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「すみません、最後にもう一度写真を撮りたいんで、ひとりで回ってもいいですか?」
「別にいいよー。あ、一個だけいいか?」
桃井の提案をあっさりと了承した花月は、じっと桃井を見た。いくら性別不詳とはいえど、女性が殴られた跡を見せているのはあまり具合がよくない。後で頬を隠せる程度の絆創膏をあげようと考えていたところで、彼女は言う。
「雛。多分ここは私有地ってことだから今日はもう来ねえとは思うんだけど。もし会っても変な気になるなよ」
「変な気って……俺、別に桜くんみたいなことは」
「うん。お前はまずあの馬鹿みたいなことはしねえとは思うけど……あの子は可哀想な子ではあるけど、あんまり入れ込み過ぎるなよ」
花月は「じゃあな」と言って、ゆったりと暮春と一緒に土産物通りを歩きはじめていた。
気のせいか、暮春は夜が明けてからのほうが元気そうだ。そういえば彼は見える人間だとは言っていたが、昨日は旧蚕月村に入ってからずっと具合が悪そうだった。昨日の儀式の影響なのかどうかは、残念ながら霊感らしきものが全くない桃井にはわかりかねる。
昨晩のことはいったいなんだったのか。
顔を腫らした桃井は、どうにか持ってきていた消毒液と絆創膏で応急処置をしたものの、切れた口の中までなかなか処置に手が回らず、物を食べるのも飲むのも、ゆっくりでなければ染みてまともに口に入れることができないでいた。
ちぐはぐな田舎道。
穏やかな顔で店を営む土産物通り。
おかしな痕跡がかけらも残らず消え失せてしまった上に、昨日うろうろしていた雛の姿も見えない。
本当に起こったことだったんだろうか、実は全部夢だったのではないのか、と思うものの、顔の腫れが生み出す熱やジリジリとした痛みが、昨日たしかに起こったことを思い返してくれる。
写真を現像して、なにかしら写っていたらいいんだろうが、それらのほとんどはフィルムを現像する際に必要以上に光を当ててしまったりフィルム送りの最中に別で撮った写真と合成してしまってできるミスだ。デジタルに移行してからは、下手したらスマホのアプリでだって簡単に写真が加工できるようになってしまったから、ますます信憑性というものが薄らいでしまった。
桃井は溜息をつきながら、写真を撮る。
どれもこれも、相変わらず作り物めいていて、あまり使えそうもない。いっそのこと、雛の実家の神社にでもお邪魔させてもらって、そこで写真を撮らせてもらったほうがよっぽどいいものが撮れるんじゃないだろうか。
そうはいっても、彼女とは連絡先の交換すらしていない、昨日の一件のときに出会った以外、なんの接点もない。何故か彼女にあまり入れ込むなと花月に警告はされていたものの、巫女なだけの彼女のどこに、そこまで警戒しなければいけない部分があるのか、わかりゃしなかった。
何枚か撮るものの、やはりちぐはぐだ。既にこの土地はオーナーのせいで、無理矢理蚕月村の光景を再現したものだとは知っているが、この違和感を加工してオブラートに包んだとしても、上手いこと写真集には使えそうもなかった。
製糸場メインにするしかないと観念してカメラを首にかけなおしたとき、影が伸びていることに気付いて、そちらに視線を向ける。
そこには、昨晩別れたばかりの雛がいた。最初に会ったときと同じように、白いワンピースを着ていた。
「……雛さん。昨日は、ありがとうございます。その……ご家族には怒られませんでしたか?」
おろおろしながら桃井が声をかけると、雛は相変わらず年齢不詳な笑みを浮かべる。
「ううん、私は全然大丈夫。あなたは? 私をかばって怪我だらけになっちゃったけど……」
心配そうに見上げられて、桃井は顔が熱を持つのを感じた。怪我が痛んでいる訳ではない。
「だ、大丈夫です! 仕事柄、トラブルに遭うのはよくあることなんで……! まさかあんな大人数にボコボコにされるとは思いもしませんでしたけど……!」
「そんな、危ないことをするものなの……?」
「い、いやあ……廃墟にやってくる人は、いろいろですから。痛いからってそれだけで仕事を捨てられる訳でもないですし……ははは……」
雛は少しだけ視線を揺らしながらも、ちらりと道を見る。
土産物通りから少し外れたおかげで、村人たちに会うことも、ほのかが目を釣り上げることもなさそうだ。
「あの、雛さんのおじいさんは宮司をしていたとおっしゃっていましたが、雛さんの家は、今でも神社を……」
「宮司って、うちの本社の場合は転勤式だから。おじいちゃんが亡くなった時点で、私たちは神社を出て、新しい宮司さんが神社を守っているはずだから」
「ああ……てっきり家族経営なのだとばかり思っていました」
「本社によってはそんなところもあるけれど、うちは違うけど」
「そうなんですか……神社の写真を撮らせてもらえたら、と思ったんですが……」
桃井ががっかりしたように肩を落としたのを見て、雛は少しだけ短くなった髪を揺らしたあと、口を開いた。
「紙とペンってある?」
「ええ?」
「既に私も引っ越しているから、私から頼むのは難しいかもしれないけれど、連絡先を教えることはできるけど。向こうで踊っている神楽も、魂鎮めの儀のときのものと同じだから、参考になると思う」
そう雛が言ってくれたことに、少しだけ桃井は目尻を下げながら、鞄からメモとペンを漁った。そして、一枚メモを破くと、雛にメモとペンを差し出した。
雛が神社の連絡先を書いている中、桃井もさらさらとメモに走り書きをして、雛に差し出した。
彼女はきょとんとして見る。
「あのう……?」
「……自分の、電話番号とアプリのIDです。いらないのなら、捨ててしまってください」
