午前七時:旧蚕月村跡宿場

 ほのかが目を覚ましたとき、布団の中で寝間着で横たわっていた。ぼんやりと天井を見上げると、電灯の紐がぶら下がっている。

 窓からは作り物めいた田舎の景色が広がり、朝の穏やかな光が降り注いでくる。


「……夢、だったの……?」


 ほのかは頭を押さえる。仕事柄、すぐに寝られるのは彼女の取り柄だが、どうにも体の疲れが取れていないような気がする。頭は重いし、喉が熱を孕んでいる。疲れが全く取れてはいないのだ。

 昨日起こった不条理なことを思い返す。

 廃工場ツアーの際に現れた不法侵入者の女の子に、ツアー客の宿の付け火。突然の宿替えに行方不明者。

 もう知らないと不貞寝をかましていたら、部屋に落ちていた繭玉に取り込まれて、助けを求めたくっても喉も絹糸で抑え込まれて声のひとつも出せなかった。おまけに変な人々の声が聞こえるし、なにかが燃える匂いがするし、悲惨なことこの上なかったような気がするが……。

 ほのかは思わず腕を見る。ねちゃねちゃした糸で囲まれていたような気がするけれど、彼女の寝間着が糸を引く気配はない。


「あ、あはは……あはははははは……」


 今回はあまりに悲惨な場所で、悲惨な目に遭ったせいで、転職を考えていたせいで夢見が悪かったんだ。きっとそうだ、だからあれは夢だったんだ。

 ほのかは心底ほっとしながら、枕元のスマホを確認する。今日は弁当が届かないから、腹ペコのまま東京への帰路に着かないといけないが、それでもうかまわないと思っている。

 滞りなく観光客を東京に送り届けたら、あの訳のわからない連中とも無事に縁が切れると思ったらせいせいする。会社に戻ったらすぐに辞表を出そう、そうしよう。

 彼女は元気に制服に着替えようとして、「あら……?」と呟いた。

 制服をかけていた壁際に、塩がこんもりと盛られていたのだ。小皿に盛られた塩なんて、昨日は部屋になかったはずだ。今回行く場所が曰く付きだから、神社で手を合わせることはあっても、ほのかは盛り塩の効果については懐疑的であった。よく見たら、部屋の四隅全てに盛り塩が配置されているのだ。

 まさか……と思う。

 昨日の出来事が本当だったとしたら?

 心配した人によってお祓いをされていたのだとしたら?

 幸い自分は繭から脱出できただけで、一歩間違えたら蚕になっていたとか、死んでいたとか、ありえたのだとしたら?

 昔読んだホラー漫画や映画の内容が頭を駆け巡っていく。自分が見える体質だと気付く前は面白がって見ていたが、見える体質だと知ってからは、好まなくなった類のものだ。


「な、なによぉ、なによなによ。私、絶対にもう廃村ツアーとかになんか行かないんだからぁぁぁぁぁぁ……!!」


 制服に着替えるより前にしないといけないことがあると、ほのかは備え付けの机の前に座り、レポート用紙を取り出した。辞表を書いてしまわないといけない。転職活動とか知るもんか、あんな会社に二度と関わらないと、ほのかは涙目のままであった。


****


 暮春は寝ぼけた顔をしながら、洗面所で髭を剃っていた。

 体はそこまで疲れていない。中年は疲れは二日後三日後に来るのだから、きっと明日明後日悲鳴を上げることだろう。それまでは仕事をできる限りデスクワークに固定しておかないと死ぬなと考えながら、昨日のことを思い返す。

 花月と取材先で一緒になった場合、大概ろくでもない目に遭っているが、今回も本当にろくでもなかった。まあ、幸いなことに人死にが村人からも客からも出なかった。本当にそこだけは救いである……そこしか救いがないとも言えるが。

 帰ったら神社にお祓いにでも行くか。そう考えをまとめて、食堂に出かける。

 花月は既に帰り支度を完全に終わらせて出てきていたが、船を漕いでいた。


「おはようございます」


 返事の代わりに、あくびが返ってきた。


「三十超えたら、十二時までには寝ないとやっぱり駄目だわぁ……眠くてたまらん」

「昨日一番大人げなく暴れたのはあんたでしょうが。顔、大丈夫ですか?」


 花月の右頬には、未だにくっきりとした青痣が浮かんでしまっている。いくら言動が乱暴過ぎる花月だとしても、三十路を越えているとしても、彼女は女性だ。破天荒が過ぎても目立つ場所に青痣ができてしまっては駄目だろうと暮春は思う。

