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 桑の木のご神体が纏っていた絹布を取り外され、それに火を付けて燃やす。絹布の燃える匂いは、髪が燃える匂いによく似ていて、人が燃える匂いを思わせる。

 雛の動きには迷いがなく、その動きは厳かなのか幻想的なのかは、傍から見ている暮春にはよくわからなかった。

 ただずっと煙草を吸っていた花月は、さすがに儀式中は煙草を我慢しようと思ったのか、ミントタブレットをガリッと齧り、口の中が切れているのか「痛い」とぼやいているのだけが聞こえた。

 裸になった桑の木のご神体に、新しい絹布を羽織らせる。しかしそれはハンカチくらいの大きさで、どうにも不格好だ。何度着せようと思っても不格好で、雛が手を離せばすぐに外れて床に落ちてしまうものだから、雛は溜息を付くと、懐から和鋏わばさみを取り出し、自分の長い御髪に刃を入れた。彼女の背中を覆っていた髪がぱらりと落ち、その落ちた長い髪で絹布を桑の木に縛り付けた。

 そのときだった。


「……あれ?」


 暮春は辺りをきょろきょろと見回した。それにミントタブレットを齧るのを諦め、口の中で転がしていた花月が視線を送る。


「どうした? 狐につままれたような顔をして」

「いえ……ですね。さっきまで、こーう、なにかの腹の中にいるみたいな、得体の知れない雰囲気が製糸場にあったんですよ。雛さんが儀式をしていると、何故かその雰囲気が薄らいだというか……」

「なるほど、魂鎮めの儀式ってそういうことか」

「ええ? どういうことなんでしょうか」


 花月には霊感がなく、故に暮春がなにに対して脅えていたのか、怖がっていたのかもおそらくはわかってはいない。でもだからなのか、彼女はひどく達観した顔で、横になって気絶しているほのかに視線を送りながら言う。


「多分もう、最初に行われた儀式と変色してるんだろうな。村人がやろうとしていた儀式も、雛が行っている儀式も。本来はおしら様に感謝や祈りを捧げて、奉納する儀式だったんだろうが、一度儀式事態が途切れたせいで、おしら様が反転した」

「ああ……それは雛さんもおっしゃっていましたね」

「村人は反転したおしら様を担ぎ上げていろいろやりたかったんだろうが、村人の脅えようと見るに、ちょっとやそっとじゃ御しきれるもんじゃなかったんだろうな。で、雛がやろうとしているのは、そもそもおしら様を眠らせて反転したおしら様を元に戻したかったんだろうが……」


 そこまで言って、花月は黙り込んでしまった。暮春は「花月先生?」と言うが、彼女の視線は雛のほうに注がれている。

 暮春も仕方がなく雛のほうに視線を送ると、それに目を奪われた。

 おしら様の繭は、たしかに村人たちが村人たちのご神体と一緒に持ち帰ったはずである。だが、雛が絹布を供えた途端にどうだ。

 ご神体に急に絹糸が絡まり、どんどん大きくなっていったのだ。やがてそれが割れたと思ったら、出てきたものが雛の髪で縛った絹布を羽織ったのだ。

 肌はつるんとしてあどけない。しかしそれはどう見ても人間には見えなかった。目は黒目ばかり大きくて、白目がない。鼻がないし、口元ばかりにこにこと緩んでいる。おかっぱの謎のそれは、たしかに雛がお供えしたハンカチ大の絹布を着ているが、あのサイズをどうやって体に巻いているのかがわからなかった。

 おまけに背中には透明な羽が生えている。まるで羽化したての蚕のように、まばゆい模様が描かれている羽を下げ、にこにこしながら雛を見ている。

 これがおしら様なんだろうか。

 神話や昔話では、たびたび神の姿が描かれえているし、それは人間によく似た姿をしていたが、これはどう見ても蚕の擬人化とはいえるが、人間なのか神なのかもわからず、得体が知れないとしかいいようがない。


