十六手目「囲碁棋士の父」

 街路樹のイチョウは葉を黄色くし、紅葉も赤味を帯びる。しかし空気の汚い東京の場合、地方の観光地のように美しさを保つことは難しく、アスファルトに転落して、人々や車両のタイヤに踏みつけられたり、土埃をかぶったりして、干からびて塵芥と化した遺骸の落葉も早くも現れていた。


 囲碁サロン『ニギリ』は空調を切っていても、適温で過ごせる。

 壁に掲示されたカレンダーは「2017年10月」のもの。

 時計は「4時20分」を指しているが、窓から入る太陽は既に黄昏時の夕焼け空を描き、囲碁サロンの壁紙を橙色に染めた。

 亘が黒の長袖のニットに、黒のスウェットを履いたラフな格好で、バッグを持ってビルの階段を上がって来る。

 亘が扉を開けると、サロンには、仁村がダークスーツにネクタイを締めた格好で、一人で碁盤の上で棋譜並べをしているだけで、他には誰も居なかった

 仁村が亘に振り向く。

 亘は仁村の下へ歩み寄る。

「ワタル君」

「仁村先生。香織ちゃんは?」

「まだ来ていない」

「そうですか?」

「彼女と待ち合わせか?」

「はい、ご報告しようと思いまして」

「何を?」

「合同予選の結果です」

「ほう、私も知りたいな」

 亘が碁盤を挟んで仁村と向かい合わせになるようにソファに座ると、

 仁村は亘の成績表が書かれたペーパーを手に取って眺める。

「合同予選7位。ギリギリだったな」

「なんとか」

「凄いじゃないか。よく受かったな。私の弟子も何人か負けてる」

「すみません……」

「気にすることはない。どうだった、院生の子達は?」

「不思議な感覚でしたね。まだ学校に通って、自分のやりたいことも決まっていないような子達がプロを目指して向かって来るのが」

「泣いちゃった子、居なかった?」

「居ました。でも小学生か中学生ぐらいの子は泣きませんでしたね。高校生ぐらいの比較的ちょっと大きい男の子が負けると、悔しそうに涙を流していました」

「男の子は泣くんだよ、終わりだからね」

「終わりって?」

「院生で居られるのは17歳までだから」

「なんでそんな厳しいんですか?」

「今の囲碁界は韓国や中国が実力では遥かに上で、日本もウカウカしていられない。低年齢化が進んで、若くて強い棋士がどんどん出て来ている。だから日本も対抗するために、年齢制限をどんどん厳しくしていったんだ」

「で、プロになれなかった子達は路頭に迷うと?」

「そんなことはない。マシだと思わないか?」

「マシって?」

「ワタル君って野球部だったよね?」

「はい」

「プロ野球選手になりたくて、大学社会人、10代20代の大半の時間を使ってまで野球をやってプロになれなかったら、もうアラサーだぞ? だが17歳で首を切れば18歳で大学を現役受験出来る。そっちの方がやり直しやすくないか?」

「確かにそうですね」

「まぁ、その反面、囲碁には野球で云う甲子園とか高校サッカーとかラグビーで云う花園みたいなモノが無いから、プロ選手になる前の学生時代に競技を世間にアピール出来る機会が少ないこともあって、普及が進まない面もあるんだけどな」