 彼女は右頬をそろりと撫で上げると、にやりと笑う。少しだけ引きつった笑みになっているということは、やはり腫れて痛みが伴っているのだろう。


「あんまり治らねえようだったら皮膚科に行くから心配すんな。どうせ東京に帰ってからはしばらくは原稿だから、外に出る用事はありゃしねえよ」

「そう……だといいんですけど」


 いつものあっけらかんとした態度にほっとすればいいのか、「そろそろ年相応の落ち着いた行動を取ってください」と説教すればいいのか、暮春もわからなかった。

 まだ結婚もしてないというのに、小うるさい姑とか、反抗期の子供を持った親のような気分だ。

 そう考えていたら「おはようございます……」ととことこと食堂まで桃井も出てきた。桃井も昨日さんざん村人に殴られ蹴られをしたせいか、花月以上に顔が腫れ上がってしまっている。


「桃井くん、おはようございます……これは、さすがに病院に行ったほうがよくないですか……?」

「ありがとうございます……ですけど大丈夫だと思いますよ。廃墟写真の撮影に行ったら、ときどきたむろしている浮浪者や暴走族に襲われることがあるんで、それに比べたら力も弱かったんで、多分三日で傷も引くと思います」


 桃井は桃井で、怪我には慣れっこのようだった。インドア派の見た目ではあるが、そもそも廃墟写真なんてものは、廃墟まで出かけなかったら撮れるものでもないから、思っている以上にタフでなければやってられないのだろう。

 しばらくは互いに出版社の近くのいい皮膚科について話をしていたら、こちらのほうにのそりとした足音が響いてきた。桜である。

 桜はちらりと花月を見ると、「ひぃ……っ!」とだけ言って、一番遠い席に座った。花月はきょとんとしている。


「俺、あいつにしたか?」

「したかと言われても、結構したと思いますけど」


 大学生相手に、大人げない大人が何度も何度も「下半身優先」を連呼するもんでもないだろうし、繭玉で操られていたとはいえど桜を殴ったり燃やしたりしたら、シンプルにいい気分になるものでもあるまい。

 花月がきょとんとしている中、一応暮春は桜の席に近付いて話をしに行く。桃井はどう見ても重症だし、何故か花月を怖がっているのだから、昨日の一件で唯一無傷で済んだ自分しか聞くことはできないだろうと踏んだ。


「桜くん、昨日は大変だったでしょう? 君が出かけてから、いきなり火事になってしまいましたから、急遽宿替えになったんですよ」

「はあ? ああ……そういえば、ここって前の宿よりは綺麗だわな……」


 今更気付いたような顔をして、辺りを見回す桜に、暮春は訝しがりつつも、話を続ける。


「昨日、なにがあっか覚えてますか?」

「……覚えてねえ。出かけたことは覚えているけど、頭が霞んで……」


 だんだんと桜の声がすぼまり、小さくて聞き取れなくなっていく。昨日はあれだけ横柄で人を小馬鹿にするような態度ばかり取っていたというのに、ずいぶんと小心者の言動になってしまっていた。これでは小動物をいじめているのと変わらない。

 暮春は花月と顔を見合わせた。

 どうも、彼が出会った桑の木人形……あの村人の女性、でいいんだろうか……に桑の木人形にされた記憶はないらしい。ただ、彼には恐怖だけが植え付けられているようだ。

 口から吐き出した生糸に、女性にいいようにされた記憶。おまけに花月を襲ったところ、逆に返り討ちにされて火で炙られたら、普通は嫌になる。

 桜は覚えていなくても、女性に対する恐怖を深層心理レベルで植え付けられてしまったようだ。

 弁当は燃えてしまって届かず、ほのかから「会社からでーす」と自販機で買ったらしいペットボトルのドリンクだけ配られた。

 正直帰りのバスにカロリーなしで乗り込んで、乗り物酔いしないかと心配になるが。昨日の火事で燃えてしまったものは仕方ない。あの油が回って素材の味を殺し尽くしている弁当でも必要だったのかどうかは、帰った後にならなければわからないだろう。

