だろうなぁ」
壁には、この春から「渡良瀬かすみ」が通う予定の星河丘の女子制服がかけられていた。
「これを着て通う自分の姿をイメージするように!」とは言われてたけど、まさか夢に見るとは思わなかった。
ちなみに、枕元に置かれた今日の下着は、薄いミントグリーンのブラとショーツ──って、ブラジャぁ!?
「あらあら、でも、そろそろ慣れておかないと……ね?」
うぅ、それはわかりますけどぉ、橙子さぁん。
「大丈夫、着け方はわたしが教えてあげます」
と言うわけで、「正しいブラの着け方」なる緊急講座を受けさせられた。
ふむふむ、ストラップを肩にかけてブラの下側を持ち、からだを前に倒してバスト部分をカップの中に入れ、そのままの姿勢で後ろのホックを留める、と。
で、前かがみになって脇腹の余った肉をカップに寄せ入れる──って、ちょっとだけど膨らみができてるぅ~!
「うふふ、カズくんも女の子のヒミツ、少しだけ理解しちゃいましたね」
こ、これは、かるちゃーしょっくかも。
で、その上に着るのは……え、セーラー服!?
「うん、「渡良瀬かすみ」がこの間まで通ってた中学の制服だよ。今日はそれを着て女の子の格好に慣れてもらうから」
いきなりハードルが高すぎると思ったものの、かすみちゃんは許してはくれず、橙子さんがおもしろがっていることもあって、僕は黒地に白いラインの入ったセーラー服とヒダスカートを無理矢理着せられてしまった。
──着るのは無理矢理だけど、サイズ自体はほぼピッタリなのが、ちょっとショック。
で、その女子中学生の格好で、今日指導されるのは──えっと、ティーンズ向けの週刊誌?
「そ。バックナンバーも取ってあるから、これを読んで、ひととおり女の子の会話についていけるようにならないと」
それはいいけど──なんか、女の子指導って言うわりに本ばかり読まされてる気が。
「う……し、仕方ないでしょ! アタシだってあんまり女の子らしいタイプじゃないんだし」
自分で言う通り、かすみちゃんはどちらかと言うと元気でボーイッシュな子だ。顔立ちも十分整ってはいるんだけど、童顔で若々しい橙子さんとは逆に、大人っぽくて凛々しいタイプだし(亡くなったお父さん似らしい)。
ん? だったら、僕もそういう路線で行けば……。
「あらぁ、それはダメよ、カズくん。かすみは元々女の子だから、多少ボーイッシュに振る舞ってもキチンと“女の子”に見えるけど、カズくんの場合は元が男の子でしょ」
いえ、橙子さん、さすがに二十歳過ぎた男性つかまえて“男の子”って表現はどうかと思いますよ。
でも、言われてみれば、その通りだ。むしろ僕の場合、多少女の子らしさを強調するくらいがちょうどいいのかもしれない。
「そーゆーこと。じゃ、「15歳の女の子の常識」の自習、よろしく~」
ヒラヒラーっと手を振ったかすみちゃんは、ちゃっかり僕の会社員時代の背広を着こんで、これから出かける様子。
「外で男らしさの実地訓練」らしいけど──大丈夫かなぁ。まぁ、確かに、その格好だと一見したところ20歳前後の若い男性に見えなくもないけど。
「そうそう、雑誌読むのに飽きたら、こっちの本見て練習してみたら?」
と、渡された本の題名は「女声トレーニング キミも女子の声になれる!」──って、ちょ、こんな本が出てるの? てか、なんでこんな本持ってるの!?
「HAHAHA! もちろん、可愛い“娘”のために買って来ておいたのサ! 備えあれ憂いなしってね」
アメリカナイズされたイイ笑顔でサムズアップすると、かすみちゃんは外へと出かけて行った。
で、その後、10冊ほどバックナンバーがあるとは言っても、雑誌くらいはすぐに読み終えてしまうワケで……。
昼前にして暇をもてあました僕は、橙子さんのお手伝いをしてお昼ご飯を作る。売れっ子マンガ家さんだと、こういう雑事専門のアシスタントを雇ってる人もそうだけど、橙子さんは違うみたい。
「うふふ、あの子はあまり家事の手伝いはしてくれなかったけど、新しい「かすみ」ちゃんは頼りになりそうで、ママ嬉しいわ♪」
セーラー服の上からピンクのフリフリのエプロンを着せられた僕を見て、嬉しそうに笑う橙子さん。
そりゃ、これでもつい先々月まではひとり暮らししてましたからね。簡単なおさんどんや掃除洗濯くらいは出来ますよ。
あ! でも、そうか。マンガ自体の手助けは出来なくても、こういう家事の面でのフォローは僕にも出来るのかも。
そして昼から本格的に暇ができた僕は、結局、かすみちゃんからもらった発声の本を読んで、いろいろ試してみた。自分では、それなりに女らしい声が出るようになったと思うんだけど……。
「バッチリ! そのままアタシの友達とカラオケ行っても違和感ないよ!!」
「わぁッ、かすみちゃん、いつの間に帰って来てたの!?」
ともあれ、僕の練習の成果は橙子さんにもお墨付きをもらい、ひとまず成功した、のかなぁ。
それにしても、その夜見た「オーデションを受けてアイドルデビュー」って夢はあんまりだと思う。
いい加減、この“立場入れ替え予習”に慣れたと思っていた僕も、4日目の朝に枕元に置かれていた代物を見た時は、思わず「無理むり、ぜーーーったいムリ!」と叫んでしまった。
丸首部分と袖の部分が赤く縁取られた白無地の半袖シャツ、いわゆる体操服については問題ない。
でも、そこに一緒に置いてあるストレッチ素材のエンジ色の女性用体操着──ブルマーを僕が履くことは、視覚的に無理があると思う!