「……おしら様、今年も無事に生糸が採れ、奉納ができました。まことにありがとうございます」


 雛の言葉に、あどけない顔をしたおしら様は答える。


──…………。


 その声はひどく甲高いが、暮春からはなにを言っているのかがわからなかった。

 思わず花月を見て、桃井も見るが。

 花月はぼんやりと「わっけわかんねえなあ」とだけ答えた。そもそも零感の彼女には、目の前の光景が見えているのかどうかも怪しい。

 桃井はただただ、雛がご神体に向かって手を合わせているのをハラハラしながら見守っている。本来ならば、巫女装束の少女が髪を切ってご神体に捧げているという絵は絶好のシャッターチャンスだろうが、彼も野暮なことはしない。儀式が終わるのをじっと待っているのだろう。

 そして雛は、そもそもおしら様がなにかを言っているのがわかっているのだろうか。彼女はしばらくご神体に向かって感謝を捧げ、おしら様の話を静かに聞いてから「承りました」とだけ答える。

 やがて、雛は風呂敷の中からなにかを取り出した。音が鳴らないように布で固定されていた鈴である。噛ませていた布を取り払い、彼女は鈴を持って、ご神体の前で踊りはじめた。


 しゃん

 しゃんしゃんしゃん

 しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん

 しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん


 神楽である。それを目を細め、手を叩いて喜んでいるおしら様の姿を見て、暮春はなんとも言えない顔になる。

 ここで起こった出来事は、たったひと晩とはいえど、宿は燃やされる、最悪バスガイドは食べられかけたし、知人はゾンビにされかけたし、自分たちも無傷とは言い難い。たった一年の安寧を、こんなに手を叩かれて喜ばれてしまったら、怒ることもどやすこともできやしないじゃないか。

 最後に鈴を下ろし、雛は頭を下げる。


──新シイ オベベ アリガトウ


 またも甲高い声が、響いた。

 それを聞き取れたのは暮春だけだったのか、雛も聞いていたのか、他のふたりは最後まで聞こえなかったのかもわからないまま、おしら様はご神体からも、どこからもすっと消えてしまった。


****


 旧蚕月村跡地では、虫は鳴かない。少し都会であったらジリジリと鳴き声を響かせている虫はおらず、ゲコゲコとうるさいほどに騒がしい蛙の合唱も聞こえず、ただ夜風がわずかに鼓膜を震わせていくだけであった。


「あー……こいつ一番元気なんだから起きろよー」


 先程までミントタブレットを舐めながらニヒルに決めていたはずの花月は、すっかりと駄々っ子のようになって、暮春の背中にいる男の頬をツンツンと指でつついている。

 それに暮春は呆れた声を上げる。


「花月先生、あんた子供みたいなことしないでくださいよ。桜くん落ちちゃいますから」

「こいつが一番元気じゃねえか。おまけに若い。あー……俺もさすがに親父にもぶたれたことねえのにぶっ飛ばされたからさあ」

「それだけ無駄口叩けるなら元気でしょ。もうちょっとしたら宿ですよ」

「すみません、花月先生。バスガイドさんの目が覚めたら、背中が空くんですけど……」

「桃井くんも気にしなくっていいですよ、この人ときどき駄々っ子になるだけですから」


 既に人気の失せた道を、花月と暮春、桃井の足音だけが響いている。

 桃井は倒れてしまったほのかを背負い、暮春は製糸場の前で倒れていた桜を回収して背負い、職員用宿泊施設への道を歩いていた。

 本当ならば殴り飛ばされた花月もひとりでは歩きにくいだろうが、いくら夏場とはいえど夜は寒いので、こんな場所にひとりで放置しておく訳にもいかず、宿泊施設へと連れて帰るしかあるまい。

 相変わらず焦げ臭い匂いが漂っている。

 村人たちはすっかりとなりを潜めてしまったのは、儀式がもう終わったからなのか、おしら様がいなくなってしまったせいなのか。

 夜風を浴びながら、桜をおぶっていると、不思議と最初ここを訪れたときに感じたうすら寒い空気がないことに気付く。あれだけ悪寒が止まらなかったというのに、今は少々涼しいとはいえど、夜の田舎で済む程度のものだ。

 本当ならば雛を私有地の外まで送り出したかったが、彼女は首を振った。


「家族に見つかったら、また怒られるから。夜のうちに家に帰るの」

「そうですか……気を付けて。もうおしら様の心配はないかもしれませんけど、女性が夜道を歩いていたら……」


 桃井は最後まで粘ったが、雛は薄く笑って断るばかりだった。花月は「雛ー」と言う。


「……マジな話、お前もうここの村と関わらねえほうがいいんじゃねえの?」


 それには暮春も同意であった。

 ここは私有地であり、村人たちがなにかしらオーナーに対して怒っていて、おしら様を反転させて復讐を遂げたいんだろうということは、このおかしな夜を生き残っていて察することだった。

