十七手目「棋士の覇道」
灰色の秋空と落葉が地面を待っている日本棋院前の道路。
仁村と銀髪のみのるがスーツ姿で道を歩いて来る。
どちらも黒のスーツを着て、同じ水色のネクタイを締め、革靴を履いている。
仁村とみのるは日本棋院の前で立ち止まると、仁村はみのると向き合う。
「
「そうですね」
「緊張しているか?」
「いいえ」
「まさかこんなことになるとはな……」
「恋路亘のことですか?」
「囲碁を始めて、たった半年の奴が此処まで上がって来るなんて」
「父さん」
仁村は改めて愛する息子を見つめる。
「碁盤を挟めば、誰が相手だろうともう互角です」
「そうだな」
「父さん」
「何だ?」
「今まで、ありがとうございました」
「礼を言うのはまだ早い、行くぞ」
「はい」
仁村とみのるは日本棋院の中に入って行った。
仁村とみのるはスーツ姿でフロアを歩き、廊下が分岐する所で二人は立ち止まる。
「
「はい」
「絶対に勝つんだ」
「勿論です」
互いに頷く、仁村とみのる。
みのるは仁村の下を離れて、歩いて行った。
みのるの背中を見つめる仁村。
仁村もフロアを歩き出すと、30代のスーツを着た新聞記者の男が仁村の下へやって来る。
「仁村先生! おはようございます!」
「おはようございます」
「いよいよですね」
「はい」
「どうですか? 今年の本予選は?」
「色々と納得し難いですね」
「と言うと?」
「棋士採用試験の様子を実況中継するなんて聞いたことがありません」
「インターネットの時代ですから」
「何故、こんな大々的に中継することになったんです?」
「恋路君が恋路道商事の御曹司ですからねぇ」
「院生の対局は原則非公開のはずでしょ」
「しかしスポンサーが付くとなれば話が違ってきます」
「金持ちには勝てないってことですか」
「いや、息子さんがプロになれるかもしれないってなったら、金を払って視たいって思うんじゃないですか」
「大企業の社長ともなればそうですかね」
「囲碁ってそもそもそういう物じゃないですか。最初は紀元前2500年頃、黄帝の時代に堯帝と舜帝が考え出して」
記者の男が述べることは、仁村も全て知っているため聞き流す。
「中国では国を治める王が囲碁を打って、遣隋使や遣唐使によって日本に伝来して、飛鳥時代から平安時代まで朝廷で公家に打たれて、武士の時代になっても戦国時代や江戸時代は武将や幕府が囲碁棋士のパトロンになって」
「そして今は金を持っている企業からスポンサードを仰ぐと」
「この国は資本主義ですよ」
「経済学部の恋路君ってのが何かを象徴している気がする」
「あまり乗り気じゃなさそうですね」
「わざわざ和室で打たせますか?」
「スポンサーの要望ですから」
「そもそも師匠が同じ場合、本来はリーグ戦の前半に対局させる手筈のはず」
「恋路君は仁村先生の正式なお弟子さんではないですからね」
「ちゃんと私の門下に弟子入りさせておけば良かったかな」
「息子さんの対局を解説するってのは如何ですか」
「それは別に仕事だから何とも思っていません」
「そうですか」
仁村はエレベーターの前までやってくると、ボタンを押して昇降機を呼んだ。
「では恋路君についても伺えますか?」
「どうぞ」
「恋路君は稲穂初段から囲碁を教わったって聞きました」
「そうですね」
「稲穂初段が師匠ってことになるんですか?」
「まさか。しかし、こうなると分かっていたら、日程に提言しておくべきでした」
「最終戦で勝った方がプロになるって展開になるとは」
「二人とも全勝のトップ通過の子には負けて、それ以外は全部勝ちましたからね」
「だから、もう大騒ぎですよ。棋院の方は」
「強い子が出てきたら大体騒ぐんですよ、日本棋院は」
「しかし恋路君、強くないですか? なんであんなに強くなったんです?」
「それは私が聞きたい」
「そうですよね」
エレベーターの扉が開いて、仁村が入り込む。
「先生、最後に一つだけ」
「何です?」
「息子さんに勝って欲しいでしょ?」
仁村はエレベーターの閉ボタンを押して、記者を遮るように扉を閉めた。