 そもそもこの村で出されるものは得体が知れないから食べる気にもなれず、最終的に全員無理矢理ペットボトルを流し込んで、お腹をタプタプにするに至った次第である。

 驚いたことに、昨日はあれだけ残していた桜ですら、外に出向くことなく大人しくペットボトルを飲んでいる。覚えていなくとも、恐怖が村で食事を摂ることを拒んだらしい。

 時計を見ると、バスに乗る時間まであと三時間もある。テレビでも見てまったりできたらいいのだが、昨日の今日なのだから、迂闊にテレビでも見てたら、そのまま寝落ちてしまいそうな気がする。

 それに気付いたのか、花月は「最後に村をぐるっと回ろうと思うけど、どうする?」と声をかけてきた。

 桜は花月に引きつった顔を向けると、そのまま「ここでバスを待つ」とだけ答えた。昨日、自分たちが知らない間になにがあったんだろうと勘繰るが、本人も覚えていない以上……宿が変わったことにすら気付かなかったのだから、桑の木人形にされていたことさえ覚えてはいないだろう……なにを聞いても無駄だろうと諦める。

 桃井は少し考えたあと「行きます」と言うので、そのまま三人で回ることになった。

 暮春は歩きながら、違和感を覚えていた。


「お前、外出てからずいぶんと難しい顔してんなあ」


 花月に話を向けられて、暮春が「ああ」と言う。


「旧蚕月村跡に来てから、ずっと寒気が止まらなかったんです。得体の知れないものがいるって……昨日、おしら様……とか言っているものに出会いましたけど、あれの気配だったんでしょうか。でも、儀式が終わってからは、全然その気配を感じません」

「はあ、お前にはおしら様が見えてたんだ」


 そう言われて、暮春がきょとんとした。

 桃井も困ったように、目尻を下げている。


「すみません、俺も見えませんでした。おしら様、いたんですか?」

「暮春なあ、俺らよりちょっと霊感あるみたいで、得体の知れない場所に来たら、すぐに反応すんだよなあ。鉱山のカナリアみたいにさあ」

「勘弁してくださいよ……そもそも鉱山のカナリアなんて、真っ先に死ぬ奴じゃないですか、縁起でもない」

「で、おしら様ってどうだったんだよ。やっぱり蚕みたいな奴だったのか? それとももっと神様っぽい奴?」


 花月に尋ねられて、暮春は自分が見たものを説明してみる。それを言い終えると、桃井はますます困ったような顔になり、対して花月は顎に手を当てて考える素振りになってしまった。


「……俺には、あれが神様とは思えませんでしたよ。だって俺からしてみれば、あれはどう見ても宇宙人なんですから」

「……まあ、蚕の神なんて、地方に寄っては女の姿だったり、馬と女の神の二神一柱だったりするけど、でもまあ……はあ……」


 また花月がおかしなことを思いつかなければいいが。

 暮春がそう思っている間に、土産物通りが近付いてきた。土産物通りで働いているのは元村人たちばかりだと聞いていたが。

 昨日の今日だったら、儀式が失敗したのだから震えあがって仕事をしていないのではないだろうか。

 そう思っていたのだが。


「いらっしゃいませ」


 昨日角材やら石やら持っていた村人たちは、普通に土産物通りで働いていた。これにはさすがに拍子抜けして、暮春は驚いて口を開けっ放しにしていた。

 昨日寄ってたかって殴る蹴るをされたせいか、桜ほどの拒絶反応は向けないが、桃井は複雑そうな顔で、土産物通りの人々を眺めている。

 そこで空気を読まず、花月だけは「ちぃーっす」と声をかける。


「昨日はどうもー」

「はあ、昨日はお客さんは来てませんよね?」


 人のよさそうなお年寄りは、不思議そうな顔で首を傾げている。花月は「いやあ、通ったと思うけど」と返す。


「いやなあ、製糸場に行ったとき、帰りに寄ったと思うんだけど」

「あら、製糸場は立派だったでしょう? 昔はもっと立派だったんだけれど、廃業されてしまったから」

「うん、なかなかあの石造りの建物は見ないからさあ、でもその中で出会った気がしたけど……」

「今はあそこは観光地として公開されてますが、管理は全部この辺りのオーナーに一任してるはずですけど?」


 ふたりのやり取りに、暮春と桃井は顔を見合わせてしまった。

 昨日のことは、まるでなかったことになっているようなのだ。宿に火が付けられたことも、製糸場で行われていた怪しげな儀式も、それぞれ襲ったり襲われたりしたことも。

 なにも見ず、聞かず、知ることなく立ち去れ。

 そう言っている気がして仕方がないのだ。

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