「一長一短ですね」

みのるも泣いてさ。17歳の時にあと一勝でプロになれなくて、日本棋院に私も頭を下げてお願いしたからね。何とかあと2年居させてくれって」

「そんなことがあったんですか」

 仁村は思い出し笑いをしながら、

「しかもその時に、お願いした役員の先生がさぁ、何日か前に対局で私が勝った先生だったから、凄く気まずくて」

「でしょうねぇ」

 亘も仁村に釣られて笑ってしまった。

「女の子は負けても泣いている子って居ませんでしたね」

「女の子達は女流採用試験があるからね」

「何故、囲碁界は女の子を優遇するんですか?」

「現実的な問題だな」

「現実的って?」

 仁村は少しだけ首を傾ける。

「君は麻雀は分かるか?」

「分かります。部室でよく遊んでいました」

「雀荘に行ったことある?」

「ああ、それは無いですね」

「分かった、今度一緒に行こう」

「ぜひ」

 一緒に笑う亘と仁村。

「麻雀にもプロ雀士ってのが存在する」

「それは何となく知っています」

「私も雀荘に遊びに行くことがあるから、プロ雀士の友人を何人も知っているんだ」

「凄いですね」

「で、雀荘だとね、男性のプロと女性のプロが居たら、女性のプロの方が給料が良いらしいんだ」

「どうしてです?」

「男性客の方が多いからさ」

「男なら若い姉ちゃんと打ちたいってわけですか」

「囲碁も男性のファンが多い。なら言いたいことは分かるだろう?」

「分かります」

「囲碁のインストラクターも女性でちょっと美人ならそれだけで人気が集まる」

「男性客の方が多いから?」

「そうだ」

「そういう世界なんですね」

「ゴルフとかもそうじゃないかな? ゴルフが趣味の棋士の仲間が言っていたけど、今はもう男子の大会がどんどん減っているんだって。でも女子の大会は増えていて、企業に所属するようなプロゴルファーも女性の方が圧倒的に多いらしい」

「選手のレベルはどうなんですか?」

「いや、囲碁も麻雀もゴルフも、男子の方が女子よりもレベル高いんだよ? レベルそのものは? だけど君は男性としてどっちと一緒に遊びたい? 男性のプロと若い女性のプロと」

「男だったら、若い女性を選ぶ人が多いでしょうね」

「芸能界もそうじゃないか? ネットでタレントのCM起用社数ランキングってのを見たら、男性よりも女性の方が数が多かった」

「女性の方が活躍し易いと?」

「違うよ。社会は性風俗産業化していくんだ」

「性風俗?」

「何年か前に、CAにミニスカートの制服を導入した航空会社もあった」

「そんなことありましたね」

「自分達の商品やサービスをアピール出来なければ、どんな企業やスポーツも値段を下げるか、若い女の色気に頼らざるを得なくなって性風俗化していくしかないんだ。雑誌や漫画の表紙、テレビ局の女子アナやお天気お姉さんとかも、結局はそう云った類の仕事でしかない良い例じゃないか」

「香織ちゃん、女子アナになろうか真剣に考えたことがあるって言ってました」

 仁村が断言する。


「君だって、香織ちゃんに会わなかったら、囲碁やってなかっただろ?」


 亘は止まる。

 仁村が亘の成績表を見る。

「囲碁を始めてから半年で合同予選を勝ち抜けるほどの棋力を得られたと云うのは、大したものだ。しかしなっ……!」

 仁村が亘を睨み付ける。

「私だって息子だけじゃない、数多くの弟子達を院生として送り出してきた。棋士になれた子も居れば、夢破れて田舎に帰った子も居る。そうやって囲碁に夢を抱いて、プロを目指して頑張ってきた子を何人も見てきたから、好きになった女の子が囲碁をやっていたから興味を持って、半年でプロになれましたなんて言う奴、私には軽薄な人間にしか見えないからね?」

 戦慄を覚える亘。

 微笑する仁村。

「君が初めてみのると出会った時、みのる激怒したよな? プロをナメるな!って」

「はい」

「私は君に謝罪した。息子が君に失礼な態度を取ったからだ」

「はい」

「でも、みのるが言った「プロをナメるな!」って意見は私も正しいと思っている」

「仁村先生」

「怒ったあいつは未熟だが、怒る気持ちは誰よりも私は分かるよ」

「プロ棋士だから?」

「そうだ」

 沈黙する亘。

 仁村は紙を亘に返す。

「次の本予選は、院生のAクラスの子達がやってくる。合同予選7位の君では非常に厳しいだろう」

 亘は紙を封筒に入れて、バッグの中にしまうと、仁村の方を見た。

みのるは合同予選を全勝で勝ち抜いた。何を意味するか分かるな?」

「はい……」

 亘は立ち上がる。

 すると、遅れて香織が囲碁サロンに入って来る。

「ワタル君、ごめんなさい」

 笑顔を作る亘。香織が亘に近寄る。

「香織ちゃん」

「合同予選どうだった?」

「7位でギリギリ通過」

「でも受かったんだから、良かったじゃん」

「そうだね」

「じゃあ、早速研究会始めようよ」

「いや、いい。本予選が終わるまで、しばらく一人でやらせてくれないか?」

「どうしたの?」

「俺、いつまでも香織ちゃんに頼っていたくないんだ」

「ワタル……君?」

 亘は微笑むと、囲碁サロンから出て行った。

 香織が仁村の方を向く。

「何かあったんですか?」

 仁村は答える。

「男になろうとしているんだ」


 亘はビルから出て来る。

 スニーカーが落葉を踏みつける。

 首を上げて、街路樹の紅葉を見つめる亘。

 亘は一人で歩き出す。

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