日本棋院ビル5階にある座敷の対局場。昔はほとんどが座敷だったが、椅子対局化が進んで、もはや座敷が残っているのはこの5階のみである。
みのるはジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿で右の片膝を立てて、座布団の上に尻を置いて座る。力を抜いた右腕を、立てた右膝の上に乗せて、右手を下に垂らし、目を瞑って、戦いの時を待つ。
棋譜読み上げと記録係を務める男女二人の係員が、みのるの右横に長机を置いて、座布団に正座している。
テレビカメラや照明などを向ける中継スタッフが何人も見受けられる。
カメラが自分を映していることを意識するみのる。
大盤が壁に立て掛けられている観戦室。
香織はスカートのダークスーツ姿で大盤の下手に立ち、緊張した面持ちを見せる。
「仁村先生が入られます」
香織が頭を下げると、仁村も頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
スタッフの一人が叫ぶ。
仁村が感染室に入って来る。大判の上手に立った。
香織と仁村の向かい側に、対局室の様子を映すモニターが置かれる。
他にも感染室には中継用のカメラや照明を持ったスタッフ達の姿が見受けられる。
「恋路亘さんが入られます」
対局室に襖の開かれる音が鳴り響く。
職員やスタッフ達が一斉に襖の方へ振り向く。
みのるは目を開けて、遅れて襖の方へ振り向き、微笑する。
亘は足袋まで真っ黒な羽織袴姿で摺り足で畳の上を歩いて来る。
香織はスーツ姿で羽織袴姿の亘を映すモニターをじっと見つめる。
「カッコいい……」
亘はみのるの向かいの座布団に正座する。
「着物で来るとはな」
亘は喉を締めて、低めの声色で話す。
「一世一代の戦いだからな」
「時代は椅子対局だぜ」
「正座も出来ない人間に負けるはずがない」
みのるは立て膝座りをやめて、座布団に正座する。
「君の作戦か? 椅子対局をさせないってのは」
「碁を打つことに集中しろ」
「まぁいい。君が何を仕掛けたところで結果は同じだ」
「みのる君、俺の最初の相手は君だった」
「そう言えばそうだったな。君は6路盤も真面に打てない雑魚だった」
怪しく微笑むみのる。
「そんな奴がまさか此処まで辿り着けるとはな。褒めてやるぜ、ワタル君。弱い奴をぶっつぶしたって倒し甲斐が無いからな」
「俺も倒し甲斐があるよ」
「何?」
「プロ棋士以外で、俺がまだ唯一勝っていないのはお前だからな」
「一生勝てないって現実を思い知らせてやる」
「最後の相手がお前で良かった」
「最後……か。俺に負けたら囲碁を辞めるのか?」
「アマチュアとしては最後って意味だ」
「何?」
亘はみのるを睨む。
「お前に勝って、俺がプロ棋士になる!」
「女の尻追い掛けて、囲碁を始めたバカが偉そうな口叩くな!」
睨み合う亘とみのる。
亘は正座したまま目を瞑り、右の拳を胸元に当てる。
(言い返すのは簡単だ。
お互いに罵り合い、相手を論破したと思い込めば良いだけ。
そうすれば自分は相手を論破したと思い込める。
そして、相手を永遠にバカにし続ければ良いんだ。
しかし、そうじゃない。
そうするべきものではない。
相手がどうとかじゃない。
自分がどう生きたいか、だ)
香織は心配そうにモニターに映る亘の姿を見つめる。
「
亘は自分の命に問い掛ける。
(俺がどう生きたいか、そちらの方が重要なんだ。
どんなに相手が嫌な奴でも、屈辱的な言葉を浴びせてきても、屈したくはない。
どんな屈辱にも耐えて見せよう。
今、俺の命を多くの人間達が見つめている。
俺よりも相手は強いだろう。
負ける確率の方が高い。
しかし、負けたとしても、誰の目から見ても、俺の方が立派だったと思える、
誰よりも自分がそう思える、そんな碁を打ちたい。
自分自身が、香織ちゃんが言っていた、俺が囲碁を打つ理由を証明したい。
そのために、俺は全力で戦う!)
亘は瞼を上げた。
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