雛は少しだけ黙ったあと、そのメモを大事にワンピースのポケットにしまい、書き終えたメモを差し出した。
「お祭りの期間も書いていますから、参考にして」
「ほ、本当になにからなにまで、ありがとうございました……ああ、俺もそろそろバスの集合時刻ですので。雛さん」
桃井は最後に彼女に会釈をする。雛は薄く笑う。
「お元気で」
雛に見送られて、桃井は元来た道を帰っていった。
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「それでは皆さん、旧蚕月製糸場見学ツアー、お疲れ様でした。いろいろありましたが、皆さん楽しかったですか?」
ほのかの能天気な声が飛ぶ。
実際の彼女は小心者なのだから、この能天気な声が頑張ってつくったものだということは、一宿一飯を共にしたツアー客の誰もが知っている。
昨日はなにかにつけてほのかに絡んでいた桜は、可哀想なほどに縮こまり、何故か花月と暮春の後ろの更に後ろに並んでいる桃井の後ろに並んでいた。
女を穴としか思ってないような言動を取っていた桜ではあるが、思い出せずともトラウマになるほどに女性の恐怖を刻まれてしまった様は、少しだけ哀れにすら思える。
皆が乗り込んだバスは、緩やかに旧蚕月村宿場町を出ていった。作り物めいた村が、だんだんと遠ざかっていく。
「はあ……やっぱり年だわ。徹夜してると肌に悪い」
「花月先生、普段から肌にいいことなんかひとつもしてないでしょうが」
「失礼だなあ、暮春。俺だって肌が黄色くなるほどもみかん食べないように気を付けているし、ストレスが溜まらないように定期的に煙草吸ってストレス発散してるわ」
「……それ、どちらも肌には悪いことだと思いますよ?」
この作家と編集者は相変わらず過ぎるやり取りを続けていたが、その中、窓際に座っていた暮春が「あ」と窓の外を見る。
「どしたー?」
「いえ。先程、雛さんが見えました」
「マジか。この辺り、私有地なのにどうやって入ったのかね、あの子も」
ちらりと後ろの座席を見ると、桃井が窓を開けて手を振っているのが見える。ほのかが注意してないことからして、ギリギリセーフということらしい。
花月は桃井に聞こえない程度の声でぼやく。
「……マジで骨抜きにされてんなあ。ここに通わなきゃいいけど」
「ええ? 一応昨日の儀式で、少なくとも一年は大丈夫ですよね?」
「まあ、マジな話。あの子があそこの村にちょっかいかけるのを止めたらなんにも言わねえけど、あそこの村にちょっかいかけ続けるのを止めないことには、もう会わんほうがいいと思うけどねえ、お互いのために」
「ええ……? 思ってましたけど、花月さん。桃井くんと雛さんのこと……」
桃井と雛は淡い関係だろうとは、見ていても思う。そして桃井は大人なのだから、彼女に対してなにも言うことはないだろうに。
そもそも本当に珍しく花月が人の色恋に対してあからさま過ぎる拒絶反応を示しているのに、暮春は戸惑って声を上ずらせる。
それに花月は鼻で笑った。
「……弱いから守らないといけないって思わせることを、処世術だと思わないのは何故なのかね」
「ええ……?」
花月の珍しいあからさまな毒に、暮春は戸惑いながらも、桃井の姿をちらりと見る。
年の離れた女の子に片思いしていても、彼は大人しい人種であり、無理矢理にことを運ぶ人間でもないだろう。
上手くいくというのは、世間体的にまずいだろうから、せめて思うことくらいは自由でいてほしいと思うのは、自分が男だからだろうか。
蚕月村跡地はどんどん離れていき、桑の木の森が広がって、とうとうなにも見えなくなった。
あと何回かトンネルを潜り抜ければ、東京のはずだ。
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バスは森に入り、見えなくなってしまった。
それを雛はいつまでも眺めていた。
今までも、優しい人たちには出会い、そのたびにその人たちの善意を食らってきていた。
あの花月とかいう小説家からは最初から最後まで警戒されてしまったのは、彼女は性別不詳に見えるが女性だからだろう。
雛が和鋏で切った不揃いな髪が、風になびいてうなじが見えた。彼女のうなじの裏には。
粘着質な繭玉が、糸を引きながら彼女の後ろで転がっていた。花月は霊感がないらしく、こちらを警戒はしていたものの、最初から最後まで、彼女の繭玉に気付くことはなかった。彼女の助手を務めている暮春と名乗っていた編集者は霊感が強いらしいが、旧蚕月村の付近は相当空気が澱んでいるので、彼の強い霊感が麻痺してしまい、返って雛の気配に気付くことはなかったようだ。
「大丈夫だから、花月さん」
雛は誰にも聞こえないような声で、そう囁く。
ポケットに入れていた桃井の連絡先を書いたメモを取り出すと、それを細かくビリビリと破いた。
「……私だって嫌なんだから。本当は。人の善意を食らってなんて、生きたくはないから」
ふいに風が強く吹いた。メモは風に乗って細かく飛び散ってしまう。
あの人は死ぬことなく、生きて村を出るのだから、このまま生きて、自分のことなんて忘れて幸せに暮らして欲しい。
観光客を生きて外に出すことで、罪滅ぼしができるなんて思ってはいない。あの小説家はどこまで読んでいたのかはわからないが、きっと心までは読み切れてはいない。
生きていてほしいという願いと、頼むから死んでほしいという欲は、雛の中では全く矛盾していない。
それがおじいちゃんから継いだ自分の役割なのだから。
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