 それに対しても、雛は首を振る。


「おじいちゃんとの約束ですから。私は来年も儀式を行います。皆さんは、もう……来ないほうがいいかもしれませんね」

「まあなあ。さすがに今が一番若いのに、年々くたばってくるのに、暴れらんねえわ」


 そう花月はぼやく。

 一番村人たちの儀式を踏みにじるほどに暴れた人間がなにを言っているんだという話だが、彼女はあくまで大真面目であった。

 彼女の言動をギャグだと思ったのか思わなかったのか、雛はクスクスと笑う。


「……それでは、お休みなさい」


 雛は頭を下げると、そのまま闇に溶け込むようにして、いなくなってしまった。

 桃井は髪の短くなった彼女の後ろ姿をいつまでも眺めていたが、花月が彼の頭を小突く。


「姉ちゃんが風邪引くだろ。さっさと宿に戻んぞ」

「あっ、はい……」


 職員用宿泊施設は、相変わらず不愛想だったが、古びた部屋に古びた部屋へと向かい、気絶したままのほのかと桜をそれぞれの泊まっている部屋に布団を敷いて転がすと、残りの皆も部屋へと戻っていった。


「花月先生、顔が腫れてますから、寝る前にタオルで冷やしてくださいよ」

「濡れタオル被ってたら死ぬだろ、それにこれくらい放っておいても消えるわ」

「中年は傷の治りが遅いんですよ。あんた曲がりなりにも女性なんですから、ちょっとは顔の痣を気にしてください」

「へいへい……お前はマジで俺の母ちゃんかよ」


 花月が肩を竦めて「お休みー」と部屋へと戻っていったのを見計らい、桃井にも「お休み」と挨拶を済ませてから、暮春は部屋へと戻る。

 暮春はようやく部屋に辿り着き、のろのろと布団を出して寝っ転がりながら考える。

 中年がひと晩走り回ったのだから、疲れ切ってしまって頭もよくは回らないが。

 蚕月製糸場のことを取材に来たはずだが、この取材内容はどう考えても県や市の不正まで暴きかねないから、いくらオカルト雑誌のトンチキネタとはいえど、ネタにできないだろう。最近はどんなトンチキなネタでもすぐにネットにネタとして書き込まれてしまうし、最悪雑誌を廃刊に追い込まれてしまったら職を失う。社会派雑誌の編集者であったら一にも二もなくネタにするんだろうが、残念ながら「Ohカルト」はオカルト雑誌であり、社会派記事なんて求めちゃいない。

 そもそもあのおしら様。あれがもっと怪物めいていたものだったら因習めいたオカルトとして、蚕月村や蚕月製糸場の名前を抜きにして書けたかもしれないが、暮春からしてみればあれを神とも妖怪とも認められなかった。

 言ったら悪いが、あれどう見ても宇宙人ではないのか。UMAとかそういう類のものであり、あれを神とか妖怪とかと認めてしまうことを、向いてないとはいえどオカルト雑誌の編集者として全力で拒否していた。

 おまけにこれだけ人死にやら怪我人、想像だが行方不明者まで出しているような儀式を、現在でも放置しているこの地を観光地にしているオーナーは正気とは思えない。

 これ以上つついたら、どんな地雷が埋まっているのかわかったもんじゃない。地雷原にでも突入したら、最悪雑誌が廃刊になる。


「……没だな、これは」


 代案をどうしたものか。どの道取材に出かけてなんの成果もなかったなんて言える訳もないのだから、どうにかして別のネタを引っ張り出してこないといけない。

 いくらなんでも花月に雑誌連載用の小説を突発で書かせる訳にもいかないし、どうしたものか。

 回らない頭のまま、暮春は雑誌の代替記事のことにうなされながら、眠りに付いたのだ。


 ひと晩走り回った人にも。

 殴られるだけで終わった人にも。

 呪いに恐れおののいていた人にも。

 ただ疑心暗鬼になって恐怖に打ち震えていた人にも。


 等しく朝はやってくる。

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