☆2
二階建て住宅。ダイニングにて、有澤アリスは食事の最中だった。父セイヨクとの、二人だけの夕食。
ビッグリボンのカチューシャ。ドリーミーな菫色のワンピース。白黒ボーダーのニーハイソックス。お出かけするような格好で、アリスはカニクリームコロッケを口に運ぶ。
有澤家の変わらない日常の光景。アリスは寝るとき以外、自宅では常にロリータファッションで通しているのだ。
「ごちそうさまでした」アリスは父に頭を下げた。
階段を登り、自分の部屋に戻る。
アリスの部屋は主にピンクが占めていた。
壁紙もピンク。天井もピンク。床はピンクと白のブロックチェック。
クローゼットもピンクで、収められたいくつものロリータファッションにマッチしている。
部屋にあふれるガーリーな小物。
ウサギ、クマ、イルカ、ワニ、チェブラーシカ、ピカチュウなど、大小さまざまのぬいぐるみたち。
部屋の中央には、真っ赤なリンゴ形のローテーブル。
アリスは部屋に戻るなり、ローテーブルの傍らに腰を下ろした。
八割がた描いたイラストの仕上げに、取りかかるのだ。
B4サイズのスケッチブック。36色の色鉛筆がセッティングされている。
まず絵を眺めまわし、アリスはミントグリーンの色鉛筆を取り出した。
とんがり屋根の城。バラやチューリップの咲く庭園。
三匹のラッコがチェロ、ピアノ、フルートを演奏し、お姫様と王子様が手を取り合って踊っている。
彩雲が浮かぶ空を、クジラの飛行船がのんびり進む。
アリスは小さくメロディーを口ずさみながら、夢中で色を塗っていく。
ターコイズブルー、レモンイエロー、スカーレット。次から次へと色鉛筆を持ち替えて。
手が止まる。一か所、色が決まらない。王子の髪の色。
藍も素敵だが、紅も捨てがたい。どっちにするか? 選択が正しければこの作品は成功するし、間違えれば失敗作となる。
迷う。アリスは将棋の棋士のように、絵を睨む。
「おや、またお絵描きかい?」部屋の入口に立つ、父セイヨク。「アリスは本当にお絵描きが好きだなあ」
遠慮なくセイヨクは娘の部屋へ入ってきた。ニヤケ面。スクエア形メガネの裏で、目尻が垂れ下がっている。
短い脚を折り曲げ、アリスにいざり寄る。至近距離から娘の顔をじろじろ見つめて、
「アリスはかわいいねえ」
きついアルコール臭を盛大に浴び、アリスは息を止めた。
「アーモンドアイ。ちっちゃい鼻。卵形の小顔。縦ロールのツインテール。わが娘ながら完璧だ」
すっかり固まっているアリスの顔を、セイヨクは心ゆくまで鑑賞する。ねばつく視線はやがて顔から、未成熟の体へとおもむろに降りていく。
「今日の衣装もいいよ。ボーダーのニーハイ、最高」
サムズアップ。くふふふふと、セイヨクは笑う。目尻に合わせ、口角もだらしなく垂れ下がっていく。
セイヨクは荒々しく鼻息を噴いて、
「なんてみずみずしいほっぺただ。ちょっと舐めさせておくれよ、さあ」
突き出されたグロテスクな舌。急接近。顔まであと2センチ。1センチ……。
間一髪のところで、アリスは飛び退いた。
急変するセイヨクの顔色。
アリスが面を上げるや、野球選手の振るバットのように、平手が飛んできた。
頬を押える。口の中に血の味が広がっていく。アリスは唇を噛んでこらえた。
「パパのいうことを聞きなさい」
アリスは父に向き直る。正座。折り曲げた膝に両手をのせ、顎を引く。
セイヨクは前かがみで、
「いいかい、アリス。もうママはいないんだ。パパとアリス二人きりなんだよ」
こくりとうなずく。
「アリスが中学校に行けるのも、ご飯を食べられるのも、かわいい服を着られるのも、パパが毎日休まず働いて、お金を稼いできているからなんだ。パパがいなければアリスはひとりぼっちで、どうすることもできない。生きていくことさえ、できないんだよ。わかるかい?」
こくり。
「わかっているなら、言葉で示しなさい」
アリスはぐっと血を飲み込んで、
「アリスが生きていけるのはパパのおかげです。アリスはパパを心から敬い、パパの言いつけを必ず守ります。決してパパに逆らうことは致しません」
文章を読むような調子で言った。
「いい子だ」
セイヨクは片笑み、ふたたびアリスに迫る。四つ足のイヌと化して。
アリスは正座のまま、まぶたをぎゅっと閉じた。何も見なくていいように。
荒い呼吸音。アルコール臭と口臭をミックスした、鼻がひん曲がりそうな悪臭。
ドブナメクジが頬の上をべろべろと這い上る。何度も何度も。
ドブナメクジは鼻に移動した。鼻の穴に入りそうになる。鼻息でなんとか追い出す。
耳へ移った。耳たぶをころころ転がし、もてあそぶ。まぶたへ。こじ開けられそうになり、必死に扉を押える。
最後に唇へやって来た。侵入されぬよう、固く閉ざす。ドブナメクジは唇の上を右へ、左へ、せわしなく往復する。
もはや気を紛らわすしかない。アリスはイメージする。お花畑でウサギが飛び跳ねているところを。
しかしドブナメクジが巨大化し、ウサギを丸呑みしてしまう。
あと十秒。あと十秒続いたら気絶する……そう思った直後、アリスはようやく解放された。
父が立ち去ると、アリスはベッドに顔を伏せ、声を殺して泣いた。
振り返り、色鉛筆のケースをつかんで、床にぶちまける。
完成間際のイラストを、スケッチブックから乱暴に破り取り、無茶苦茶に引きちぎった。王子も姫もラッコたちも、すっかりバラバラとなってしまった。
手当たり次第にぬいぐるみをつかんで、放り投げる。壁に激突し、ぬいぐるみたちは床を苦しそうに転がる。
アリスは部屋の窓を開け放った。外に向かって、声にならない叫びを上げる。
呪われた運命を嘆きながら。
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