「うーーん、いくらカズくんのが小振りとは言え、やっぱりこういうピッタリしたものを履くと多少は目立っちゃうでしょうね」
──何か、夫として絶対妻に言われたくない単語が混じってたような気がするけど、動転していた僕は、「うんうん」と首を大きく振って橙子さんの言葉に同意した。
「だーーいじょーぶ! こんなコトもあろうかと、インターネットで秘密兵器を手に入れておいたから!!」
なぜか紺色の作務衣を着てねじり鉢巻きをしたかすみちゃんが、妙なハイテンションで部屋に入って来た。
「まずは、これを読んでみて」
えーと、「タック~接着剤による股間整形~」──って、何、これ?
要するに、手術とかで使う皮膚用の接着剤を使って、男性の股間を女性みたいに見せかける方法、らしい。
PCからプリントアウトしたらしいその紙には、具体的な方法も詳しく載ってたけど、こんな複雑なこと、ひとりじゃ出来ないよ……ハッ!
「じゃあ、手伝ってあげますね♪」
そう言ってジリジリとにじり寄ってくる橙子さん。な、なんでそんなに嬉しそうなんですか!?
「ウフフフ……」
──アッーー!
結局、裸にされて浴室まで連れて行かれた僕のアソコは、まるで子供みたいにツルツルになるまで毛を剃られて、そのあと、紙に書かれたどおりの方法で、橙子さんは僕のソコを接着剤で女の子のアソコそっくりな形にしてしまった。
おかげで、女物のショーツを履いても、これまでと違って全然膨らみが目立たない。なんだかスゴく恥ずかしくて、自然と内股になってモジモジしてしまう。
「それにしても、パパ、成人男性のクセにスネ毛もほとんどないなんて……」
言わないでよ! 髭もほとんどないし、気にしてるんだから。
「一応、脱毛クリーム塗っておきましたけど、必要なかったかもしれませんね」
橙子さんの言う通り、僕の脚はそれまで以上に完全に無毛のツルツルな状態になってしまった。
「これで、ブルマーでもOKですね♪」
エエ、ソウデスネ、ハイ。
で、その女子体操着姿で何をさせられるかと言えば……女性用マナー講座のDVD観賞?
「身ごなしとか、しっかり覚えるように。あとで実演してもらうから」
それはいいけど、僕がブルマー姿になった意味ってあったの?
* * *
──てな感じで、それからの3日間も、効果があるんだかないんだかわからない色々な“女の子教育”をされて、ようやく今日の昼になって解放されたのだ。
その一方で、かすみちゃんは橙子さんのアシスタントをする傍ら、頻繁に僕の服を着て外へ出かけ、日焼けサロンで肌を褐色に焼いてきたり、パチンコでボロ勝ちしてホクホク顔で帰ってきたりと、成人男性ライフをフリーダムに楽しんでるみたいで、なんかフクザツ。
そりゃ、かすみちゃんは4月からも原則的にはウチにいて、橙子さんやせいぜい編集の人達(すでに事情は説明済み)くらいとしか顔合わさないもんね。失業中の僕の──“渡良瀬和己”の行動を無理にトレースする必要はないし。
近所付き合いにしたって、引っ越してから新たな「渡良瀬家の夫」としての顔をご近所に認めさせれば、それで済む。
それに対して、僕は「渡良瀬家のひとり娘の女子高生」として学校に通う関係上、どうしても社会的な立場や常識に従わざるを得ない。だから、僕の方が覚えることが多いのも仕方ないんだろうけど……。
う~、なんか理不尽だよぅ。
それに──夜が明けて目が覚めたら、その瞬間から僕は、この家の中でも“娘のかすみ”として扱われるんだ。
これまでは練習期間ってことで、橙子さんも僕を「カズくん」と呼んでくれてたんだけど、新居に引っ越した以上、心機一転、家族だけの時も新しい立場で振る舞うって、みんなで相談して決めてあった。
だから、今僕が寝ている部屋も、年頃の女の子らしい薄いピンクの花柄の壁紙で飾られているのだ。
室内には、白いタンスやチェストボックスのほかに、かすみちゃんが小学6年のころから愛用している勉強机と、中学入学時に買ったと言うドレッサーも置かれている。
そもそも今の僕自身、明るいオレンジ色の可愛らしいデザインの女性用パジャマを着ているし、その下に着けてるのだって……。
あ~、もう考えるのヤメヤメ。寝よッ!
──こうして僕は、“
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