☆7
困った。
リハーサルのときは、セイヨクが風呂に入ったタイミングで抜け出せた。ところが本番一時間前、今夜は風呂に入らないと宣言されたのだ。
2階のベランダから飛び降りるか。ベランダの下はリビングルームで、ここにセイヨクがいる。大きな窓から丸見えなので、飛び降りたら必ず見つかるだろう。
やはり玄関から出るしかない。問題はドアを開閉する際の音。家中に響いてしまう。なるべくソフトに開け閉めしよう。泥棒になったつもりで。
21時。
着替え、洗面道具、お菓子、水筒などを詰めた大きめのリュック。ロープを結びつけて部屋の窓から吊り下げ、そっと庭へと降ろした。
準備万端でタイミングを窺う。ソファに腰を下ろし、アニメを観ているセイヨク。玄関はリビングの横にあり、ソファから見通せる。
テレビの前から、なかなか離れてくれない。間もなく21時30分。ぐずぐずしていると、月が南から移動してしまう。
そのときセイヨクが腰を上げた。この動きはトイレだ。アリスはキッチンへ行くそぶりで、玄関に近づく。
トイレのドアを閉める音。アリスは急いで靴を引っかけ、ドアノブをつかむ。
「トイレットペーパー、トイレットペーパーは……と。あれ? アリス、どこ行くんだい?」
くるっと振り返る。何食わぬ顔で、
「パパ、コンビニに行ってきます」
「だったらパパも一緒に行くよ」
「一人で大丈夫」
「こんな夜遅く、一人じゃ危ないだろ」
「自転車で行くし、それにもう中学生だから」
「まだ小学生と変わらないよ。アリスは女の子なんだ。怖いおじさんが近寄ってくるぞ」
言いながらセイヨクはアリスに近づく。
「来ないで!」
セイヨクはつんのめり、足を止めた。
アリスは声を震わせ、
「本当に一人でいいから」
膠着状態。三十秒ほど。
「……だったら、こうしよう。パパは護衛としてアリスの後ろをついていく。5メートル、間隔をあけて」
「ついてこないで」声を荒らげる。「もしついてきたら……もうパパとハグしないから」
「何を言うんだ……アリス」
セイヨクは視線を泳がせて、うろたえる。
「わかった……わかったよ、アリス。パパは行かない。それじゃ、ちょっと……ちょっとだけ待っててくれ」
一旦リビングに入り、何かを手に戻ってきた。
「これを持っていきなさい」小型の催涙スプレー。「襲われたら、これを使って」
アリスは催涙スプレーを、テディベアのぬいぐるみポシェットの中に忍ばせた。
「ありがとう、パパ。行ってきます」
「できるだけ早く帰ってくるんだぞ。今から十五分経っても戻らなかったら、探しに行くからな」
アリスは不自然なくらい深々と頭を下げた。しかしセイヨクは何も感づいていないようだった。
外に出た。スーパームーンがアリスにスポットライトを当てる。
見たこともないような夜の明るさに、アリスは目を見張る。
庭に回り、室内からの視線を気にしながら、荷物を素早くピックアップ。
自転車を出し、家を離れる。
最初の十字路でふいにブレーキをかけ、アリスは自宅を振り返った。
「パパ、今までありがとうございました。アリスがいなくなっても、一人でがんばって生きていってください。パパの作るハンバーグ、おいしかった」
月を見上げる。すでに真南に達していた。
「急ごう」
ペダルを蹴り、倉庫ビルへと自転車を走らせた。
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